不運にも、似非(えせ)改革者・小泉前首相の身代わりに指名され、その猿真似をしたに過ぎない「ぼんぼんのお友達内閣」たる安部政権は、今回の第21回参院議員選挙において、「食い逃げ・勝ち逃げ」をした前政権のツケを全面的に支払わされる形で、国民の大鉄槌を受け歴史的大敗を喫した。
このことは、既に予測されていたこととは言え、その惨敗振りは(小泉前首相の個人的趣味嗜好のレベルで無責任に行われた)いわゆる弱者切捨てを容認する競争原理に基づく新自由主義政策への国民の反感・怒りの強さが見て取れる。
その意味では、この歴史的惨敗は、単に安部首相の宰相たるの資質や能力、閣僚の不祥事・不始末などに拠るものではなく(それは起爆剤として作用したに過ぎない)、その真因は、この五年間、ひたすら独特のパフォーマンスを繰り広げて国民を欺き続きけてきた小泉政権の無責任さのツケに起因するものと言わざるを得ない。
むしろ、お坊ちゃん育ちの安部首相の立場は、いずれ馬脚を現さざるを得ない宿命を誰よりも承知していた小泉前首相が「後は野となれ山となれ」式に絶妙なタイミングで引退するに際し、その花道を飾るために巧みに仕組んだ一種の身代わり、もしくは時限爆弾であったと言わざるを得ない。
因みに、孫子はリーダーの在るべき姿について『進みては名を求めず、退きては罪を避けず』<第十篇 地形>と論じている。小泉前首相の場合はまさにその逆で、エセリーダーたるの名にふさわしく「進みては名を求め、退きては罪を避け」であったと言わざるを得ない。
このようなエセリーダーを宰相として仰がざるを得ない日本及び日本人は、国家としても国民としても不幸の極みである。
その意味で、阿部首相の罪は、「官から民へ」「改革なくして成長なし」「大きな政府から小さな政府へ」などの空疎なキャッチフレーズばかりが強調され、その本質は覆い隠されていた小泉改革の恥部や暗部に目を背け、その光の部分のみに心を奪われ、恩に着せられ、恩に着て無分別にもその二代目に収まったことにある。
そのゆえに、そのツケ払いは当然のことながら自分自身で払わなければならない。普通の大人であれば、今さら「実は、騙されました。私は単なる身代わりでした」とは口が裂けても言えないからである。
ところで、8月7日付け朝日新聞の「声」欄に「郵政民営化の凍結案に仰天」と題された投稿があった。まさに仰天するその内容を要約すれば次のようになる。
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1、郵政民営化の凍結案など参院選の公約のどこにも書いてない。国民新党との野党共闘のために民主党が郵政民営化の凍結案を持ち出すならば完全な本末転倒だ。
2、二年前の衆院選は、小泉前首相が「郵政民営化か否か」を国民に直接問いかけ、焦点がはっきりしていた。小泉人気や戦略のうまさばかりが喧伝されるけれども、結果を見れば、「郵政民営化」が支持されたのは紛れも無い事実である。
3、自民党がそれをうやむやにして、なし崩しに抵抗勢力を復党させている。それに対する嫌気も選挙結果に少なからぬ影響があったはずだ。
4、民主党は(郵政民営化の凍結案をやるなら)選挙前に公約すべきで、突然持ち出すのは完全な反則である。民主党は拙速で政局を狙うのをやめ、何が自分たちに期待されているのか、もう一度、議論し直すべきだ。
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投稿者は千葉県の48歳・男性(フリーライター)の方であるが、私はこの意見に大いなる怒りと失望を感じた。そして考えた。
言葉を持ち考えるがゆえに人間は万物の霊長なのであり、そのゆえにまた人間は、仮想と現実の間に生きる者でもある。まさにその意味では、夏目漱石の彼の「草枕」にあるが如く「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される」のが人の世の常である。
