2008年07月10日

13 武蔵の「仏神は尊し、仏神は頼まず」の真意

 孫子の言に、『勝つ可からざるは己に在り』<第四篇 形>があります。一見、分りにくい言葉ですが、つまりは、運動とか活動とかの原動力(原因)は、本来、主体者自身の内側(内因)にあるのであって外部(条件)にあるのではないことを曰うものです。

 このゆえに脳力開発では「自分で主体的にやる姿勢をつくろう」、「人頼りの姿勢は止めよう」の習慣作りを重視しております。

 とは言え、このように極めて平凡で当たり前のことはともすれば「分っている」「知っている」つもりになってすっかり意識から抜け落ち、忘れられてしまう、という結果になり勝ちであります。しかし、現実世界では、平凡なことを、平凡に実行することが何よりも絶大な偉力を発揮するのです。

 言い換えれば、「自分で主体的にやる姿勢をつくろう」、「人頼りの姿勢は止めよう」の指針は一見、平凡に見えて実は極めて奥深いものがあるのです。

 そのことを別な角度から言うものが、彼の宮本武蔵が自誓の言葉としていた「仏神は尊し、仏神は頼まず」です。

 つまり、孫子の『勝つ可からざるは己に在り』<第四篇 形>と、脳力開発の「自分で主体的にやる姿勢をつくろう」と、宮本武蔵の「仏神は尊し、仏神は頼まず」とは相互に密接な関係があるということです。

 ことの背後に隠されている本質的な要素をキチンと弁(わきまえ)えることは兵法を学ぶ上で極めて肝要であります。

 このことにつきまして、弊塾サイトの「孫子時評」で詳しく論じておりますので、興味のある方はご覧になってください。


孫子に学ぶ脳力開発と情勢判断の方法
http://sonshi.jp/


<お知らせ>

 孫子塾では現在、「戦略思考ができる日本人育成塾」と題するセミナーを月二回のペースで開講しております。

 日本は今、好むと好まざるとに関わらず、まさに第二の黒船とでもいうべきグローバル化の大変動に直面しております。

 日本人がこの激動の時代を生き抜くためには、平安末期から明治維新に至るまで日本を領導してきたいわゆる「武士の思想」を戦略思考の原点と捉え、真摯に学び、自己変革する必要がある、というのがその趣旨であります。

 募集人数にまだ若干名の空きがございますので、興味のある方は下記サイトのメールにて詳細をお問合せください。

http://sonshi.jp/
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2008年06月22日

12 空手は農民のゲリラ闘争から生じたとするウソ

 空手の歴史に関し、巷間、実(まこと)しやかに語られるものの一つに「沖縄の空手は薩摩の圧政に抵抗する農民のゲリラ的闘争の中で編み出されたもの」とする珍説・俗説があります。

 しかし、それは真っ赤な嘘、全くの虚構であり、そのような史実も根拠も見出すことはできません。そこで、この問題の構成要素を抽出すると次のように整理されます。

一、空手はどのうような立場の人々によって伝承されてきたのか

二、空手の稽古が明治維新前まで秘密裏に伝承されてきた背景とは

三、いわゆる素手(空手)で鉄砲や刀槍と戦う農民のゲリラ的闘争とは何なのか

 以下、これらについて、どのように判断するのが適当かを考えてみます。


(1)空手はどのような立場の人々によって伝承されてきたのか。

 琉球武術としての空手は、(徒手武術としての)空手と表裏一体の関係にある琉球古武術とセットで伝承されるものであり、その意味では、そもそもいわゆるスポーツではなく、本土の古流剣術などと同じく総合武術としての膨大な体系を伝えるものであり、かつ文化遺産としての価値を持つものであります。

 これを伝承してきた中心的な人々は、(記録に残されている限りにおいては)農民や町人、職人や漁民ではなく、刀を取上げられた琉球士族(サムライの意)、なんかずく、按司(あじ)・親方(うえーかた)・親雲上(ぺーちん)・などいった上級士族に該当する身分の者、言い換えれば、王府の官僚・官人にして経済的・時間的に余裕のある階層の有志たちであったと伝えられています。

 つまりは、士族(サムライ・支配者)としての存在意義を追及することによる必然の結果としての武術の錬磨と言うことであります。

 このことは例えば、戦国時代の終焉を契機として提起された必然的な問題、即ち、戦闘者たる武士の存在意義(平和時における言わば武士の職分)とは何か、について追究した山鹿素行の辿りついた結論と相通ずるものがあります。

 彼は、「武士は生まれによって武士になるのではなく、行いによって武士となる」、「武士は、生産的な業たる農・工・商に携わる人々と異なり、道徳を究め模範的な生き方を世の中に示すために存在している」「模範的な生き方をしていない者は武士ではない」と断じております。

 その意味で(武器術を含む)空手は、禁武政策下にある琉球のサムライにとって、人間の内面的な進歩発展を実践方式で図る言わば生活の術であり、一種のシステムとして機能したものと言えます。


(2)空手の稽古が明治維新前まで秘密裏に伝授されてきた背景とは

 既述したごとく、平和の時代において戦闘者たる武士たちは、道徳を究め社会に範を示す職分たる自己のアイディンティティを求めて、行往座臥(ぎょうおうざが)、文武の道に勤(いそ)しむことを目標としました。

 このゆえに、巧まずして柔術・剣術を初めとして戦国乱世に源流を持つ様々な武術が百花繚乱のごとく花開き発展したのであります。

 とりわけ沖縄の場合は、琉球武術たる空手と琉球古武術がその中心であったこと、また、中国武術の教授形式たるいわゆる「拝師制度(弟子には一般弟子と正式弟子の区別があり、師が正式弟子として認可し師弟の契りを結んだ者のみがその流儀の秘伝を伝えられる仕組み)」の影響を受け一定の人間関係の中で稽古、伝承されていたと言うことです。

 言い換えれば、王府の官僚・官人たる空手修行者にとって、空手はあくまでも自己の精神修養・人格完成の手段であって、ビジネスや金儲けの手段では無かったこと、そのゆえにこそ、真に空手の道を研究・伝承しようという素養ある少数の人を選抜して教えたということであります。

 つまりは、教える必要の無い人には教えなかったというだけのことであり、教えるべき人にはキチンと空手の秘奥が伝授されていたということです。まさに事の性質上、そもそも公開すること自体に意味がなく、偏に「師は針となり、弟子は針」となって純粋に術理の継承が行われる環境づくりこそが重要視されていたのであります。

 その意味においては、かつての武術空手の術理は現代においても脈々と受け継がれていることは確かです。ただ、かつてもそうであったように、それがスポーツ空手のごとく一般化・顕在化しているかと言えば必ずしもそうとは言えないということです。言い換えれば、古伝空手・琉球古武術とはスポーツ化されていない空手のそもそもの原型が残されているものとも言えます。


(3)素手(空手)で鉄砲や刀槍と戦う農民のゲリラ的闘争とは何なのか
 
 そもそも、佐渡島より一回り大きい程度の沖縄本島で何ほどの武力闘争ができるというのでしょうか。益してや、沖縄支配のために常駐していた薩摩藩の軍兵は三百人前後と謂われております。

 たとえば、捕り方に追われた彼の侠客「国定忠次」は、広大な赤城山に逃げ込みましたが、その所在はほどなく突き止められ、「名月、赤城山も今宵限り」の名セリフを残して退散を余儀なくされております。

 ことがまだ中央政府の統治力が弱い奈良・平安時代ならともかく、徳川幕府によって天下統一された幕藩体制下でそのような革命もどきの武装蜂起が許されるはずも無いと考えるのが通常です。

 況んや、反乱の明確な目的も無く、指導者も存在せず、武器も用いず、ただ個々人が勝手に「素手・空手」で鉄砲や刀槍と戦ったと真顔で言われても、凡人の頭はただ困惑するのみであります。

 要するに、広大無辺の中国大陸を舞台とする水滸伝や三国志の世界を、単に薩摩の圧政と重ね合わせただけの超能天気なマンガ劇作家あたりが、空手よ斯(か)くあれかし、の願望を込めて妄想した荒唐無稽な作り話に過ぎません。

 普通の知性で考えればそれが信じていいことか、信じてはいけないことなのかの区別はつきそうなものなのですが。俗に謂う「鰯(いわし)の頭(かしら)も信心から」もしくは「あばたもえくぼ」とはまさにこのようなことを言うものであります。

 少なくとも空手はいわゆる武術の一形態であり、そのバックボーンが兵法にあることは言わずもがなのことです。兵法の本質はまさに孫子の曰う『兵とは、詭道なり。』<第一篇 計>であり、その最大の眼目は「まず自分自身に騙されないこと」にあります。

 いやしくも武術家を標榜する空手家が、意味不明な珍説・俗説を有り難く盲信することは、そもそも兵法の本義に背くものと言わざるを得ません。
posted by 孫子塾塾長 at 21:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史

2008年06月17日

11 東京・秋葉原の無差別殺傷事件を考える

 去る、6月8日、観光客や買い物客で賑わう東京・秋葉原の歩行者天国で死者七人を出した一種の「自爆テロ」とでも言うべき無差別殺傷事件が起きました。犠牲者の方々のご冥福を心よりお祈り致します。

 この事件に関連して管理人の運営する下記のサイトに「孫子ファン」と名乗られる方から次のようなご質問が寄せられました。

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 「悪いことはすべて自分のせいである」と主張する知人のおじさんがいます。秋葉原の事件の被害者も彼らが悪いのである。それは、「業」が原因であるというのです。悪いのは加害者しかいないと思います。

 因縁や、業(カルマ)など、私は仏教について深くも知りませんが、自分にとって好ましくない状況を「業」の原因説ですべて片付けてよいものでしょうか。このおじさんの論理で行くと、放火されたら、そこに住んでいたのが悪いということになります。どうも納得がいきません。

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 このご質問につきまして、下記サイトの「孫子談義」の項で解説しておきましたので興味のある方はご参照ください。

 「孫子に学ぶ脳力開発と情勢判断の方法」

  http://sonshi.jp/

posted by 孫子塾塾長 at 14:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事評論

2008年05月31日

10 ラストサムライさまへの返信(総括その一)

 当ブログへのラストサムライさまのコメント(とりわけ平成20年3月1日以降)につきましては、事情により十分な返信ができませんでした。そのゆえに今回「総括その一」と題しまして次のように纏(まと)めて返信しておきます。

 まず、3月1日のコメントの内容は下記の通りです。

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 何もお返事が無いとこを見ると、無視してるのか呆れて物が言えないと思っているのでしょう。それは貴方が質問したことに私が答えないからだと思います。

 しかし貴方が質問してる内容は各論であって総論ではないです。私は、何故そのような各論に答えないのか? それは余り意味がない内容だからです。何故、意味がないのか。どんな政策にも必ず問題が起きるからです。そうなると議論する為に議論をする無限ループになり本質からズレルことが明白だからです。前首相については其々の評価があるかと思います。

