2009年01月16日

19 琉球古武術における武器の由来について

 一般的に、いわゆる「空手」は素手で行う武術と喧伝されております。しかし、スポーツ空手という意味では正しいのでしょうが、武術空手という意味においては正確な理解とは言えません。

 なぜならば、そもそも空手の技法は武器を使うためのものであり、逆に言えば、武器を持たない時、その武器の代わりとして身体を用うる場合、どのように使えば効果的かと言う観点から工夫されたものが空手だからであります。

 そのゆえに、例えば、棒の前手突きと、空手の前手突きの技法は全く同じ術理から成り立っているのであります。

 然(しか)らば、武術空手の前手突きとスポーツ空手の前手突きとは同じものかと言えば然(さ)に非ず、様々な理由によりまさに似て非なるものと言わざるを得ません。

 つまり、琉球武術という意味での空手はまさに武器術と表裏一体・車の両輪関係にあるのであり、空手のみが単独で存在しているという訳では無いのです。

 因みに、中国では現代においても武術を学ぶのであれば拳術のみでなく数種類の武器術を学ぶのは常識であるとされます。空手の祖形もまた遠く中国の少林拳にあることは、空手や武器術の型の一部にその名残が残されていることから見ても明らかです。空手と武器術が両面一体・陰陽一体の関係にある所以(ゆえん)であります。

 ともあれ、近年、海外においては、とりわけ欧米を中心に琉球古武術への関心が高まっていると謂われております。残念ながら空手の本家たる日本においては様々な事情からその実際は余り知られていないようであります。とは言え、最近は、海外の影響のゆえか、強い関心を示される方も少なからずおられるようであります。

 そのような折、読者の方から『琉球古武術における棒,サイ、ヌンチャク、トンファー、鉄甲、鎌、ティンベー、スルジンといった武器の由来について教えてください』とのご質問が寄せられましたので、次にように答えておきました。


一、棒(中国風に言えば棍)

 言わずもがなのことですが、棒は石器とともに人類最古の武器であり、古代より使用されてきたものであることは論を待ちません。中国では古来、少林寺の棍法が有名です。「すべての武術は棍法を宗とし、棍法は少林を宗となす」と言われております。沖縄の棒は、地理的・文化的な立地条件から見て(もとより南方渡来のものもあるでしょうが)基本的には中国からの影響を強く受け、沖縄の文化と風土の中で、独自の創意工夫を凝らしつつ成立したものと解することができます。

 独自という意味は、そもそも漢人(いわゆる支那人)の体に合わせて成立した中国武術的な動き方を(人種の異なる)琉球人の体に合うように工夫したという要素(もとよりこのことは棒のみに限りませんが)を含めての、言わば中国武術の沖縄化という意味合いです。

 因みに、棒の種類としては、六尺、九尺、三尺、砂掛け棒があります。

二、サイ

 中国・明代の陵墓からサイの祖形と思われる武器が出土しています。サイの由来については俗説・珍説の類が多くありますが、やはり中国渡来のものと推定されます。

 因みに、釵の種類としては、通常の三叉(みつまた)の釵の他に特殊な形の卍釵があります。

三、ヌンチャク

 彼のブルース・リーで有名になったいわゆるヌンチャクは、中国北方では双節棍(シャンチェコン)と言い、福建省では両節棍と書いて「ヌンチャクン」と言っています。これもまた中国渡来のものと推定されます。その他、三節棍、四節棍もあります。

 因みに、ブルース・リーが映画で使ったヌンチャクの技法は沖縄伝来のものとは全く関係ありません。沖縄の技法は携帯棒としての一本のヌンチャクを両手で操作するものであり、ブルース・リーのごとく二本のヌンチャクを両手に持って使うということはありません。

 因みに、フィリピンにはKALI(カリ)と呼ばれる伝統武術が伝えられております。60〜70cmの短棒を両手、または片手に持って打ち合いながら、様々な動きを練習するものであります。