問題は、この両者をキチンと弁(わきま)え、機に臨み変に応じてその兼ね合いをどう判断するかということである。
言いえれば、政治は徹頭徹尾リアリティーの世界であるのに対し、ファッションやデザイン、歌舞音曲の類は、好き嫌いの感情、感覚や感性などを主とする世界である。その意味で、前者は「智」の働く世界であり、後者は「情」の働く世界である。
この両者のいわゆるTPOを間違え、かつ、それに固執すれば「意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい」ということになる。
言い換えれば、「味噌とクソは別」なのであり「月とスッポンは違う」のである。いくら形や色が似ているからといって両者を混同すると現実の生活は成り立たないのである。
私が強い怒りと失望を禁じ得なかったのはまさにこの点にある。つまり、この投稿者(仮にA氏とする)は、どう考えても国民の司命、国家の安危に関わる政治をあたかもファッションやデザイン、歌舞音曲の類を鑑賞するが如きと同列の感情、感覚や感性をもって判断していると言わざるを得ない。
別言すれば、A氏は自分ではさも分かったつもりで書いているのであろうが、実は自分自身で何を言っているのか実はよく分かっていないのではないかと疑われるのである。
子供騙しのような彼の小泉劇場が案に相違して功を奏したのは意外とA氏のごとき思考パターンの人が多かったゆえかもしれない。もとより、A氏には怨みもつらみもないが、ここでは、「政治はファッションに非ず、国民の司命、国家の安危に関わる重大事である」という観点から論じて見たい。
一、A氏は、「郵政民営化、是か非か」の問題の本質をつかんでいない
(いわゆる抵抗勢力と目されている人達を含め)誰も郵政民営化には反対していない。問題は、いかに適切な形を取るのかということなのである。当然のことながらこれにはある程度の時間を掛けて、真摯な議論や討論が必要なのである。その粋(すい)を集めてより良いものを創るのが民主主義の原則なのである。
逆に言えば、間違っても人気取りのためのパフォーマンスに利用したり、政争の具に供してはならないのである。而(しか)るに小泉前首相は、「改革なくして成長なし」「自民党をぶっ壊す」などの詐欺師まがいのキャッチフレーズを声高に叫んで国民の耳目を幻惑し、問答無用の独裁者的な暴走政治を展開したのである。
これを民主主義の敵と言わずして何を言うのであろうか。今回は、まさにその化けの皮が剥がれたのである。
構造改革など真っ赤な嘘で、実(まこと)しやかにその本質を覆い隠し、いかにも「やっています」というパフォーマンスのみを巧妙に演出したに過ぎない。そもそも原理的に、政権党たる自民党の組織内にいて本質的な構造改革などできる道理がない。
たとえて言えば、封建支配の危機回避のために行われた江戸幕府の諸改革のごとものである。そもそも、民衆の不満に対する封建支配そのものがジレンマの極みであるのに、その幕藩体制維持を前提としての改革など所詮は小手先のものに終始せざるを得ないのが道理である。
真に民衆のための改革を企図するのであれば、先ず幕藩体制を解体すべし、というのが道理である。彼の明治維新により幕府が倒壊した所以(ゆえん)である。その伝でゆけば、自民党を改革するには外部による政権交代しかないのである。
このゆえに、自民党の組織内にいて「自民党をぶっ壊す」などいうこと自体がそもそもインチキであることを見抜く必要がある。小泉前首相のしたことは、単に、その立場を悪用して、自己一身の人気取りのためのパフォーマンスを繰り広げただけであり、その結果、自身の生存基盤たる自民党の集票組織を破壊したに過ぎないのである。まさに、蛸が自分の手足を食う図式である。
その意味で、今回の歴史的大敗に示されているがごとく、真の被害者は、獅子身中の虫たる小泉前首相に思うさま振り回され、頼みの組織をガタガタにされた他ならぬ自民党自身ということになる。が、しかし、そのように詐欺師紛いの人物を選挙の顔として首相に担いだのだからこれは自業自得としか言いようが無い。