 しかし貴方が書いている内容を吟味すると書かれてることは、前首相や私や社会に対する批判ばかりです。

 孫子は徹底的現実主義者であり兵法家であって理想主義者でもなく思想家でもないです。貴方の反論はまるで理想なる主君を求め諸国を彷徨っている孔子のようであります。

 先ず兵法とは今ある現実に対してどのような戦術や戦略を使って今ある現状を打開するのか、またどのように社会的優位性を保つのか身を守る為にはどのように行動するのかなどの行動哲学を意味します。

 その兵法を勝手な解釈によって思想や理想に使う物ではないということです。どうも貴方の書かれてる事は、「論語」を読んでる感じがします。孫子、孫子と叫ばれてますが、孔子の間違いではないですか?
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 これについての管理人のコメントは次の通りです。

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(1)各論が論じられない、と言うのであれば、総論もまた論ずべきではない

 なるほど、確かに、いみじくも御自身で御指摘されているように(余りにも意味不明の論理に)まさに呆れ果てて物が言えない状態でした。

 そのゆえに私は、『ラストサムライさまは、兵法というものが全く分っておられません。それではお尋ねしますが、(多分答えは返ってこないでしょうが)孫子と孔子の本質的な違いはどこにあるのでしょか。明確にお答え下さい。これに答えられない以上、貴方に兵法を論ずる資格はありせん』と申し上げたのです。

 その答えについては、追々、説明することに致しますが、それにしても驚いたのは、『総論は述べるが各論は述べないし、答えない。なぜならば、それは余り意味がないからである』の下りです。

 これでは、まさにラストサムライは「人間はどこまで最低になれるか」の典型的な人物と評せざるを得ません。言い換えれば、人間としての頭の使い方を間違えているということであります。

 例えば、過去のコメントを見るとラストサムライさまは十分に各論を語っておられます。とりわけ、平成19年12月30日のコメントには『国民として見るのではなく自身が政治家だとしてどのように国を改革し纏めるのが必要なのかを考えると小泉前首相は近年稀に見る政治家だと思います』とまであります。

 通常、これを読めば、ラストサムライさまが具体的な各論を踏まえつつ、その総論として『小泉前首相は近年稀に見る政治家だ』と述べておられることは明白です。

 逆に言えば、その総論が適切か否かを説明するために具体的な各論が存在するのであります。然(しか)らずんば、総論を論ずる意味はありません。そのようなものは、まさに彼の毛沢東の曰う「調査なければ発言権なし』のごときものであり、印象や願望だけで口から出まかせに物を言うのは世間の人を混乱させるだけであるから止めなさい、ということになります。

 残念ながらラストサムライさまは、(禽獣ならぬ)言葉を発する人間として心得るべき最低限の矜持(ブライド)を喪失しておられます。もし、人間が言いたい放題、口から出まかせに言辞を弄すれば一体、この社会はどうなるのでしょか。

 インターネットの2チャンネルなどでは、まさに悪口雑言の言いたい放題、言い換えれば「人間はどこまで最低になれるのか」の壮大な実験が行われております。もしこれが現実世界のことであれば人間の日常社会は確実に破壊されます。想像するまでもありません。

 なぜ、悪口雑言の言い合いになるかと言えば理屈は簡単です。物事には必ず両面があるため、各々がその拠って立つ立場も弁(わきま)えずに自己の信ずるところを主張し合えば自ずから感情が激し、その内容がエスカレートしていくのは理の当然です。

 ラストサムライさまの言われている「私は、何故そのような各論に答えないのか? それは余り意味がない内容だからです。何故、意味がないのか。どんな政策にも必ず問題が起きるからです。そうなると議論する為に議論をする無限ループになり本質からズレルことが明白だからです」はまさにその意味であると解します。

 そもそも、通常の人間はそのような2チャンネルなどに書き込みはしないし不毛の論争もしません。言われるように、まさに意味が無いからです。

 しかし、当ブログはそのようなバーチャルにして非常識な2チャンネルではありません。ましてやことは(スポーツ・娯楽・レジャー・歌舞音曲の類ではなく)我々の生活に直結する政治を論じているのです。もとより立場や見解は相違するでしょう、いや相違するからこそ真摯に総論・各論を語るべきものと私は思います。

 その際のキーワードは、まず各々の拠って立つ立場を明確にすること、そして何よりも我々国民の現実生活はどのように変化したのかの具体的事実を踏まえて検証するということであります。

 そのゆえに、もしラストサムライがそのようなバーチャル世界の御経験をもとに、「総論は語るが各論は語らない」と考えておられるのならば、まさにそれは「蛇に咬まれて(道端に落ちている)朽ちた縄に怯える」がごとき誤った考え方であると言わざるを得ないのであります。

 もっとも最近はこのようなバーチャル世界と現実との区別がつけられない人が増大傾向にあるようであり、まさにバーチャルなゲームの世界さながらの異常な事件を起こしてマスコミネタになる場合が見受けられます。現実世界とバーチャルな世界は明確に区別することが肝要と老婆心ながらラストサムライさまに申し上げます。


 ついでに言えば、禅の言葉に「脚下を照顧せよ」があります。まず「足元に用心せよ」の意です。当たり前のことは余りに当たり前過ぎるがゆえに、人間の脳はついそれを意識から忘却し勝ちであります。これは人間の脳の盲点の一つです。残念ながら、ラストサムライさまはこの基本的な御認識が欠けておられるように思います。


 一般的に、人の一定の思想というものを分類すれば、まずタイトルがあり、そのタイトルを構成する大項目、さらに中項目、小項目に分けられ、各々に「見出し」が付されます。そして小項目にはその内容を具体的かつ詳細に説明するためのいわゆる本文が付されます。逆に言えば、本文を含めたこの体系の全体がその人の一つの思想内容なのです。

 孫子で言えば、「孫子兵法」というタイトルがあり、そのタイトルは十三の篇(大項目に相当)で構成され、各々見出しが付されます。例えば、第十三篇の場合は「用間」の見出しが付され、さらに中項目、そして小項目に分類され、小項目にはその内容を具体的に説明するための本文が付されます。

 このゆえに、総論だけ論じて各論を語らないのは、言わばタイトルと目次だけで本文の欠落した本を販売しているようなものであります。通常ではこのような本を買う人はおりません。

 ラストサムライさまの言われている「総論は語るが各論は語らない」ということは、まさに「名札はあるが中味が全く無い」ことと同義であります。通常の考え方で言えば、本文があるから目次があり、目次があるから本文があるのです。つまり、本文と目次は一対(セット)なのであり、分けて考えるべきものではないのです。

 然(しか)らずんばそれは、包装されてはいるが中味の無い贈答品、もしくは資料が何もないのに索引・名札のみが貼り付けられている整理棚のごときものとの謗(そし)りを免れません。

 その意味では、「総論は語るが各論は語らない」の論理はまさに事の道理に反した偏頗(へんぱ)にして摩訶不思議な発想と言わざるを得ません。これで物を考えた積りになるのは頭の使い方に関する大いなる錯覚であると思います。例えば、いくら優秀な車に乗っていても、肝心の運転(頭の使い方)が下手くそであれば折角の車も十分には乗りこなせないというものです。


(2)改悪という名の「改革」に終始した小泉劇場は国民に何をもたらしたのか

 今の日本社会を按ずるに、まさに、未来に希望が持てない、逃げ場の無い閉塞感が漂っていると言わざる得ません。とりわけ、小泉内閣は、「痛みなければ改革なし」などの虚言を弄(ろう)し、毎年、2200億円づつ社会保障費を減らすという政策を実施しましたが、まさにこれは悪名高き後期高齢者医療制度に代表されるがごとく、今や、日本社会の医療や介護、福祉のシステムを破綻寸前にまで追い込んでおります。

 しかし、その一方で米軍在沖縄海兵隊のためなら2000億円以上のグアム移転費、いわゆる「思いやり予算」は惜しげもなく支給するという。通常、「思いやり」とは弱者に対するもののはずですがこれではまさに本末転倒です。ゆえに「強きを助け、弱きを挫く」のが小泉内閣の本性であったと言わざるを得ません。

 要するに、小泉内閣の構造改革の特徴は、問題解決の真の核心ではあるが、そのゆえに非常に強力な抵抗が予想されるところは避けて通り、抵抗する力が弱く組し易いところを予算削減の対象とし、情け容赦なくむしりとる非情さにあります(なぜそうなるのかの理由については後述します)。

 かつ、その改革の内容たるや、キチンとした将来的ビジョンを踏まえてのものではなく、始めに削減数値目標ありきの小手先だけ、その場しのぎのお粗末なものであったことは、今日、広く知れ渡っているところであります。これが郵政解散・郵政選挙の名の下に行われた小泉構造改革の実態であり、まさに選挙民を愚弄するものと言わざるを得ません。


 人間の脳は、(上記したごとく)余りに当たり前のことについては「効率」という側面から余り意識を用いません。その意味で、通常「改革」と言えば、あくまでも「良い方向」に改め変えることであると信じて疑いません。つまり、「悪い方向」に改め変える意には解しないのが通常であります。

 もし仮に、故事に曰う「朝三暮四」のごとき理屈(詐術を用いて人を愚弄する意)を用いて「改悪」を「改革」と言いくるめたとしたらこれは由々しき問題と言わざるを得ません。残念ながら小泉構造改革の場合は、悪意か偶然かはともかくとしても後者の意の「改革」であったことは否めません。

 例えば、「小泉改革」の目玉たる労働市場の規制緩和策がもたらしたものはまさに「働くルールの破壊」と言わざるを得ません。

 急速に膨らんだ悲惨な日雇い派遣労働者、二百万とも三百万人ともいわれるワーキング・プア、弱者・地方切捨てに起因する社会的格差の拡大、低賃金で働かされ続けるパート労働者、正社員にしても益々少数精鋭化されて長時間労働を強いられ、いわゆる過労死の危険性に日々さらされているというのが実態です。


 つまり、小泉・竹中ラインは(社会の上層部たる)大企業や経営者・株主を優遇する政策を取れば世界的競争に打ち勝って必ずや好況が招来される、さすればその好況の恩恵は必ずや社会の下層部にも行き渡りこれを潤すはずであると想定したのであります。

 その意味では確かに景気は好転いたしましが、大企業はその好況で得た利益を組織的に守り、ついぞ社会の下層部にはその恩恵は行き渡りませんでした。給与所得者の五人に一人が生活保護基準の目安である年収200万円以下であるという問題は、まさにそのことを如実に示すものであります。つまり、小泉・竹中ラインの想定は見事に外れてしまったということです。

 パフォーマンスのみに終始した小泉構造改革という「バカ騒ぎ」の後に残されたものが、未来に希望が持てない、逃げ場の無い閉塞感漂う今日の社会的風潮と言わざるを得ません。今日、「諸悪の根源は小泉にあり」「小泉・竹中は火あぶりの刑だ」の論調が充満する所以(ゆえん)であります。