 このフィリピンのKALI(カリ)の技術の一端としてヌンチャクに似た形状の武器(タバクトヨクと呼ばれる)があります。沖縄のヌンチャクが一本の棒を扱うがごとく重く鋭く振るのに対し、タバクトヨクは、非常に軽快な振るところに特徴があります。

 ブルース・リーの場合は、このKALI(カリ)とタバクトヨクの技法にヒントを得て映画用にショーアップしたものであります。因みに、彼が映画撮影時に用いたヌンチャクはプラスティック製の軽いものと謂われております。

四、トンファー

 トンファーは、拐(カイ・福建省ではトンクワー)という名で中国には古くから伝えられている武器であり、各種の形に分かれていますが、その中の一種が沖縄に伝えれたものと推定されます。

 因みに、イタリアン式フェンシングの中には、十字形になっている剣の柄を上から鷲掴みの形で握り、突きの後にトンファー的な使い方をするものもあります。手首の回転と武器の遠心力を利用した裏拳的な技法は洋の東西を問わず、共通のものがあるようです。

 トンファー術の特長は、一本の棒を二つに分断してかつ短くし、それぞれに把手(え)を付けて(上記のイタリアン式フェンシングのごとく)操作し易くしているため、通常、両手で操作するところの棒の技法と同じ技法を片手で操作することを可能にしていることにあります。

 そのトンファーを両手にもって自在に操作するということは、つまるところ、両手に棒を持って自在に操作することと同じことを示唆するものであり、その意味においても、トンファーの応用範囲は極めて広いということになります。

 少なくともトンファーは、俗説で謂われているがごとく「石うす」の取っ手から考えらた武器でないことは確かです。洋の東西を問わず、そこには深遠な術理が秘められているということです。

五、鉄甲

 鉄甲は日本の忍者も使っていますが、由来がどこというよりも拳の威力をより強める必要性からこれまた洋の東西を問わず自然発生的に工夫されたものと解されます。とりわけ琉球古武術の鉄甲術の場合は、空手の術理を最もストレートに応用できる武器ということになります。

 少なくとも、(徒手の組手に殆んど近い)鉄甲の組手をすれば、空手の拳をなぜ当ててはいけないのかという理屈が本当の意味で理解されます。鉄甲はもとより武器であり、空手の拳もまた武器に他ならないからであります。逆に言えば、空手においてなぜ拳足を鍛える必要があるのかを真に理解できるということであります。

六、鎌

 戦は基本的に野外で行われるものです。そのような場所で生い茂る雑草や潅木の類を刈り払い陣場を構築するのに不可欠にして便利な道具が鎌です。のみならず鎌は湾曲した刃で梃子の原理を用い、少ない力で大きな殺傷力を得ることができ、かつ相手の武器を引っ掛けて絡め操る特長があるためるため古来、武器としても用いられたのです。

 琉球古武術には古伝空手の術理を応用しての二丁鎌術があり、日本には鎖鎌・長柄の鎌・鎌槍などがあります。

 因みに、いわゆる鎖鎌術は、分銅鎖術と鎌術を合体させたものでありますが、鎖鎌術の流派の中には、(琉球古武術と同じく)分銅鎖を付けない形での二丁鎌を用い、本来の鎌術としての精緻な技法を残しているところもあります。

七、ティンベー

 正確にはティンベー(楯)と、ローチン(短槍)を組み合わせたものでティンベー術と言います。このように、片手に防御用の楯を持ち、片手に剣・刀などの攻撃用の武器をもって戦う武技は(ギリシャ、ローマの時代を例に引くまでもなく)古代からありました。

 たとえば、中国の場合、明の名将、戚継光が和寇の撃滅戦法に用いた強力な秘密兵器として知られております。そのティンベー術は、楯という防禦兵器に、投げ槍・腰刀という長・短二つの攻撃兵器を組み合わせたところに特長があるようです。沖縄のティンベー術にも似たような所作があるため、多分にその影響を受けたであろうことは想像するに難くありません。

八、スルジン(短鎖・長鎖)