要するに、「郵政民営化」が支持されたのではなく、国民はその小泉劇場に騙されたのである。その二代目政権たる阿部内閣がそれを国民の全権委任と曲解し、さらなる暴走政治を拡大した結果、今日の、例えば国民生活を直撃する実質的大増税などがいとも簡単に国会で可決されているのである。これを暴走と呼ばずして何を暴走というのであろうか。
ともあれ、極めてリアリティーな政治を仮想的なパフォーマンスや、ファション的感覚、好き嫌いの趣味・嗜好の感情や感性で捉えてはならないのである。
二、「過ちを知りては必ず改めよ」の精神が肝要である。
そのゆえに、「郵政民営化の凍結案など参院選の公約のどこにも書いてない」ことなど問題にすること自体が問題なのであり、そもそも次元が異なるものであることを理解する必要がある。
要するに、何人であれ、誤りは誤りとして素直に認め、「過ちを知りては必ず改めよ」の精神を堅持することが肝要であり、人間社会、それなくしては進歩は望めない。まさに「過って改めざる是を過ちと言う」のである。
三、政治は弁証法的思考をもって「正・反・合」の知恵を絞ることに価値がある。
(A氏が言うがごとく)自民党が、なし崩し的に抵抗勢力を復党させているのは、郵政民営化、是か非か、をうやむやにしているわけではない。
そもそも、物事を白か黒か、敵か味方に分けて論ずること自体が人間の叡智に反する極めて愚劣な行為なのである。人の世は、そのような短絡的な発想で事が片付くほど単純ではないのである(但し、個人や組織の内面的対決たる決断・意思決定の場合は自ずから別である)。
自民党が「なし崩しに抵抗勢力を復党させている」のはその愚かしさに気付いたからであり、その意味ではまさに進歩であり、非難されるべき謂われは無いのである。
四、「拙速」の意味を取り違えている
孫子の曰う『拙速』<第二篇 作戦>の真意は、「目的を見失うことなく速やかに達成せよ」という意味である。たとえば、中国の故事にいう「蛇足」に見るがごとく、先に蛇の絵を描き終えた男が(つい油断して)余計な蛇の足など書き加えねば、本来の目的たる酒が飲めたのである。
つまりは、目的を見失わず速やかに達成すべし、とするのが『拙速』の真意なのであり、「手段は拙劣でも速くやれば良い」とする意味ではないのである。
その意味で、A氏が言うがごとく、「民主党は(郵政民営化の凍結案という)拙速で政局を狙うのをやめ、何が自分たちに期待されているのか、もう一度、議論し直すべきだ」とあるが、これは全くの見当違いなのである。
むしろ、郵政民営化の凍結案を提出し、これを最善の形にすべく議論の俎上に乗せることは、とりもなおさず、小泉・安部二代政権による国民無視の独裁的暴走政治にキチンと対処していることを示す本質的なアッピールとなるのである。むしろ、この根本的問題を放置すれば、民主党がその資質を国民に問われるは必定である。
そのゆえに、政権交代を狙う民主党にすれば、郵政民営化の凍結案提出は、孫子の曰う真の意味での『拙速』にいささかも違わないのてあり、目的達成のためには極めて有効適切な手段なのである。
2007年08月09日
2007年07月02日
2 孫子を学ぶ意義
一、根本的・本質的な問題解決を苦手とする日本人の民族的弱点
一般的に、我が日本民族の優秀性には定評があり、ひとしく世界の認めるところであります。しかしそれは、いわゆる将帥(指導者・リーダー)としての優秀さではなく、どちらかと言えば、命ぜられたことには黙々と誠実に器用にこなす下士官・兵的資質において優れているという評価であります。
言い換えれば、大所高所からの兵法的思考ができない、もしくは不得手とするのが日本民族の特徴であり、裏を返せば、まさにそれこそが世界に冠たる優秀民族の弱点・アキレス腱に他なりません。
このゆえに、何かことが起きても、「誤魔化(ごまか)し」の別名である、いわゆる「和を以て貴しとなし」を得意とし、「まあまあ、なあなあ」で問題を先送りするだけという体質が日本社会の普遍的現象となるわけであります。