 このような世相を反映してか、最近の各紙の読者投書欄には、「朝刊に小泉元首相のインタビュー記事が載っていたが、はっきり言ってもう小泉さんの顔は見たくない」「小泉劇場再びなどとんでもない」「とにかく詭弁に満ちた小泉劇場はもうたくさんだ」「郵政民営化に賛成して入れた一票が、なぜそれとは無関係の衆院再議決に使われるのか納得できない」「国民を不安定な状況に追い込んだだけの郵政選挙とは一体、何なのかを冷静に検証する必要がある」などの声が散見されます。


(3)いわゆる小泉劇場を論評する立場について

 物事には必ず両面があるゆえに、いわゆる小泉劇場に関しても賛否両論があるのは当然です。しかし、問題は小泉元首相が「自民党をぶっ壊す」「構造改革を断行し日本を変える」と虚言を吐き、これ見よがしの派手なパフォーマンスを繰り返して、マスコミを巻き込み大衆を煽(あお)り「小泉劇場」を演出したことであります。

 これを例えば、安部前首相や福田総理がいくら声高に「自民党をぶっ壊す」と叫んで見ても誰も本気にしないでしょう。彼らはどこから見ても体制派の人間にしか映らないのであり、その意味での彼らの言動はまさに人畜無害なのであります。

 しかし、あたかも革命家気取りで大言壮語し「いかにも何かやってくれそうだ」と大衆に大きな夢と希望を抱かせただけで、結局は、「影」の部分だけを大きく残して竜頭蛇尾と化した小泉劇場の場合は、人畜無害どころか明らかに日本国民に有害な存在と言わざるを得ないのであります。

 つまり、いやしくも一国の首相たる者が、詐欺的な虚言とパフォーマンスをもって、禁じ手のいわゆる衆愚政治を展開したこと、かつ真の意味での「聖域なき構造改革」には全く手を付けずに、その裏返しとしての「やった振りをする」「見せかけ」だけの構造改革ならぬ構造「改悪」の結果として、今日、様々な社会的な格差が噴出し、益々増大しつつあるということであります。

 半世紀以上続いた自民党の一党独裁が良いのか、はたまた「官僚内閣制」とも謂われる官僚・族議員主導の政治が良いのか、と問われれば、(一般的には)民主主義の根幹たる二大政党制が良いし、それによって選出された政治家による政治家主導の政治が良いに決まっています。

 然(しか)りとして、その場合、最も肝要なことは、そのような言わば「革命」に匹敵するがごとき政治運動が果たして体制内にいる人間に実現可能なことなのか、という問題の根本的かつ本質的な検討であります。

 近いところでは、日本の明治維新、敗戦後の民主主義国家への移行、あるいは毛沢東による中国革命の歴史を繙(ひもと)くまでもなく、通常の知性ではそれは不可能だと断ぜざるを得ないのであります。

 早い話が、徳川将軍の膝下にいる幕臣が将軍の命を受け、幕政改革にいくら献身的に取り組んでも、つまるところ「将軍様、民・百姓のために思い切って幕藩体制を解体しましょう。それが最も根本的な改革です」などと言えるはずが無いということです(ことは北朝鮮の場合も全く同じです)。

 そのゆえに明治維新までの幕政改革は、当然のことながら幕藩体制維持の至上命題のもと、結局は小手先のお茶を濁すものに終始したのであります。小泉構造改革もまた然(しか)りであり例外たり得ません(自民党という一党独裁の体制内にいながらそれをぶっ壊すことなど冗談でもでき得ようはずがないのです)。

 通常の知性があれば、このようなことは誰しも分ることであり、まさに言わずもがなのことであります。しかし、問題は、この平成の御世においてはまさにこの当たり前の論理を見事に忘却してしまった選挙民が多かったということです。およそバカげた小泉劇場がいかにも救世主ごとく熱狂的に歓迎されたのがその証左です。


 このタイプには次のような立場があります。第一は、端(はな)から体制擁護で自民党による一党独裁政治を望んでいる立場、第二は民主主義の根幹たる二大政党移行が望ましいとするが、それを実現する者こそが小泉元首相その人信じて疑わない立場、第三は、自民党の一党独裁でも、二大政党でもどちらでも良いが、とにかく、小泉元首相は格好よくて「理想の人」だと恋焦がれる立場であります。

 ラストサムライさまが上記いずれの立場であるかは定かではありませんが、私が切に申し上げたいことは、確信犯たる第一の立場は「善し」としても、第二と第三の立場は実に好ましくないということであります。なぜならば、それはまさに小中学生が松井やイチローや松坂に憧れる姿と何ら変わらないからであります。

 ラストサムライさまは『(管理人の)書かれてることは、前首相や私や社会に対する批判ばかりです』とコメントされておりますが、その真意はまさに既述した立場の違いを論じているからに他なりません。もしこれが趣味の問題であるならば、当然のことながら立場の違いを論ずるのは愚の骨頂というものです。なぜならばそれは、好き嫌いの世界だからであります。

 しかし、こと政治は、スポーツや娯楽・レジャーの類とは本質的に異なります。日常の国民生活に直結するものであり、まさに孫子の曰う『兵は国の大事なり。死生の地、存亡の道』<第一篇 計>と同次元のものなのです。ゆえに孫子は『察せざる可からざるなり。』と曰うのであります。

 今日、日本社会に噴出している様々な、いわゆる社会的格差の原因は、基本的には小泉・竹中ラインの構造改革に起因するものであることは衆目の一致するところであります。

 私に言わせると、彼の新撰組の暗躍が「明治維新を三年遅らせた」と謂われているがごとく、実に茶番な小泉劇場の「バカ騒ぎ」は、日本が自民党の一党独裁と決別し、健全な二大政党時代に移行するタイミングを三年遅らせたと考えております。

 どの角度からみても彼の小泉劇場が言わば「将軍様」の君臨する自民党一党独裁体制の側に立つものであることは論を俟ちません。

 そのゆえに我々選挙民は、誰がその諸悪の根源たる独裁体制を擁護し、誰がそれに反対しているのか、言い換えれば、誰が国民に害悪を流す者であり、誰が国民の利益を願う者であるかを、好き嫌いや外見、先入観の壁を越えて明晰に判断すべきであります。

 それが民主主義国家の主権者たる我々の取るべき態度であり、真のリーダーたる者のその態度こそが、孫子の曰う『進みては名を求めず、退きては罪を避けず』<第一篇 地形>の真意に合致するのです。

 今回はこの辺にしておきます。次回は、「孫子」と「孔子」の思想は、どこが同じでどこが異なるのかについて解説いたします。

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2008年02月22日

9 生野さまのコメントにお答えして

 当ブログの記事について、2月13日、生野様から下記のコメントを頂きました。有難うございます。文字数の関係から、返信はこちらの記事としてアップさせて頂きました。

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 今回捕鯨についてのコメントがありましたので、私もコメントさせていただこうと思います。 私の周りには西洋の方がたくさんいて、それはそれはいろいろな方がいます。 日本の常識が通用する方もいれば、通用しない方もいます。 友人になれる人もいれば、なれない人もいます。ただ、今回、捕鯨に対するオーストラリアのあまりに偽善的な態度には、全くあきれています。

 先生のおっしゃる通り、オーストラリアの方々は自分たちが常日頃殺された動物たちを口にしていることは、どう思っているのか、ぜひ彼らにきいてみたいところです。 クジラは頭がいいから殺してはならない、という人もいますが、なら、頭が悪い生き物はころしてもいいのか、というとても恐ろしい思想につながると思います。

 私が一番頭に来るのは、「偽善」です。 肉を食べる人は、動物(牛など)を殺す、という行為は他人にやらせて(他人の手を汚し)、いかにも自分たちは無実、というように、高みにたって日本人をバッシングしているようにみえるのです。

 捕鯨する日本人も、研究目的と言っていますが、「何のための研究で捕鯨をするのか」ということをしっかり説明していただきたいと思います。
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 全く御説の通りだと思います。一般的に言えば、他人のせいにするのが西欧人の思想であり、内に原因を求めるのが東洋人の思想です。

 これは基本的には、その淵源がいわゆる牧畜・小麦文化圏にあるか、はたまた稲作文化圏にあるかの相違とも考えられます。その意味で中国は北方が牧畜・小麦文化圏、南方が稲作文化圏ではありますが、東シナ海のガス田問題や中国製毒餃子事件などへの対応を見るまでもなく、その主流は欧米人的な発想にあると言えます。

 欧米人は、良く言えば、目立ちたがり屋で、自己主張が強く、「分らない」ことでも知らないとは言わない、「よく知らない」ことであっても自信をもって答える、「間違った結論」であっても断固として主張するのが彼らの論理であり、やり方なのです。


 確かに、日本人と比べて理性的・論理的に物を思考するという点においては長所ではありますが、「誰が考えても理屈にもならないような理屈」を絶対に正しいと自己主張するのは明らかに短所と言わざるを得ません。

 このような偏頗(へんぱ)な思考パターン、言わば独断と偏見ごときものは社会的な軋轢(あつれき)や紛争を惹起することはあっても合理的な問題解決の方法としては明らかに不適当であり、むしろ有害であります。

 これはまさに毛沢東の曰う「ただの理性認識にだけに止まるもの」と言わざるを得ません。

 言い換えれば、(その思考によって得られた一定時点における一定の結論は)絶えざるスパイラルな実践の検証を通じてその理論の不完全性を正し、これを発展させる過程が絶対に必要だということです。

 稲作文化圏の人たる毛沢東が欧米の思想を摂取して中国的弁証法の立場からこのように論じていることは実に意義のあることであります。

 つまり、欧米人の自己主張の凄まじさは、「恥の文化」や「謙譲の美徳」をもってする非論理的な日本人としては信じられない言動でありますが、これが欧米人の通常の姿と理解しつつ、徒(いたずら)に辟易(へきえき)して恐れ入ることなく、彼らの論理の弱点をキチンと弁(わきま)え、一段も二段も高い次元から事を論ずるべきものと考えます。


 そのゆえに、(日本の調査捕鯨に対するオーストリアの言動に関しては)例えば、次のように言うことができます。

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 人間は環境の動物である。住むところの気候・風土・地形山河・言語・風俗が変われば人間の文化も自ずから異なるのは当然である。鯨の「食文化」に関して言えば、歌謡曲「南国土佐を後にして」の歌詞に、

『国の父さん室戸の沖で鯨釣ったと言う便り、

わたしも負けずに励んだ後で歌うよ土佐のよさこい節を、

言うたちいかんちやおらんくの池に潮吹く魚が泳ぎよる、

よさこいよさこい』

とあるがごとく、捕鯨は古来の日本の文化である。


 狭い地球で異民族同士が仲良く生活するためには、意味もなく他民族の宗教や食の習慣などの文化に関し異議を挟まないことである。イラク戦争などはまさに現代版十字軍の盟主を気取ったアメリカがその奉ずるところの欧米人的思考の欠陥ゆえに引き起こした暴挙である、と。