 人類史上、鉄が武器として登場すると、それまでの青銅製の武器は瞬く間に姿を消して行きました。鉄の特長が固く折れず曲がらず強いところにあったからです。その鉄がいわゆる鎖の形状をとれば、鉄は一転して、柔らかく折れて曲がりかつ強い素材ということになります。

 その特長を武器として活用したものが、棒手裏剣の如き形状の武器と(鎖の先に分銅をつけて用いる)分銅鎖を合体させたスルジン術ということになります。分銅鎖で相手の武器や首を絡めて、先端の鋭く尖った棒手裏剣状の柄で攻撃するなど多様な技法があります。

 とは言え、物事には必ず両面があります。分銅鎖が強力な武器なだけに、反面、コントロールいう側面においてはその操作に難点があり、そのゆえに熟練の技が要求されるということになります。生兵法でこれを用いることは、返って自らを傷つけることになるという危険性を秘めた武器です。

 スルジンの種類としては、鎖の長さが一尋(両手を左右に広げたときの長さ)の短スルジンと、二尋の長スルジンがあります。因みに、日本の鎖鎌の鎖は長いもので3.5メートル前後あります。


 いずれにせよ、古来、沖縄では(もとより中国もそうですが)空手を学ぶ者は武器を併せて学ぶのが常識となっています。上記の八種の武器はまさに手の延長であって、空手と異種のものではなく、長短の武器を学んでこそ空手のすぺてを理解できるものと謂われております。
posted by 孫子塾塾長 at 16:57| Comment(5) | TrackBack(0) | 歴史

2008年06月22日

12 空手は農民のゲリラ闘争から生じたとするウソ

 空手の歴史に関し、巷間、実(まこと)しやかに語られるものの一つに「沖縄の空手は薩摩の圧政に抵抗する農民のゲリラ的闘争の中で編み出されたもの」とする珍説・俗説があります。

 しかし、それは真っ赤な嘘、全くの虚構であり、そのような史実も根拠も見出すことはできません。そこで、この問題の構成要素を抽出すると次のように整理されます。

一、空手はどのうような立場の人々によって伝承されてきたのか

二、空手の稽古が明治維新前まで秘密裏に伝承されてきた背景とは

三、いわゆる素手(空手)で鉄砲や刀槍と戦う農民のゲリラ的闘争とは何なのか

 以下、これらについて、どのように判断するのが適当かを考えてみます。


(1)空手はどのような立場の人々によって伝承されてきたのか。

 琉球武術としての空手は、(徒手武術としての)空手と表裏一体の関係にある琉球古武術とセットで伝承されるものであり、その意味では、そもそもいわゆるスポーツではなく、本土の古流剣術などと同じく総合武術としての膨大な体系を伝えるものであり、かつ文化遺産としての価値を持つものであります。

 これを伝承してきた中心的な人々は、(記録に残されている限りにおいては)農民や町人、職人や漁民ではなく、刀を取上げられた琉球士族(サムライの意)、なんかずく、按司(あじ)・親方(うえーかた)・親雲上(ぺーちん)・などいった上級士族に該当する身分の者、言い換えれば、王府の官僚・官人にして経済的・時間的に余裕のある階層の有志たちであったと伝えられています。

 つまりは、士族(サムライ・支配者)としての存在意義を追及することによる必然の結果としての武術の錬磨と言うことであります。

 このことは例えば、戦国時代の終焉を契機として提起された必然的な問題、即ち、戦闘者たる武士の存在意義(平和時における言わば武士の職分)とは何か、について追究した山鹿素行の辿りついた結論と相通ずるものがあります。

 彼は、「武士は生まれによって武士になるのではなく、行いによって武士となる」、「武士は、生産的な業たる農・工・商に携わる人々と異なり、道徳を究め模範的な生き方を世の中に示すために存在している」「模範的な生き方をしていない者は武士ではない」と断じております。

 その意味で(武器術を含む)空手は、禁武政策下にある琉球のサムライにとって、人間の内面的な進歩発展を実践方式で図る言わば生活の術であり、一種のシステムとして機能したものと言えます。