誰かが、何とかしてくれるだろうと言うわけであります。国で言えば、積もり積もった国家財政の赤字、年金、道路公団問題、官僚による公金横領とでも言うべき目を覆うばかりのお手盛り行為等々、会社組織で言えば、彼の山一證券倒産に代表される典型的な問題の先送り等々、枚挙に暇がありません。
先輩(先代)たちによる、このデタラメのツケが溜まった結果として様々な不祥事が後輩(後代)たちのある時期に噴出するという構造が日本の社会の実態と言わざるを得ません。
かつて、日本軍と直接戦った経験のあるアメリカ軍やイギリス軍、あるいはロシア軍の将軍たちの殆んど一致した意見として、「日本陸軍の下士官・兵は優秀だが、将校は凡庸で、特に上に行くほど愚鈍だ」と言われています。
とりわけマッカーサーは、「日本の高級将校の昇進は(戦争指揮の上手さ・巧みさの基準ではなく)単に年次による順送り人事によるものである。従って、日本の下士官・兵は強いが、日本の軍中央部は必ずしも恐れるに足りない」と断じています。
つまるところ、日本の高級将校たちは、戦場における指揮能力以前の問題として、戦争をするためには絶対に必要な条件、すなわち孫子の曰う「彼を知り己を知る」という兵法的思考力、あるいは戦略の構想力が決定的に欠けているということです。
つまり、日本人は、命ぜられたことを誠実に器用にこなす下士官・兵的な資質には優れていても、指導者・リーダーとしての資質には見るべきものがない、ゆえに恐れるに足らず、というわけであります。
二、世界共通の大陸的兵法思考が日本で発達しなかった理由
古来、異民族同士が血で血を洗う激しい興亡を繰り返してきたユーラシア大陸に比べて日本は周辺を海で囲まれた島国です。この海が自然の防壁をなしていたゆえに、近代まで日本が異国・異民族と戦った歴史はわずか三回(白村江の戦い・蒙古襲来・秀吉の朝鮮出兵)だけであります。
言い換えれば、殺戮に継ぐ殺戮の殲滅戦を常とし、国家や民族の存亡を賭けた戦いが当たり前の中国や西欧文明の歴史とは「月とスッポン」の違いがあり、むしろ異民族との戦争は未経験に等しいと言わざるを得ません。裏を返せば、複数の文化をまたいで物事を判断しなければならないような厳しい環境で揉まれてこなかったということであります。
要するに、外敵の侵入する恐れのない平和な島国にあって風俗・習慣・言語・思考を同じくする単一民族同士が、紛争解決の落し所を模索しつつ「まあまあ・なあなあ」の馴れ合いで持ちつ持たれつの関係を築いてきたというところであります。グローバルスタンダードとでもいうべき大陸的兵法思考が日本で発達しなかった所以(ゆえん)であります。
つまり日本人は「何が正しく、何が間違っているのか」という原理・原則で動くのではなく、まさに「和を以て貴しとなす」に象徴されるがごとく、日本人特有のあいまい・馴れ合いの情緒的大勢追随思考で動くということであり、そのゆえに時としてマインド・コントロールされ、思考停止のまま、お上(組織の上位者)の権威に盲目的に服従するという民族的欠陥が露呈されるのであります。
孫子の曰う『彼を知り己を知れば、百戦殆うからず。』<第三篇 謀攻>とはまさに上記のごとき状況を総括して曰うものであります。つまり、物事は、一面的・表面的・観念的に見るのではなく、全面的・本質的に見なければならないことを曰うものであります。
あの未曽有(みぞう)の大敗北を喫した太平洋戦争を見ても、日本人は「彼を知らず、己を知らざる者」であったと言わざるを得ない所以(ゆえん)であります。
三、かつてのサムライ達の根本思想は大陸的兵法思考にあった
ところで、原理主義と言えば、日本では彼のイスラム原理主義を想起して何か恐ろしげでえたいの知れぬものと眉をひそめる向きも多いようですが、それは日本人の勝手な思い込みに過ぎません。
基本的には、朝鮮・中国を始め、中近東・西洋の大陸諸国はすべて大なり小なりの原理主義が基調であることは常識です。