 その意味で、その自己主張はさておき、国家とし、民族として、はたまた人間として、まず他民族の食文化を認めるのか、認めないのか、はたまた食糧問題という意味での海洋資源の持続的な利用に関し、何ゆえに鯨のみを特別視するのか、鯨資源の適正管理を前提とする持続的捕鯨のどこが非合理的なのか、などの基本的な見解、立場を日本政府としてキチンと問うべきであります。

 まさにそれこそ日本が自己主張すべき本質的事柄であると考えます。その上で、いかに交渉し、いかに利害の調整を図るか、という問題であります。
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 いずれにせよ、調査捕鯨反対のオーストリアなどに対しは、独断と偏見のごとき「ただの理性認識にだけに止まるもの」とは似て非なるキチンとした論理をもって、正しい自己主張をすることが日本には最も望まれることであります。

 とは言え、皮肉なことに、調査捕鯨を拡大し鯨肉の供給量が増えたのは良いが、今、日本国内での流通が広がらず、その鯨肉をどう処理するかが悩みのタネであるという。まさに宜(むべ)なるかなと首肯せざるを得ません。

 やはり、日本人は一事が万事で、論理性に乏しいのみならず、計画性もまた、行き当たりばったりの出たとこ勝負に終始するのか、と慨嘆せざるを得ません。日本人は孫子をキチンと学ぶべきであると主張する所以(ゆえん)です。
posted by 孫子塾塾長 at 12:41| Comment(7) | TrackBack(0) | 時事評論

2008年02月04日

8 ラストサムライさまへの返信(その二)

 当ブログの「7 ラストサムライさまへの返信」の記事について、1月31日、ラストサムライさまから四回目のコメントを頂きました。内容は下記の通りです。

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 私は、好き嫌いで物事を言ってるわけではなく大局を見据えて政治を行うことができるかそうでないかで語っているんです。

 「敵を知り己を知れば百戦危うからず」 アメリカ特に西洋人はどんな民族なのかご存知ですか? 日本の常識は通用しません。オーストラリアの捕鯨船に対しての行為はご存知ですか? これは一例ですけど独裁的パワーポリティックスなんですよ。

 日本人は責任と権限を曖昧にし問題が起きても責任逃れできるようなシステムを作り上げます。そういう悪しき積み上げによって疲弊した政治を改革しようとした彼は評価するべきであると言ってるだけです。

 宗教が違っても国家の為に戦った人達を弔うことは何か問題でもあるのですか?

 孫子は戦争は絶対にしてはならないが、戦争するなら絶対に勝たなければならないと言ってますが、日本はアメリカと戦争をして負けた。それが今日まで国際的不利を強いられ依存型経済大国に成り下がった訳です。

 自国を自立した強い国家として築く為には、アメリカと協力しながら国内の過保護政策からの脱却また国内需要の拡大を計らなくてはならない。規制緩和をどんどんやり、お金の流れと雇用の流出によって適材適所が生まれ長い年月を経てて自立した国造りを行うことを目的としていたのではないでしょうか?
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 これについての管理人のコメントは次の通りです。

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 ことの初めからそうでしたが、どうもラストサムライさまの御意見は支離滅裂としか言いようがありません。

 もとより、御自身の職業における専門的能力という意味では非の打ちどころのない立派な見識と御意見をお持ちなのでしょう。が、しかし、(例えば当ブログでのやり取りのごとく)ことが専門的範疇を離れると御自身でも何を言っているのかさっぱり分っておられないものと拝察いたしました。

 その意味での確固たる理念や思想もなく、ことの本質を掘り下げる根気や脳力もないのに、いかにも分ったような物言いをされているから滑稽なのです。が、しかし、多分それは御自身でもお気付きなのでしょう。

 そのゆえに、それを誤魔化そうとして、(私に見るところ、実に一知半解のままに)権威たる孫子や王陽明の言を呪文のように振りかざし、「どうだ、恐れ入ったか」のごとき態度が実に幼児的なのです。呪文は単なる言葉の羅列に過ぎず、意味も力もないことを知るべきであります。

 もとより、個人としてのラストサムライさまがどのような御意見であろうとそれは貴方の自由です。が、しかし、確固たる理念や思想もなく、ことの本質を掘り下げる根気や脳力もない思考態度が、社会全般の風潮として主流となり大勢となればこの日本はどうなるのかということが問題なのです。

 その典型例が、いわゆる衆愚政治たる小泉劇場であると言うのであります。その一翼を担っているのがまさにラストサムライさまに代表されるがごときの御意見であると私は観じております。敢て、貴方の御意見を当ブログで論ずる所以(ゆえん)です。


1、小泉元首相はなぜ(小泉チルドレンを帥いて)道路特定財源の一般財源化に動かないのか。

 私はすでにラストサムライさまに対し、衆愚政治たる小泉劇場の下で行われた構造改革・規制緩和とは何であったのか、その結果、何がもたらされたのかなどについて複数の疑問・質問を投げかけ、何回も当ブログに提示して、その回答を求めてきました。

 而(しか)るに、未だもって明確な御回答をラストサムライさまから頂いておりません。書けないのか、はたまた書けない理由があるのでしょうか。たまにまともなことが書いてあるかと思えば「風呂の中で屁をひるような」意味不明瞭な内容ばかりであります。私が、ラストサムライさまは好き嫌いのレベルで小泉元首相を選んでいると論じている所以(ゆえん)であります。

 それならそうと初めから素直に言えば良いのです。「あ、そう。その程度の考え方なのね」で終わりなのです。而るにそのことを「偽装」して、いかにも物の分ったような物言いをされるので当方としては嫌味の一つも言いたくなるのです。


 そこで念のため、再三再四の質問をさせて頂きます。

 小泉元首相は、「地方にできることは地方に」という謳い文句の下、いわゆる三位一体の改革と称して国から地方への税源移譲による地方の分権化を構造改革の目玉の一つとしてきました。

 小泉元首相の真にインチキなところは、それを実現するための根本的問題たるいわゆる官僚支配の利権構造には全くメスを入れずに(意図的に避け放棄したまま)、ただ、大衆受けするスローガンを掲げ、もっともらしいパフォーマンス展開したことにあります。

 つまり彼の構造改革なるものはまさに「仏造って魂入れず」であり、その結末がどうであったかは論ずるも愚かなことであります。できなければ言わなければいいものを、いかにもできそうに「偽装」するから問題があるというのです。
 しかも、ただひたすら、己一個の保身や名誉、栄達のためとあっては何をか況(いわ)んやであります。その意味ではまさに国賊的政治家と言わざるを得ません。


 その証左として、彼はなぜ、八十有余名のいわゆる小泉チルドレンを帥いて、今、国会を賑わしている道路特定財源の一般財源化に立ち上がらないのでしょうか。地方分権の推進という意味においては、誰が見ても一般財源化の方に道理があります。

 そのゆえに、ガソリンの値下げに賛成するかしないかはともかくとしても、(地方への税源移譲という彼の信念から言えば)最低、道路特定財源の一般財源化に決起するのが道理であり、かつ、今がその好機ではありませんか。

 しかし、この点に関しては未だもってウンでもスンでもありません。これは何を物語っているとお考えですか。

 この点について是非、ラストサムライさまの御意見を御聞かせ下さい。

 まず、足元のこんな自明のことすら実行できないようでは、とてもラストサムライさまの言われる『自国を自立した強い国家として築く為には、アメリカと協力しながら国内の過保護政策からの脱却また国内需要の拡大を計らなくてはならない。規制緩和をどんどんやり、お金の流れと雇用の流出によって適材適所が生まれ長い年月を経てて自立した国造りを行うことを目的としていた』ごとき偉大な政治家とは評価できないということです。つまり、そんなことはラストサムライさまの頭のなかだけにある幻想であります。

 その意味で、彼の田中康夫参院議員の言う「なんちゃって小泉竹中、へなちょこ改革」の指摘はまさに言い得て妙、であります。


2、ラストサムライさまは「大局を見据える」という意味が分かっておられません。

 大局を判断する前に、まず日本の立場を考えることが重要です。四方を海に囲まれ天然資源の乏しい日本は、四方八方の国々から資源を輸入し、加工し、輸出してその剰余価値で国民が食べてゆくのが基本です。言い換えれば、世界のいずれの国々とも仲良くして、戦争をしてはいけないのが日本の立場なのです。

 而るに、ラストサムライさまは「アメリカにべったりで、アメリカとのみ友好関係を維持しておけば万事こと足れり」とする小泉元首相が大局を見据えた偉大な政治家であると言う。しかし、上記のごとき日本の立場、それに基づいての大局を考えるという立場からすれば、これは明らかに大局の意味を取り違えております。

 但し、旧小泉政権が、ただ、自己政権の延命を図るための判断という意味での大局ということでは正解です。
 しかし、真の意味での日本の国益には明らかに反するということです。

 もとよりいわゆるパートナーシップは大事です。しかし、真の意味でのパートナーシップとは、ことの理非曲直を明らかにし、その是々非々を明確に相手に伝えるということです。それがなければ、アメリカという旦那にただ盲従するだけの「お妾さん」に過ぎません。何をもってこれが「大局を見据える」と言えるのか、まさに笑止千万と断ぜざるを得ません。


3、ラストサムライさまは「彼を知り己を知れば」の御理解が一知半解です。

 ラストサムライさまは、『アメリカ特に西洋人はどんな民族なのかご存知ですか? 日本の常識は通用しません。オーストラリアの捕鯨船に対しての行為はご存知ですか? これは一例ですけど独裁的パワーポリティックスなんですよ』と言われておりますが、私は既に「7 ラストサムライさまへの返信」のコメントにおいて捕鯨船云々、即ち「その主張が間違いであっても絶対に正しいと自己主張するのが彼らの特長である」と具体的に論じております。

 考えてみても下さい。捕鯨が動物愛護の精神に反するというのなら、彼らが毎日、屠殺・狩猟して食糧としている諸々の家畜や動物は可哀想ではないのか、と言うことです。要するに、誰が考えても理屈にもならない理屈を絶対に正しいと自己主張するのが彼らの論理であり、やり方なのです。その意味ではまさに小泉元首相も同類と言えます。

 問題なのは、私が既にそのことを指摘しているのにそれを読んでおられない、もしくは認識されていないということです。孫子の曰う『彼を知り己を知れば』<第三篇 謀攻>は、単に言葉を弄(もてあそ)ぶことではなく実践躬行が本旨なのです。

 捕鯨調査船へのオーストラリアの関与云々を言われる前に、まず足下である私の発言について「彼を知らず」であり、そのゆえに「己を知らざる」者と言わざるを得ません。


 さらに言えば、ラストサムライさまは『オーストラリアの捕鯨船に対しての行為はご存知ですか? これは一例ですけど独裁的パワーポリティックスなんですよ』と言われております。言い換えれば、このような独裁的パワーポリティックスに対してまともに対抗できるのは偉大な政治家たる小泉元首相ただ一人であるとでも言いた気であります。