(2)空手の稽古が明治維新前まで秘密裏に伝授されてきた背景とは

 既述したごとく、平和の時代において戦闘者たる武士たちは、道徳を究め社会に範を示す職分たる自己のアイディンティティを求めて、行往座臥(ぎょうおうざが)、文武の道に勤(いそ)しむことを目標としました。

 このゆえに、巧まずして柔術・剣術を初めとして戦国乱世に源流を持つ様々な武術が百花繚乱のごとく花開き発展したのであります。

 とりわけ沖縄の場合は、琉球武術たる空手と琉球古武術がその中心であったこと、また、中国武術の教授形式たるいわゆる「拝師制度(弟子には一般弟子と正式弟子の区別があり、師が正式弟子として認可し師弟の契りを結んだ者のみがその流儀の秘伝を伝えられる仕組み)」の影響を受け一定の人間関係の中で稽古、伝承されていたと言うことです。

 言い換えれば、王府の官僚・官人たる空手修行者にとって、空手はあくまでも自己の精神修養・人格完成の手段であって、ビジネスや金儲けの手段では無かったこと、そのゆえにこそ、真に空手の道を研究・伝承しようという素養ある少数の人を選抜して教えたということであります。

 つまりは、教える必要の無い人には教えなかったというだけのことであり、教えるべき人にはキチンと空手の秘奥が伝授されていたということです。まさに事の性質上、そもそも公開すること自体に意味がなく、偏に「師は針となり、弟子は針」となって純粋に術理の継承が行われる環境づくりこそが重要視されていたのであります。

 その意味においては、かつての武術空手の術理は現代においても脈々と受け継がれていることは確かです。ただ、かつてもそうであったように、それがスポーツ空手のごとく一般化・顕在化しているかと言えば必ずしもそうとは言えないということです。言い換えれば、古伝空手・琉球古武術とはスポーツ化されていない空手のそもそもの原型が残されているものとも言えます。


(3)素手(空手)で鉄砲や刀槍と戦う農民のゲリラ的闘争とは何なのか
 
 そもそも、佐渡島より一回り大きい程度の沖縄本島で何ほどの武力闘争ができるというのでしょうか。益してや、沖縄支配のために常駐していた薩摩藩の軍兵は三百人前後と謂われております。

 たとえば、捕り方に追われた彼の侠客「国定忠次」は、広大な赤城山に逃げ込みましたが、その所在はほどなく突き止められ、「名月、赤城山も今宵限り」の名セリフを残して退散を余儀なくされております。

 ことがまだ中央政府の統治力が弱い奈良・平安時代ならともかく、徳川幕府によって天下統一された幕藩体制下でそのような革命もどきの武装蜂起が許されるはずも無いと考えるのが通常です。

 況んや、反乱の明確な目的も無く、指導者も存在せず、武器も用いず、ただ個々人が勝手に「素手・空手」で鉄砲や刀槍と戦ったと真顔で言われても、凡人の頭はただ困惑するのみであります。

 要するに、広大無辺の中国大陸を舞台とする水滸伝や三国志の世界を、単に薩摩の圧政と重ね合わせただけの超能天気なマンガ劇作家あたりが、空手よ斯(か)くあれかし、の願望を込めて妄想した荒唐無稽な作り話に過ぎません。

 普通の知性で考えればそれが信じていいことか、信じてはいけないことなのかの区別はつきそうなものなのですが。俗に謂う「鰯(いわし)の頭(かしら)も信心から」もしくは「あばたもえくぼ」とはまさにこのようなことを言うものであります。

 少なくとも空手はいわゆる武術の一形態であり、そのバックボーンが兵法にあることは言わずもがなのことです。兵法の本質はまさに孫子の曰う『兵とは、詭道なり。』<第一篇 計>であり、その最大の眼目は「まず自分自身に騙されないこと」にあります。

 いやしくも武術家を標榜する空手家が、意味不明な珍説・俗説を有り難く盲信することは、そもそも兵法の本義に背くものと言わざるを得ません。
posted by 孫子塾塾長 at 21:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史