因みに、現代日本人が憧憬して止まないかつてのサムライ達は、武人の必読書たる孫子を愛読し、人間学の書たる四書五経を学び、その教えに従って行動したのです。 ここで想起すべき重要な点は、これらの書物は島国たる日本の産物ではなく、まさに典型的な大陸的発想の国たる中国で生まれた思想であるということです。
言い換えれば、サムライ達の根底には戦いに関する確たる原理・原則が貫かれていたのであり、その意味ではまさしく大陸的発想たる原理主義者であったわけです。それによって培われた素養が、例えば明治維新を支えた大きな原動力となり、世界の列強と伍して堂々と渡り合える素地を育(はぐく)んだのです。
日本人はまさにこのような良き伝統こそ、真に継承すべきであります。あたかも浮き草のごとく、情緒的な大勢の趨くままに流されるのは確かに心地良いことかも知れませんが、日本民族の将来、そして我々一人一人の将来を見据えれば不幸の源と言わざるを得ないのであります。
世界は今、グローバリゼーションの大潮流に覆われて激烈な大競争の時代を迎え、日本も明治維新・戦後に次ぐ大きなうねりの中にあります。このような危急存亡の秋にあって独り日本のみが特異な「あいまい・馴れ合い」思考に終始することは(楽で心地よいことことかもしれませんが)決して得策とは言えません。
四、日本民族に今、最も求められている思想は孫子である。
世に「助長補短策」という言葉があります。長所を助けて短所を補う策という意味ですが、元来、手先が器用で勤勉な日本人にさらに大陸的発想たる兵法的思考が加わればまさに「鬼に金棒」ということになります。
そのゆえに、今、日本人が焦眉の急として学ぶべきものは大陸的兵法思考(言い換えれば分析的思考・弁証法的思考)の代表たる孫子であると言わざるを得ません。
皆がやれば自分もやる、皆がやらなければ自分もやらないというのが日本人の特徴であります。しかし、真の自己変革のためには、そのようなあいまい、かつ情緒的な思考法は間違いであると気付くことがまず必要であります。何が正しく、何が正しくないか、そうゆう普遍的な原理・原則をもって思考すべきことが重要であります。
孫子の原文は、文字数で言えば僅か六千余文字、原稿用紙にすると十五〜六枚程度でありますが、その行間には、まさに戦いに関するエッセンスのすべてが凝縮されている優れものです。そのゆえにこそ、読み手の力量に応じて小さく打てば小さく響き、大きく打てばどこまでも大きく響くというところに特長があります。
因みに、彼の毛沢東は 「孫子には唯物論も弁証法もある」との認識を示しております。彼の武田信玄は、孫子のバックボーンたる分析的思考・弁証法的思考が苛烈な戦国の世を生き抜く知恵であることを悟ったがゆえに、孫子に傾倒したのであります。
この、言わば兵法的思考をいかに読み解き、いかに活用するかが、孫子を学ぶ醍醐味であり、孫子が今日もなお読み継がれている所以(ゆえん)であります。
一般的に、我が日本民族の優秀性には定評があり、ひとしく世界の認めるところであります。しかしそれは、いわゆる将帥(指導者・リーダー)としての優秀さではなく、どちらかと言えば、命ぜられたことには黙々と誠実に器用にこなす下士官・兵的資質において優れているという評価であります。
言い換えれば、大所高所からの兵法的思考ができない、もしくは不得手とするのが日本民族の特徴であり、裏を返せば、まさにそれこそが世界に冠たる優秀民族の弱点・アキレス腱に他なりません。
このゆえに、何かことが起きても、「誤魔化(ごまか)し」の別名である、いわゆる「和を以て貴しとなし」を得意とし、「まあまあ、なあなあ」で問題を先送りするだけという体質が日本社会の普遍的現象となるわけであります。
誰かが、何とかしてくれるだろうと言うわけであります。国で言えば、積もり積もった国家財政の赤字、年金、道路公団問題、官僚による公金横領とでも言うべき目を覆うばかりのお手盛り行為等々、会社組織で言えば、彼の山一證券倒産に代表される典型的な問題の先送り等々、枚挙に暇がありません。