 しかし、ラストサムライさまの見方は全く一面的・部分的な見方です。そもそもパワーポリティックスなるものは、オーストラリアの場合に限らず、全世界どこでも見られる普遍的な事象です。早い話が、無実の人間を簡単に罪に陥れる国家権力の恐ろしさを如実に天下に示した鹿児島の志布志事件や富山の冤罪事件はまさに、パワーポリティックス以外の何者でもありません。つまりは独断と偏見による実力行使ということです。

 その意味で、そもそも戦いという事象は全てパワーポリティックスなのです。それなのになぜことさら『これは一例ですけど独裁的パワーポリティックスなんですよ』などと強調される必要があるのかわけが分りません。

 孫子はそのことを『勢とは利によりて権を制するなり』<第一篇 計>、あるいは『権を懸けて動く』<第七篇 軍争>と論じております。吾人が孫子を学ぶ所以(ゆえん)です。
 ラストサムライさまは孫子に造詣が深い御様子ですが、一体、孫子の何を学ばれているのでしょうか。極めて疑わしい限りであります。

 そのような見識しかないラストサムライさまが、独裁的パワーポリティックスたる欧米とまともに渡り合えるのは偉大な政治家たる小泉元首相しかいない、と判断されても余りにも説得力がありません。

 彼の武田信玄の曰うがごとく、単に「がさつな人間」を武勇の人と見間違えているのではありませんか。パフォーマンスだけの偽装政治家たる彼にできるのはせいぜい、スピッツの遠吠えくらいではないでしょうか。


 また、ラストサムライさまは、『日本人は責任と権限を曖昧にし問題が起きても責任逃れできるようなシステムを作り上げます。そういう悪しき積み上げによって疲弊した政治を改革しようとした彼は評価するべきであると言ってるだけです』と小泉元首相を評価されておりますが、まさにその諸悪の根源たる官僚政治の改革を意図的に放棄しての政治改革に、一体、何ほどの価値があるというのでしょうか。

 彼はただ、改革をやっている振りをして、美味しいとこだけを散々喰い散らかし、挙句の果てに(いざ代金を支払う段になると)責任も取らずに食い逃げしたというのが実態ではないでしょうか。まさに「一将、功成りて万骨枯る」であります。しかし、これは国民の生命・財産を守るのが政治という観点からいえば絶対に許されない行為なのです。このような政治家のどこが偉大なのか私は理解に苦しみます。


4、諸方の利害を円満に調整し、落としどころに落とすのが政治である。

 ラストサムライさまは『宗教が違っても国家の為に戦った人達を弔うことは何か問題でもあるのですか?』と言われておりますが、もとよりそれは個人の自由であります。

 問題なのは、いやしくも一国の首相たる者は、諸方の利害を調整し、キチンと落としどころに落とすのがその役割であると申し上げているのです。それが政治家たる者の責任であり任務であると申し上げているのです。

 然るに、小泉元首相は全くその任務を果たさず、逆に、中国や韓国などとの国際的外交関係を悪化させ、国内的には為にする(ある目的を達しようとする下心があっての意)不毛の物議を惹起させ、それを自己の保身のために利用したのであります。

 そんなに戦没者の供養がしたければ、諸方の利害を調節するという意味で最もベターないわゆる「無名戦士の碑」建立に動くか、はたまた、(一国の首相としてではなく)戦没者を悼む一個人として参拝すれば良いのです。然るに、彼はそのいずれの方法も取らなかった、まさに国賊的な売名行為と言わざるを得ないのであります。


 ともあれ、『進みては名を求めず、退きては罪を避けず、ただ民を是れ保ちて、而も利の主に合うは、国の宝なり。』<第十篇 地形>が孫子の曰うリーダーの条件であることを我々選挙民は銘記すべきなのです。

 この資質と心構え・覚悟の無い人は、なまじリーダーなどになるな、世間の人が迷惑するということなのです。
posted by 孫子塾塾長 at 13:17| Comment(4) | TrackBack(0) | 時事評論

2008年01月29日

7 ラストサムライさまへの返信

 当ブログの「6 ラストサムライさまにお答えして」の記事について、1月15日、ラストサムライさまから三回目のコメントを頂きました。内容は下記の通りです。

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 理路整然とした内容ですけど心に響かない内容ですね。知識だけの理屈を捏ねても国民は動きません。
 内政に関して事細かな批判はあるでしょうけれど国民の代表としては世界を見据えて行動する首相が望ましいと思います。貴方が望む理想の聖人君子は理想であって現実的ではないです。

 世界で一番強い国はアメリカです。彼らの価値観は日本人には理解し難いエゴの塊です。それを突付けば武力行使を辞さない。そういう民族なんです。ではそういう民族とやっていくにはどのような方法が日本にとって得策でしょうか?

 一国の首相が靖国神社で参拝することは戦争で亡くなった多くの兵士や遺族にとっては嬉しいことでもありますよ。遺族の者として私は嬉しかったですね。例えそれがパフォーマンスであってもです。
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これについての管理人のコメントは次の通りです。

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 ラストサムライさま、度々の御意見を賜り誠に有難うございます。実に立派な御見解ですのでもとより申し上げることもありませんが、色々な意味で示唆に富む内容でありますので、敢て俎上に載せさせて頂きます。


(1)国の政治に直結する投票行動を「好き嫌い」で決めてはいけません。

 ラストサムライさまは、何か大きく勘違いされていませんか。スポーツや芸能、娯楽やレジャーの類はもとより「好き嫌い」の感情で判断されても一向に差し支えありません。

 例えば、レッドソックスが勝ったとか敗けたとか、朝青龍がモンゴルから帰るとか帰らないとか、藤原紀香が結婚したとかしないとか、ハンカチ王子がどうしたとか、そんなことはまさに個々人の趣味嗜好、好き嫌いの問題なのです。

 しかし、こと政治に関しては「好き嫌い」の感情で判断することは心して戒めなければなりません。なぜならば、政治は、孫子の曰うがごとく『(国民の)死生の地、(国家の)存亡の道』<第一篇 計>だからであります。

 政治や行政が何をしたのか、その結果がどうであったのかを主権者たる国民は平素から冷静な目で厳しく見つめなければならないのです。それを芸能人やタレント、スポーツ選手などを見る目と同次元の感覚で捉えてはいけない、ということです。例え、世間が、大勢がそうで合ったとしてもそれは明らかに間違いなのです。

 衆愚政治たる小泉劇場の下で行われた構造改革と規制緩和が何をもたらしたのか、はたまた、その背後にある彼の空疎にしてツギハギだらけ、見せ掛けだけの思想がどれほどの弊害をもたらしたのか、その結果たるや論ずるまでもありません。

 もとより国政に構造改革や規制緩和は必要です。しかし、世の中の事物は複雑怪奇ですから、して良いものと、して悪いもの、あるいはその取扱を慎重にしなければならないもの、など様々な性質があります。

 それを十羽ひとからげにして、単に、自己の人気取りのために、セーフティーネットや安全のためのガイドラインも考えず、(一般に謂われている意味での)拙速をもって乱暴に形だけの政治を行えばどうなるのかということです。

 政治は国民の生命と安全を守るものであり、それをただ政治家一身の名誉と栄達のために利用すべきでない、ということです。

 今日、大きな問題となっている地方や農村の疲弊、バスやタクシー、トラックなど運輸業界の過当競争による安全の崩壊は決して消費者の為になっていません。かつ、これらはあくまでも一部の現象と解すべきであり、一事が万事、いつ噴出すか分からない状況が秘められているところに衆愚政治の恐ろしさがあるのです。

 独裁者的に行われた衆愚政治の結末が、かつて無い地方の反乱を引き起こし、それにより自民党は、昨夏の参院選において歴史的惨敗を喫し、立党以来の最大の危機に直面しているのです。

 これらの現象は決して、ラストサムライさまの言われるがごとくの『内政に関して事細かな批判はあるでしょうけれど』などという能天気(のうてんき)な問題でないのです。まさに国家国民の死生の地、存亡の道なのです。

 そのゆえに、我々が政治家を判断する場合、(好き嫌いの感情でなく)彼がどのような思想を持ち、言動・行動において何をしてきたか、はたまた何をやろうとしているのかを厳しく監視することが肝要なのです。

 ラストサムライさまに選挙権があるのか無いのか分りませんが、少なくとも主権者たる国民は、(世間や大勢がどうあれ)平素から政治に関心を持ち、勉強し続けるという姿勢が重要なのです。それが民主主義国家の国民たる者の勤めなのです。

 これは決してラスとサムライさまが言われているような『聖人君子の理想』ではなく、極めて当たり前の現実的な問題なのです。世間や大勢がそうだからといって理論が間違っているわけではありません。いつの時代であれ真理は真理なのです。


(2)兵法とは何か・その一

 失礼ながらラストサムライさまは兵法というものが良く分っておられません。いつの時代であれ、またどんな社会であれ、その理屈に理があると分っていてもそのことに従いたくない人、反発したがる人は必ずいるものです。

 早い話がラストサムライさまとて、例えば「素直になれ」の重要性は認識されていると思います。しかし、だからといって、気に入らない人から「素直になれ」と言われても素直に従いたくないでしょう。それが人間というものです。

 そのゆえに、ラストサムライさまが言われているがごとくの『理路整然とした内容ですけど心に響かない内容ですね。知識だけの理屈を捏ねても云々』は、通常のごく当たり前の反応でありますから、(そのように反論されても)私は何の痛痒も感じません。

 しかし、問題は次の点にあります。つまり、兵法的に言えば、そのような謂わば程度の低い人を動かす方法が例えば「任侠」であり「情愛」なのです。言い換えれば、兵法に長けた人は、そのような人心操作の詐術をもって、物の道理の分らない人を手足のごとく動かすのです。

 もとよりそれが(先回の知行合一論で説明したごとく)正鵠を射たものであれば良いのですが、然(しか)らずんば、大いに問題があるということなのです。

 ゆえに我々は、その政治家の思想や言動、行動を平素からチェックする必要があるのです。つまり我々は、好き嫌いの感情で衆愚政治の片棒を担ぐことだけは民主主義国家の国民として避ける必要があるということです。その意味で、小泉元首相は、実に人心操作の詐術に長けた人と言うことはできます。


(3)兵法とは何か・その二

 失礼ながらラストサムライさまは、孫子の曰う『算多きは勝ち、算少なきは勝たず』<第一篇 計>の真意がお分かりではありません。孫子は算が多いから戦えとも、算が少ないから戦うなとも曰っておりません。

 それを偏見で解釈して『世界で一番強い国はアメリカです。彼らの価値観は日本人には理解し難いエゴの塊です。それを突付けば武力行使を辞さない。そういう民族なんです。ではそういう民族とやっていくにはどのような方法が日本にとって得策でしょうか?』などと言われているのは、まさに「孫子読みの孫子知らず」と断ぜざるを得ません。

 日本をアメリカの属州の一つの如くに勘違いされ、もしくは、そのように望まれてているとしか解されないラストサムライさまのお立場ではそのような御見解で宜しいのでしょうが、通常の日本人の感覚からすれば実に意味不明な論であります。