先輩(先代)たちによる、このデタラメのツケが溜まった結果として様々な不祥事が後輩(後代)たちのある時期に噴出するという構造が日本の社会の実態と言わざるを得ません。
かつて、日本軍と直接戦った経験のあるアメリカ軍やイギリス軍、あるいはロシア軍の将軍たちの殆んど一致した意見として、「日本陸軍の下士官・兵は優秀だが、将校は凡庸で、特に上に行くほど愚鈍だ」と言われています。
とりわけマッカーサーは、「日本の高級将校の昇進は(戦争指揮の上手さ・巧みさの基準ではなく)単に年次による順送り人事によるものである。従って、日本の下士官・兵は強いが、日本の軍中央部は必ずしも恐れるに足りない」と断じています。
つまるところ、日本の高級将校たちは、戦場における指揮能力以前の問題として、戦争をするためには絶対に必要な条件、すなわち孫子の曰う「彼を知り己を知る」という兵法的思考力、あるいは戦略の構想力が決定的に欠けているということです。
つまり、日本人は、命ぜられたことを誠実に器用にこなす下士官・兵的な資質には優れていても、指導者・リーダーとしての資質には見るべきものがない、ゆえに恐れるに足らず、というわけであります。
二、世界共通の大陸的兵法思考が日本で発達しなかった理由
古来、異民族同士が血で血を洗う激しい興亡を繰り返してきたユーラシア大陸に比べて日本は周辺を海で囲まれた島国です。この海が自然の防壁をなしていたゆえに、近代まで日本が異国・異民族と戦った歴史はわずか三回(白村江の戦い・蒙古襲来・秀吉の朝鮮出兵)だけであります。
言い換えれば、殺戮に継ぐ殺戮の殲滅戦を常とし、国家や民族の存亡を賭けた戦いが当たり前の中国や西欧文明の歴史とは「月とスッポン」の違いがあり、むしろ異民族との戦争は未経験に等しいと言わざるを得ません。裏を返せば、複数の文化をまたいで物事を判断しなければならないような厳しい環境で揉まれてこなかったということであります。
要するに、外敵の侵入する恐れのない平和な島国にあって風俗・習慣・言語・思考を同じくする単一民族同士が、紛争解決の落し所を模索しつつ「まあまあ・なあなあ」の馴れ合いで持ちつ持たれつの関係を築いてきたというところであります。グローバルスタンダードとでもいうべき大陸的兵法思考が日本で発達しなかった所以(ゆえん)であります。
つまり日本人は「何が正しく、何が間違っているのか」という原理・原則で動くのではなく、まさに「和を以て貴しとなす」に象徴されるがごとく、日本人特有のあいまい・馴れ合いの情緒的大勢追随思考で動くということであり、そのゆえに時としてマインド・コントロールされ、思考停止のまま、お上(組織の上位者)の権威に盲目的に服従するという民族的欠陥が露呈されるのであります。
孫子の曰う『彼を知り己を知れば、百戦殆うからず。』<第三篇 謀攻>とはまさに上記のごとき状況を総括して曰うものであります。つまり、物事は、一面的・表面的・観念的に見るのではなく、全面的・本質的に見なければならないことを曰うものであります。
あの未曽有(みぞう)の大敗北を喫した太平洋戦争を見ても、日本人は「彼を知らず、己を知らざる者」であったと言わざるを得ない所以(ゆえん)であります。
三、かつてのサムライ達の根本思想は大陸的兵法思考にあった
ところで、原理主義と言えば、日本では彼のイスラム原理主義を想起して何か恐ろしげでえたいの知れぬものと眉をひそめる向きも多いようですが、それは日本人の勝手な思い込みに過ぎません。
基本的には、朝鮮・中国を始め、中近東・西洋の大陸諸国はすべて大なり小なりの原理主義が基調であることは常識です。
因みに、現代日本人が憧憬して止まないかつてのサムライ達は、武人の必読書たる孫子を愛読し、人間学の書たる四書五経を学び、その教えに従って行動したのです。 ここで想起すべき重要な点は、これらの書物は島国たる日本の産物ではなく、まさに典型的な大陸的発想の国たる中国で生まれた思想であるということです。
言い換えれば、サムライ達の根底には戦いに関する確たる原理・原則が貫かれていたのであり、その意味ではまさしく大陸的発想たる原理主義者であったわけです。それによって培われた素養が、例えば明治維新を支えた大きな原動力となり、世界の列強と伍して堂々と渡り合える素地を育(はぐく)んだのです。
日本人はまさにこのような良き伝統こそ、真に継承すべきであります。あたかも浮き草のごとく、情緒的な大勢の趨くままに流されるのは確かに心地良いことかも知れませんが、日本民族の将来、そして我々一人一人の将来を見据えれば不幸の源と言わざるを得ないのであります。
世界は今、グローバリゼーションの大潮流に覆われて激烈な大競争の時代を迎え、日本も明治維新・戦後に次ぐ大きなうねりの中にあります。このような危急存亡の秋にあって独り日本のみが特異な「あいまい・馴れ合い」思考に終始することは(楽で心地よいことことかもしれませんが)決して得策とは言えません。
四、日本民族に今、最も求められている思想は孫子である。
世に「助長補短策」という言葉があります。長所を助けて短所を補う策という意味ですが、元来、手先が器用で勤勉な日本人にさらに大陸的発想たる兵法的思考が加わればまさに「鬼に金棒」ということになります。
そのゆえに、今、日本人が焦眉の急として学ぶべきものは大陸的兵法思考(言い換えれば分析的思考・弁証法的思考)の代表たる孫子であると言わざるを得ません。
皆がやれば自分もやる、皆がやらなければ自分もやらないというのが日本人の特徴であります。しかし、真の自己変革のためには、そのようなあいまい、かつ情緒的な思考法は間違いであると気付くことがまず必要であります。何が正しく、何が正しくないか、そうゆう普遍的な原理・原則をもって思考すべきことが重要であります。
孫子の原文は、文字数で言えば僅か六千余文字、原稿用紙にすると十五〜六枚程度でありますが、その行間には、まさに戦いに関するエッセンスのすべてが凝縮されている優れものです。そのゆえにこそ、読み手の力量に応じて小さく打てば小さく響き、大きく打てばどこまでも大きく響くというところに特長があります。
因みに、彼の毛沢東は 「孫子には唯物論も弁証法もある」との認識を示しております。彼の武田信玄は、孫子のバックボーンたる分析的思考・弁証法的思考が苛烈な戦国の世を生き抜く知恵であることを悟ったがゆえに、孫子に傾倒したのであります。
この、言わば兵法的思考をいかに読み解き、いかに活用するかが、孫子を学ぶ醍醐味であり、孫子が今日もなお読み継がれている所以(ゆえん)であります。
2007年06月23日
1 ブログ開設の趣旨
今、日本には、精神的に子供のままの大人が蔓延していると謂われています。本来、教育には人間教育(いわゆる人づくり)と知識教育の両面が不可欠ですが、キチンとした人間教育をしないで、知識教育、とりわけ大学入試を目指した偏差値一辺倒の偏(かたよ)った知識教育だけを行っている学校教育に大きな問題があります。
要するに、偏差値が高いとか低いということは人間形成のレベルには全く関係ないのであり、「人間いかに生きるべきか」を真面目に考えたことのない学生に、大学でいくら高度の知識教育を施しても、人間教育という意味では成果など望むべくもなく、まさに砂上の楼閣ということになります。
このゆえに、高度で豊かな知識は身につけているが、「自分の頭で考えない」、はたまた「他人の頭で考える」習慣が抜け切れないまま無責任に社会に放り出されているのが(一人前と見なされている)いわゆる社会人の実体と言わざるを得ません。
言い換えれば、現代日本社会においては「日本人、いかに生きるべきか」の方向が示されていないということであり、これこそがバブル期以降、日本社会に漂う重苦しい閉塞感の原因であり、根源であると言わざるを得ません。
つまり日本人は「何が正しく、何が間違っているのか」という原理・原則で動くのではなく、まさに「和を以て貴しとなす」に象徴されるがごとく、日本人特有のあいまい・馴れ合いの情緒的大勢追随思考で動くということであります。