 もし、然(しか)りとすれば、日本は、例えば日清戦争も日露戦争も戦えず、ただ大国たる中国やロシアに命ぜられるがままに極東の片隅にひっそりと蹲(うずくま)っているだけのつまらない国家に成り下がっていたことでしょう。

 我々が今日あるのは、我々の父祖が敢然と立ち上がり、例えば、大国アメリカと戦った太平洋戦争の歴史があるからではないでしょうか。カミカゼの名が今日も世界に知れ渡っているのは、ことの是非はともあれ、我々日本民族の誇りではないでしょうか。

 私はアメリカと戦争しろと申し上げているのではありません。しかし、アメリカに逆らうな、唯々諾々(いいだくだく)とその命に従うべし、との売国奴にして国賊的な思想には組しないということです。

 そもそも、(一般的に言えば)他人のせいにするのが西欧人の思想であり、内に原因を求めるのが東洋人の思想です。例えば、日本の調査捕鯨船団を追う二つの環境保護団体の行動を見れば一目瞭然でありましょう。報道によれば、自分から日本船に乗り込んできてそのまま居座り、あろうことか「人質にされた、日本はテロ国家」だと世界に発信しているわけですから、その思想の何たるかは押して知るべしであります。

 つまり、言われている『彼らの価値観は日本人には理解し難いエゴの塊です。それを突付けば武力行使を辞さない。そういう民族なんです』などは当たり前のことであって敢て特筆に値するような内容ではないのです。それを踏まえてどう処置するかが兵法の兵法たる所以(ゆえん)なのです。

 ゆえにそのこと自体は問題でも何でもありません。問題なのは、まさに「だからそのような恐ろしい国に逆らうな、その方が得策である」と論じて憚(はばか)らない長い物には巻かれろ式の事なかれ主義、唾棄すべき避戦主義にあるのです。再度、孫子をキチンと学ばれることをお勧めします。


(4)日本の宗教は神道だけではありません。

 ラストサムライさまは、小泉元首相や神道に熱烈に帰依するゆえに『一国の首相が靖国神社で参拝することは戦争で亡くなった多くの兵士や遺族にとっては嬉しいことでもありますよ。遺族の者として私は嬉しかったですね。例えそれがパフォーマンスであってもです』と言われておりますが、ご存知のように日本の宗教は神道だけではありません。

 戦死し自動的に靖国神社の祭られている人が、例えば、仏教徒の場合、キリスト教徒の場合、無神論者の場合、彼らの心中は如何ばかりのものでしょうか。もとより、死者に思いは無いとして百歩譲ったとしても、そこに関わる戦死者遺族の方々の宗教事情も同じことなのです。

 ラストサムライさまのごとく単純に『一国の首相が靖国神社で参拝することは戦争で亡くなった多くの兵士や遺族にとっては嬉しいことでもありますよ。遺族の者として私は嬉しかったですね』と言えないことはお分かりだと思います。

 要するに、世の中のことは複雑怪奇なのです。平成19年を象徴する言として「偽」が選ばれました。しかし、あれはあくまでもいわゆる「氷山の一角」であり、巷には、彼の「振り込め詐欺」を始め、利権に群がる政治家の「偽」、国益を無視して省益を優先する官僚の「偽」、「離れではすき焼きを食っている」特別会計の「偽」、マスコミ報道の「偽」、宣伝広告の「偽」等々が溢れかえっております。

 油断をすれば喰われてしまうのがこの世の現実であり、能天気(のうてんき)では自滅せざるを得ません。吾人が孫子を学ぶ所以(ゆえん)であります。
posted by 孫子塾塾長 at 11:18| Comment(2) | TrackBack(0) | 時事評論

2008年01月14日

6 ラストサムライさまのコメントにお答えして

 当ブログの「3 エセ改革者・小泉元首相の現像、未だ覚めやらず」の記事について、1月8日、ラストサムライさまから二回目のコメントを頂きました。内容は下記の通りです。

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 返事ありがとうございます。只、私が思うに孫子の兵法はとても危険でもあります。それはそれをどのように解釈するかによって意味合いが変わってくるからだと思います。

 小泉前首相は、勝ち組と負け組みはいいが、待ち組みはダメだといいました。負け組みはチャレンジして負けた。しかし何もせず待ってるだけの人に対してはそれなりの社会的責任が圧し掛かってくると。

 政治家とは、国内のみならず世界的な規模で政治をやっていかなくてはならない。世界の中の日本の位置付けはどうなのか過去の歴史はどうなのかどのような力関係があるのかを考え日本の立場を良くするように働きかけなけらばならない。

 彼は過去の日本の良さも理解し敗戦によって悪い部分と一緒に葬りさられた日本的道徳的徳目の作法を理解しまた、それを今の世界的力関係の中でどのように復活するか西洋的合理主義はどのように利用できるかなどを考えての行動だったかと思います。

 単なる客寄せパンダみたいな政治家だと批判されるのは、表面的な見方だと思います。彼は国民に問うといって解散選挙を行った。危険な北朝鮮にも行った。郵政民営化も実現させた。彼なりの信念があったからできた行動だと思っています。普通の政治家なら先ず解散選挙なんてやらないと思います。

 「知ることは行う事の始めであり、行う事は知る事の完成である」と王陽明が語ってますが、正に彼は実行したと思っています。
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 これについての管理人のコメントは次の通りです。
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 ラスト・サムライさま、またまた傾聴に値する御意見をお寄せ頂き、誠に有難う御座います。

 孫子に大変お詳しいようですので、まず次の点について御教授頂きたく思います。

(1)貴信に『孫子の兵法はとても危険でもあります。それはそれをどのように解釈するかによって意味合いが変わってくるからです』とあります。

 一体、孫子の文言のどこをどのように解釈すればそのようになるのかを是非、御教示ください。


(2)また貴信に、『「知ることは行う事の始めであり、行う事は知る事の完成である」と王陽明が語ってますが、正に彼は実行したと思っています』とあります。が、しかし、これでは王陽明の思想の根本主旨について全く理解されていないと言わざるを得ません。

 これらを勘案すると、論理的に「孫子や陽明学そのものが危険なのでなく、それを学ぶ人の資質や能力に問題があるから危険なのである」と言わざるを得ないのですが、この点についても御意見を御聞かせ頂きたく思います。

 因みに、王陽明の「知行合一」説の本旨は一般に次のように解されております。


(3)王陽明が「知行合一」説を主張した背景

 いわゆる意識的行動という観点から人間の行動を観察すれば、その前提にまず「認識=知」があり、而る後に「実践=行」があるということは常識的に理解されます。

 つまり、認識=知と、実践=行は別々のことであるというのが通常の考え方であります。この「知」と「行」の関係は、中国哲学史の数千年来の課題であり、古来、「知易行難」の関係でそれをとらえ、知(認識)は容易だが、行(実践)は難しい、つまり「知先行後」という形で観念の優位性が説かれております。

 これが「知と行の関係」におけるのオーソドックスな考え方です。とは言え、実際問題として単なる知識のための知識は、いくら積み重ねても、真の知識・行動と結びついた知識にならないこともまた事実であります。否、むしろ、そうゆう意味での知識人ほど、意外と知識と行動が相反することも一般的傾向と言わざるを得ません。

 言い換えれば、高邁な行動理論を説きながら、いざというとき何にもできない、まさに「口舌の徒」たる学者先生をはじめ、我々の周囲を見回しても、知ったかぶりして偉そうなことをいう連中ほど、返ってろくな奴はいないということです。

 王陽明は、このような知識と行動の分裂は極めて重要な問題であり、これはまさに病気である断じて、古来のオーソドックスな思想たる「知先行後」に異議を唱える形で、いわゆる「知行合一」の思想を説いたのです。


(4)王陽明の説く「知行合一」の根本主旨とは

 しかし、ここで勘違いしてはならないのは、王陽明の説く「知行合一」は、今、この刹那の瞬間を生きる実践主体たる人間の「心」の実態について論ずるものだということです。つまり、王陽明の説く「知行合一」は、常識的に解されるところの「知ることが先で、行うことは後」とはややその趣を異にしているということです。

 簡単に言えば、ヘビースモーカーが、今、この瞬間、禁煙しようと決意すれば、まさにその瞬間は禁煙しているということになります。その意味で、王陽明は、知と行は本来、二つではなく一つであり不可分と言ったのです(常識的な解釈はここまで突き詰めていません。しかし刹那を生きる実践主体という立場においてはそうゆう解釈が成り立つということです)。

 しかし、そうは言っても、先のヘビースモーカー氏が(時間の経過とともに)ニコチンの禁断症状を起こして我慢できずに喫煙すれば、やはり、禁煙の重要性を知ることと、それを実行することは不一致と言うことになります(その人が平素から禁煙を公言している場合は、常識的な解釈においても不一致となります)。

 その意味では、聖書にある「情欲を抱いて女を見た者は、姦淫と同罪である」の言も同じことが言えます。つまり、実践主体たる個人の内面におけるその瞬間という意味で言えば、すでにそれを実行する態勢が始まっているということであり、そのまま目的を完遂すべく行動を継続すれば論理的には姦淫に行き着くわけです。

 とは言え、そう欲したからといって直ちにそれを充足するべく行動する人は、常識的には有り得ないので(例えそのような情欲を抱いたとしても外形的には)何事も起きていないがごとき態度をもって接することになります。つまり、常識的な解釈で言えば、これは言行の不一致には当たらないということであります。

 が、しかし、知行合一説のごとく厳密に言えば、(ことの善悪は別として)まさにそれは言行の不一致ということになります。そのゆえに、キリストは、性に対する純潔という意味で、「それはいけない」と言うのです。なぜならば、「情欲を抱いて女を見た者は、姦淫と同罪」だからです。

 これは法律の問題ではなく、真実に人に関わろうとする人の心の「知と行」の問題なのです。これが王陽明の説く「知行合一」の本旨です。


 つまり王陽明は、古来の「知先行後」思想の弊害を憂えて、現実のこの瞬間を生きる人間の立場に立てば、「知と行」はあくまでも一つであり間断や分裂は有り得ないと説いたのです。言い換えれば、本来、「知と行の関係」はそのようなものであるゆえに、強い真剣な気持ちをもって認識=知と、実践=行の問題に取り組むべきだと主張したのです。

 別言すれば、ことを為すの根源は、唯(ただ)に心の中に自然と備わっているのであり、この道理を外界の事物の中に求めるのはとんだ間違いである、と言うのです。

 とは言え、重要なことは何を実行するかということです。言い換えれば、天意に背かない正しい行動をするということであり、そのためには正しい知、すなわち知覚と意識の裏づけが必要となります。これが「知行合一」説の根本主旨であります。

 この理解が無く、単純に「知ることは行う事の始めであり、行う事は知る事の完成である」とばかり、私意に任せ思慮や分別を伴わない行動は、無価値どころか人間社会には極めて有害となります。マスコミ報道を賑わす社会的事件や不祥事などは殆ど「自分がしたいから、その欲求を満たすために、そのことだけを考えてやった」結果に他ならず、長崎県・佐世保のスポーツクラブで起きた散弾銃乱射事件のなどはまさにその典型例と言わざるを得ません。