そのゆえに時としてマインド・コントロールされ、思考停止のまま、お上(組織の上位者)の権威に盲目的に服従するという奇観が露呈されるのです。
この従順にしてオメデタイ日本国民が今まさに直面しているのが組織や国家をあてにできない社会であり、個人が自立して生きるしかない自己責任の時代であります。
もとより、そのような事情はひとり個人のみならず、破綻寸前の赤字財政を抱え税収不足に悩む国や地方自治体、多様化する一方の消費者ニーズをいかに掴むかで四苦八苦している企業も例外ではありません。
このような変革と動乱の時代にあって、今、まさに学ぶべきものは孫子に代表される兵法的思考であると断言できます。
兵法的思考の特色は、目的は何かを常に想定し、それに応じていかなる戦略戦術が立てられねばならないかが要請されるところにあります。つまり、問題解決というレベルで捉えれば、抗争・葛藤の原理たる兵法的思考は極めて合理的かつ有効な視点を提示するものであります。
個人であれ組織であれ、その内面であれ外面であれ、常にさまざまな抗争・葛藤関係が生起するのがこの世の定めです。それら諸問題への対処の方法を探り、解決のヒントを得るものが抗争・葛藤の原理たる兵法的思考であるということです。
このブログでは、時々の時事問題などを採り上げ、兵法的思考の観点から事の本質を考察することにより、兵法的思考開発の方法を提示するものであります。
要するに、偏差値が高いとか低いということは人間形成のレベルには全く関係ないのであり、「人間いかに生きるべきか」を真面目に考えたことのない学生に、大学でいくら高度の知識教育を施しても、人間教育という意味では成果など望むべくもなく、まさに砂上の楼閣ということになります。
このゆえに、高度で豊かな知識は身につけているが、「自分の頭で考えない」、はたまた「他人の頭で考える」習慣が抜け切れないまま無責任に社会に放り出されているのが(一人前と見なされている)いわゆる社会人の実体と言わざるを得ません。
言い換えれば、現代日本社会においては「日本人、いかに生きるべきか」の方向が示されていないということであり、これこそがバブル期以降、日本社会に漂う重苦しい閉塞感の原因であり、根源であると言わざるを得ません。
つまり日本人は「何が正しく、何が間違っているのか」という原理・原則で動くのではなく、まさに「和を以て貴しとなす」に象徴されるがごとく、日本人特有のあいまい・馴れ合いの情緒的大勢追随思考で動くということであります。
そのゆえに時としてマインド・コントロールされ、思考停止のまま、お上(組織の上位者)の権威に盲目的に服従するという奇観が露呈されるのです。
この従順にしてオメデタイ日本国民が今まさに直面しているのが組織や国家をあてにできない社会であり、個人が自立して生きるしかない自己責任の時代であります。
もとより、そのような事情はひとり個人のみならず、破綻寸前の赤字財政を抱え税収不足に悩む国や地方自治体、多様化する一方の消費者ニーズをいかに掴むかで四苦八苦している企業も例外ではありません。
このような変革と動乱の時代にあって、今、まさに学ぶべきものは孫子に代表される兵法的思考であると断言できます。
兵法的思考の特色は、目的は何かを常に想定し、それに応じていかなる戦略戦術が立てられねばならないかが要請されるところにあります。つまり、問題解決というレベルで捉えれば、抗争・葛藤の原理たる兵法的思考は極めて合理的かつ有効な視点を提示するものであります。
個人であれ組織であれ、その内面であれ外面であれ、常にさまざまな抗争・葛藤関係が生起するのがこの世の定めです。それら諸問題への対処の方法を探り、解決のヒントを得るものが抗争・葛藤の原理たる兵法的思考であるということです。
このブログでは、時々の時事問題などを採り上げ、兵法的思考の観点から事の本質を考察することにより、兵法的思考開発の方法を提示するものであります。