 政治の目的が、弱者を助け、民の竈(かまど)を潤すことにあるとすれば、為政者はなおさら慎重に「知行合一」の根本主旨を理解する必要があります。

 とりわけ、小泉元首相のごとき、独善的で風変わりな政治家が、(たとえ悪気はなくとも)衆議によって政治をするよりも、その特異なパフォーマンスをもってマスコミ報道を煽り、衆愚政治を演出して、独りで断行するのが正しいと信じて、正鵠を射た多数の識者の意見や国民の声を無視して独断的に政治を行えば、世の物議や騒動を引き起こすことは必定であり、決して世の中のためにならないのです。

 結果はまさに、(己一個の趣味嗜好や独善的願望を満たして)悦に入っているのは小泉元首相ただ独りであり、弱者は益々、虐げられ、民の竈(かまど)は一向に潤わなかったと言っても過言ではありません。小泉元首相は政治家たるの資質を欠く、と評する所以(ゆえん)です。


 ともあれ、王陽明の知行合一説は、(行動の前にまず正鵠を射た理念が必要という意味で)結局のところ「知と行の関係」におけるオーソドックスな思想たる「知先行後」と同じものと言わざるを得ず、その域を出るものではありません。

 つまり王陽明は、ラストサムライ様の御説のように単純に「知ることは行う事の始めであり、行う事は知る事の完成である」と言っているのではないと言うことです。まず、天意に背かぬ正しい行動のためには何をなすべきか、それが最重要だと言っているのです。

 王陽明は、そのために最も重要なことはまず「志を立てる」こと、言い換えれば、「正鵠を射た理念」が必要だということを主張しております。私がここで言いたいのは、小泉元首相のパフォーマンスから窺い知る限りでの「その志」もしくは「政治的理念」が果たして弱者の為になり、民の竈(かまど)を潤すことを願ってのものなのか否かということであります。

 それが天意に背かぬ正しい思想であれば、まさにその「知行合一」は諸手を挙げて歓迎されるべきことなのです。しかし、もしその実態が私意に任せた個人的趣味の欲望充足にあるとすれば、それは由々しき問題であり、有害となるのです。


(5)小泉劇場の背景にある「志」は国民の幸福を願ってのものなのか

 一般に、小泉元首相は、永田町という特殊な世界のとりわけ政局には異常な興味と関心を抱いている政治家と謂われております。言い換えれば、国民生活と遊離したその舞台で、いかに立ち回り、いかに自身をアッピールし、いかにリーダーシップを取るかに生き甲斐と関心があるのであり、国民のために何をすべきかを考えるタイプに非ず、ということです。

 自民党を離党せずに「自民党をぶっ壊す、改革する」と言っていること自体がまさにその証左であり、つまりは、小手先だけの、見せかけだけの改革となることを自ら宣言しているようなものです。もとより、そのパフォーマンスが国民の利益を代弁しているように見える場合もありますが、その本質はあくまでも自己の保身のために利用しているに過ぎないということです。

 北朝鮮訪問の例で言えば、要するに、拉致問題の全面解決どころか、たった五人の拉致家族を返して貰うことを条件に拉致問題の幕引きを図ったのです。金正日が今もなお、拉致問題は既に解決済みだと言い続けている所以(ゆえん)です。つまり、拉致問題は、小泉元首相にとっては解決すべき問題ではなく、自身の政権浮揚のために利用する対象に過ぎなかったということです。

 郵政解散も同じことです。一般的には誰も郵政民営化には反対していません。問題はどのようなやり方をしたらベターなのか、ということが論点なのです。而るに、その肝心な論点をわざとはぐらかし、わけの分からない「郵政民営、是か否か」「郵政解散」などに論点をすり替え、いわゆる小泉劇場を演出したのです。

 つまり、小泉劇場とはまさに衆愚政治の別名に他ならず、あまつさえ、「郵政民営化、是か否か」に限って獲得したはずの「郵政」総選挙による多数の議席数を良いことに、あたかも、全てに対する国民の信任を得たかのごとく恣意的に解釈し、弱者切捨てのための障害者自立支援法などをはじめ、郵政以外のさまざまな法案を力づくで押し通したのです。

 要は、その時々の衆愚政治的を喚起するために適当なパフォーマンスを演出し、国政という舞台を利用して単にその個人的趣味を満足させたに過ぎません。「一将功成って万骨枯る」とはまさにこのことです。

 孫子は、『進みては名を求めず、退きては罪を避けず。ただ、民を是れ保ちて、而も、利の主に合うは、国の宝なり。』<第十篇 地形>が真のリーダーであると断じておりますが、小泉元首相の場合は、「進みて名を求め、退きては罪を避け」と言わざるを得ません。

 論より証拠で、アメリカナイズされた変な小泉政治の結果、現在の日本は、規制緩和の中で急速に膨らんだ日雇い派遣のデタラメな実態、二百万とも三百万人ともいわれるワーキング・プアの問題、弱者・地方切捨てによる社会的格差の問題、給与所得者の五人に一人が生活保護基準の目安である年収200万円以下である問題、低賃金で働かされ続けるパート労働者の待遇問題、正社員ですら、定期昇給もなく、いつ首になるか分からない労働環境で働かされている問題などが山積しております。我が世の春を謳歌しているのは強者たる一部の大企業だけ、と言わざるを得ません。


 もとより、これらの責任の全てが小泉政治にあるというわけではありません。が、しかし、このような傾向が顕著になったのは明らかに小泉政治以降ということです。このような厳しい現実に目を背け、例えばインド洋の米艦に莫大な費用を費やして燃料補給する必要性がどこにあるというのでしょうか。

 孫子の曰う『ただ、民を是れ保ちて、而も、利の主に合うは、国の宝なり。』どころか、まさにその正反対の政治家が小泉元首相であったと言わざるを得ません。


(6)小泉元首相の流す涙で国のために散った特攻隊員は果たして浮ばれるのか

 そもそも、アメリカ一辺倒のポチ犬が(そのアメリカを倒すために已むに止まれぬ思いで散って逝った)特攻隊員の遺影の前で涙を流したからといって、はたまた、国士気取りで、靖国神社に参拝したからといって、特攻隊員が喜ぶとでも思っているのでしょうか。私に言わせれば全て茶番であり、演出されたパフォーマンス以外の何者でもありません。

 もし本当に彼に日本の国を思う志があるのなら、戦後、日本が放置したままの戦争責任の総括を国民に呼びかけ、それを踏まえて新たな日本の国づくりたるビジョンを首相として国民に提示すべきであったのです。

 巧妙なパフォーマンスの演出という特異な才能をその面で発揮すればそれこそ「近年稀に見る政治家」と謳われたことでしょう。日本の行く末を案じて出撃した特攻隊員達は、そのことを見届けて初めて安堵し浮ばれるのではないでしょうか。

 日本人は、あれだけ悲惨な未曽有の大敗北を喫したにも拘らず、何の反省も教訓も得ないまま経済発展への道をひた走りました。これが今日のビジョン無き、日本社会の閉塞感を生み出している原因であります。

 ついでに言えば、無節操な日本人のこの性質こそが、戦争の直接の被害者たる中国・韓国などをして「日本は信用できない」と言わしめている所以(ゆえん)なのです。

 にも拘らず、「アメリカとさえ巧くやっていればそれで善し」とする、それこそ(知行合一の本旨に反する)天意に背いた不適切な狭い了見を踏まえ、思慮なき乱暴な行動をとったのが小泉元首相だったのです。

 まさに戦争被害者の神経を逆なでするがごとく、国士気取りで靖国に参拝すれば、中・韓の外交関係が冷え切るのも蓋(けだ)し当然のことであります。

 そもそも問題なのは、首相就任前は一度も靖国詣でをしたことの無い彼が、なぜ首相在任中に限って靖国に参拝したがるのか、誰が見てもこれは一身に注目を集めるための話題づくり、もしくは政権のイメージアップ図るためのパフォーマンスと言わざるを得ません。靖国参拝をしたいのなら個人の資格で行くべきなのに敢てそうしない、そこにはやはりそれなりの理由あると見るのは当然のことです。

 そもそも思想そのものが極めて脆弱なのになぜかパフォーマンスだけは熱心にやる、そこを見透かされているゆえに、大人たる中国首脳などは小泉元首相を評して「子犬」などと揶揄するのであります。軽さでは定評のある彼のブッシュ米大統領さえも(小泉元首相の軽さには)本心では呆れているのではないでしょか。

 このような政治家の一体、どこが「近年稀に見る政治家」なのか私にはさっぱり分かりません。むしろ、その特異な才能と相俟って、独裁者の資質を備えた危険人物と解するのが適当であります。然るに昨今、このような人物の再登場を願う向きもあるやに聞き及びます。が、しかし、心ある日本人は小泉劇場のごとき衆愚政治は二度と見たくないと感じているのではないでしょうか。
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2007年11月12日

5 「孫子を勉強するにはどうすればいいですか」に答えて

(1)孫子は知識の勉強ではありません

 一般的に言えば、生きている人間は皆、立派な兵法家であるとの見方ができます。極論すれば、例えば、弱肉強食が常態であるアフリカのサバンナに棲息する野生動物は、皆、類い稀な兵法家ということです。理屈なしに生き抜くために日夜、全身全霊をもって戦っているという意味であります。況んや、万物の霊長たる人間に於てをや、であります。

(2)その意味で、常在戦場の人として、明日をも知れぬ人生を生きた孫子(孫武)の立場も、現代を生きる我々個々人の立場も全く同次元のものと解されます。ゆえに我々個々人もまた(戦時・平時という程度の差はあれ本質的には)常在戦場の人なのです。


 言い換えれば、人は兵法などを学ばずとも、有限の生ある日々を自分の五感で感じ、知恵や工夫を働かせ、生き抜くために物事を考えようとしているということです。

 ただ、人間が動物と違うのは、そのような戦いの日々に際し、古来の先人の経験が知恵として結実している兵書を、(戦いに関する)物の見方・考え方の指針として利用することができるという点であります。而して、その戦いの主体者はあくまでも個別特殊的存在たる個々人であるということです。ゆえに兵法においては、まず「汝自身を知れ」が鉄則なのです。

 兵法を学ぶという原点は、まさにここにあるわけであり、その意味で、いわゆる受験勉強に代表される演算能力中心の知識勉強とは似て非なるものであり、言わば、幹と枝葉、全体と部分、脳力と能力のごとき相違があるということです。

 あるTVドラマで年配のベテランの捜査員が上司ではあるが若年にして新米のエリート捜査員に「六法全書では人は捕まえれない」と諭(さと)すシーンがありました。

 つまり、知識は必要であるが、それはあくまでも人間の脳力の一部に過ぎない。変化を常態とする世の事象に適切に対処するためには「脳力」という意味での総合的人間力を磨く必要がある、の意と解されます。


(3)かつて日本は、士農工商という身分制度の下にあり、そのリーダーたる武士道教育の棍本は総合的人間力の育成、もしくは社会の指導者たる者、人間としていかに生きるべきかを追究するにありました。社会的指導者層の育成という意味では、それはそれで世界に冠たる有意義な教育システムであったことは確かであります。

 とは言え、明治以降の日本の社会システムを踏まえれば、とりわけ学生時代は、好むとと好まざるとに関わらず、(リーダー育成たるかつての武士道教育とはおよそ対極に位置する)演算能力中心の知識勉強、いわゆる偏差値優先の教育とは無縁ではいられません。

 然(しか)らば、かつて社会的リーダーの育成システムという意味において、世界に冠たる武士道的教育は現代社会において不要かと言えば、さにあらず、(その意味での社会的要請を善意に解釈すれば)それは個々人が社会人になってから、自覚して主体的にやるべきものである、との暗黙の了解があると解されます。


(4)然りながら、それが現実に行われているか否か極めて心許ないものがあると言わざるを得ません。一般的に言えば、厳しい受験戦争に勝ち抜いて、例えば(偏差値教育の精華たる)一流校を卒業すれば、自他ともにこれで人間として一人前と錯覚し、どちらかといえば人間形成と無縁の生活を送る人が多いようです。況んや、二流校、三流校の卒業生においてをや、と言わざるを得ません。

 仮に、資格試験などの勉強をするにしてもそれはあくまでも従来の偏差値教育の延長に過ぎず、いわゆる人格完成、総合的人間力の形成を目指すものとは無縁のものです。


(5)言い換えれば、そのような感覚、もしくは知識の勉強の延長という観点から孫子を学ぶことは適切ではないと言うことであります。冒頭で記したのはまさにそのような意味なのです。

 孫子を学ぶということは、人生とは何か、生死とは何か、戦いとは何か、組織とは何か、社会とは何か、国家とは何か、それらを踏まえて人生いかに生きるべきかを追究し実践することです。そもそもは、そのような土台の上に、現実の日々の生活があり、ビジネスがあり、地位があり、資格試験があり、家庭があり、将来があるということです。


(6)人間は思考力があるがゆえに、万物の霊長たり得ましたが、その知識ゆえに、あるいは極めて便利な現代的システムゆえに、返ってそれが妨げとなって、自分の頭でものを考え、自分の五感で感じ、知恵や工夫を働かせて物事を考えようとする力が失われてしまっていることも事実であります。


(7)孫子は、あくまでもリーダーの書であり、現状変革の思想であり、実践の書であります。ゆえに、これを学ぶには単なる知識を学ぶという感覚では難解な部分が多々あります。その意味で、孫子を学ぶには(発想の転換を図るなどの意味で)一定の学習システムが必要になるということです。これらの詳細について興味のある方は、弊塾サイトの下記の目次項目を御覧ください。


「孫子に学ぶ脳力開発と情勢判断の方法」
http://sonshi.jp/


(T)孫子の学び方について:「孫子時評」のP2・「第七回 孫子を人生万般に活用するための方法」

(U)上記の参考として:「孫子談義」11月7日付けの「孫子の意味は必ずしも正しく理解されていない」

(V)孫子をオンライン講座で本格的に学びたい:「通信講座の御案内」
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2007年08月17日

4 戦略・戦術は極めて身近な問題である

 8月12日付け朝日新聞の「声」欄に「ダメな大人をバイトで見た」と題する投稿があった。本質を外れた薮睨(やぶにら)み的な思考パターンの横行する現代社会において、その矛盾を鋭く衝いた一言に我々は深く学ぶ必要がある。その内容を要約すれば次のようになる。

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 僕はスーパーでアルバイトをしている。働いてお金がもらえるのは、お客様がモノを買ってくれるからなので、お客様が一番大切なのは分かっている。

 だが、会計のとき、一言もなく立ち去る人、ビニールのカゴを放置する人など、どうかと思う人は多い。後の人のことを考えられないのだ。こちらは買ってもらう側で、お客様がいないと店はやっていけない。文句を言うつもりはないが、カゴを返すことくらい自分でやってもらいたい。

 ほんの三、四歩で片付けることがことができるのに。そんなに難しいことだろうか? 時間がないのだろうか? 片付けない人はオジサンが多く、意外にも若い人は片付けるのである。

 「近ごろの若い者は」と、よく言われるが、実はオジサンたちの方かしっかりしていないのである。こんな小さなことが変えられれば、きっと世の中は大きく変わっていくと思うのだが…。

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 投稿者は岐阜県の16歳・高校生の方であるが、若い世代の純粋な立場から見た何気ない一言は、いつしか世慣れし日々純粋さ失いつつあるオジサン達に「戦略・戦術とは何か」あるいは「人間の特長たる自覚的能動性とは何か」を再考するためのヒントを示唆するものである。私は次のように考えた。

 まず、このオジサン達のパターンは二つに分けて考えられる。一つは、自分と他人のために、使った物は「整理整頓」もしくは「必ず元の位置に戻す」のが人間の知恵である、と知ってはいるが実行できなかった場合、一つは、そのような知恵は端(はな)から念頭にない言わば野生児もしくは狼少女的タイプの場合である。


一、オジサン達の好きな戦略・戦術の観点から考えた場合

 ここでは、戦略とは、最も中心的な位置にくる目的、目標、そして方向づけといった根本レベルの考え方をいう。戦術とは、どのように具体的に戦略を達成してゆくかという手段方法をいう。

 つまり、この場合、自分のため、あるいは(次に使う)他人のためにビニールの買い物カゴを定位置に戻すという決心が戦略であり、その決心に従い、実践の場においてカゴを手に持って二、三歩、歩を進めるというのが戦術である。

 そのゆえに、そうすべきであるという「知恵」を知っていながら実践できなかったオジサンは、まさに「ほんの二、三歩」歩くことが不能という意味での戦術の失敗により、戦略を(ヤルからヤラナイへ)変えてしまったということである。逆に言えば、そもそも戦略という「根本の決心」が決まっていなかったとも言える。

 いわゆる戦略・戦術という言葉が日本社会で喧伝されてから久しい。とりわけオジサン達はこの言葉が好きなようであるが、その意味内容がどこまで理解されているのかは甚(はなは)だ疑わしい。大方は、新興宗教に心酔している信者のように、ただ呪文の如く唱えているに過ぎないようである。

 しかし、戦略は呪文の如く単に言葉を並べることではなく、(戦術による)行動の追求と積み重ねを絶対条件としているものゆえに現実を変革する力を持つのであり、その意味では、「買い物カゴ」のごとき極めて身近な問題から「戦略・戦術とは何か」の実際的感覚を養うことが肝要なのである。

 五体満足な普通のオジサンなら「ほんの二、三歩が歩けないから戦略を放棄した」などと言えないだろう。否、そんな馬鹿なことは幼稚園児でさえ言わないであろう。にもかかわらずできないのは何処に問題があるかと言うことである。それを考え、問題を解決する、つまり現実世界を変革するのが戦略・戦術を考えるということである。

 彼のメーテルリンクの「青い鳥」を引き合いに出すまでもなく、「幸福の青い鳥」は何処(どこ)か遠くにあるのではなく、自身の足下にあることを知るべきである。

 百歩譲って「買い物カゴ」の話はよしとしても、ことが「飲酒運転」の場合はどうであろうか。この場合の戦略・戦術の不一致は極めて重大な結末に至る可能性があることは論を待たない。しかして、そのメカニズムは「買い物カゴ」の場合と全く同じなのである。

 つまりは、「小さなことができない人間は、大きなこともできない」のであり、「一円を笑う人間は、一円に泣く」ということなのである。世に飲酒運転が尽きない所以(ゆえん)である。こんな人に限って「買い物カゴを戻すに必要な、ほんの二、三歩の時間」はたっぷりあるのである。無いとは言わせない。もし無いとすれば、それは税金の無駄遣いと同じく、単に使うところを間違えているに過ぎないのである。


二、「野生児もしくは狼少女」の観点から見た場合

 野生児も狼少女も、もとより人間社会でのマナーを知らないから、仮に「買い物カゴ」を放置しても、罪は無い。だからといって、知性を持ち、五体満足で長年人間社会で暮らしているオジサンがマナーを知らないからという理由で何をしてもいいという理屈にはならない。「お互い迷惑をかけない」「人の振り見て我が振り直す」のが社会を生きる知恵だからである。野生児や狼少女と同列に論ずる訳にはいかない。

 分からなければ素直に聞き、知らなければ自ら学ぶのが知性ある人間の姿である。毛沢東は「喜んで小学生に学べ」と論じている。そのような素直な心を失い、考えることを放棄し、独善的にただ欲望の充足だけに日々を送るのなら犬や猫と同じである。

 イスラム教の人間性弱説を引くまでもなくも、人間は尽きることのない欲望の塊であり、欲望の誘惑に弱いものである。ゆえに、欲望に身を委ねることは確かに快楽であるが、それが昂じて貪(むさぼ)りとなれば、満たされぬ苦しみが生じ、やがては欲望の奴隷となる。

 欲望充足の利と害を十分に知って、適切にこれに対処するのが「性善ではあるが性弱」たる人間の健気(けなげ)さというものである。

 とりわけ人間には、環境や条件に屈せず、ナニクソと発奮して主体的に行動して物事を変革して行く力がある。彼の毛沢東はこれこそが人と動物を区別する所以(ゆえん)のものとしてこれを自覚的能動性と名付けている。

 かつて筆者も、欲望の赴くままに、車の窓からゴミを平気で投げ捨てて恥とも思わない人間であった。その習慣を新婚早々の妻からたしなめられた。妻は中学校の教師であったからそうゆうことにはうるさいのである。筆者も初めは「細かいことを言うなあ、面倒くさいなあ」と思いながら塩らしくゴミを車内のゴミ袋に入れるようにしている内に、それがいつしか習慣となり、そのようにすることはとりわけ苦ではなくなった。

 そのような立場で、他人が車の窓から平気をゴミを投げ捨てる様を目にすると、いかにそれが顰蹙(ひんしゅく)を買う見苦しい行為であるかということが身に染みて分かった。極論すれば、クソ・小便を垂れ流して走っているに等しい行為に映ったのである。

 要するに、人間は欲望のままに行動することもできるが、欲望を制して、これを理性に従わせることもできるのである。いわゆる、理論と実践、戦略と戦術の関係はまさにその問題であることを理解する必要がある。

 ゆえに、ことは高々、「買い物カゴ」の後片付けをどうするか、という表面的問題に過ぎないが、その根本には、戦略と戦術、欲望のコントロール、自覚的能動性と現実の改革などの本質的問題が隠されているのである。

 たった一度の人生、深く味わって生きようとする向きの人は、このような些細な現実を直視して目を背けない心構えが肝要と考える次第である。

posted by 孫子塾塾長 at 11:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事評論