2009年05月06日

23 形が似ているからと言ってミソとクソは別だし、月とスッポンは異なる

 余りお待たせするとオリシトヨクさまのイライラ感も益々強まり、精神衛生上も宜しくありませんのでこの辺でお答えしたく思います。ただし、私の質問にはキチンとお答え下さるようお願い申し上げます。

 まず、その説明に先立ち次ぎの二点を明確にしておきたいと思います。

一、石臼こと、いわゆる碾(ひ)き臼について

 碾(ひ)き臼は、穀物などを粉砕し製粉する道具です。その昔は殆どの家庭にありましたが、時の流れとともに姿を消し、今では、時折、気の利いたお蕎麦屋さんで見かける程度です。念のために言えば、平らな円柱形の上下二個の石臼からなり、上臼にある孔(突き抜けた穴の意)から穀物などを落とし、上臼を取っ手によって回転し製粉するものです。

 臼は、古来、「大きいもの」や「重いもの」の譬えとして良く用いられております。因みに、取っ手が付いている上臼の重さは、標準的なものでも、優に20キロを超えるものがざらにあります。

 碾(ひ)き臼の取っ手説の真偽を追究する場合、まず、問題となるのはその上臼の重さです。何となれば、その上臼の取っ手を掴んで、通常のトンファーのごとく軽快かつ自由自在に振り回せるものでなければ(単に取っ手の形が似ているというだけでは)論理的に今日見られるトンファーの技法には結び付かないからです。

 同じく、後述する「取っ手という技術的思想」との関係で、碾(ひ)き臼の取っ手なるものは、そもそも、いつ頃から始まったのか、ということも重要な問題となります。

 因みに、中国で小麦の粉食が始められたのは漢代(前202〜220)と考えられています。それまでの製粉は「すり鉢」形のものが使われていたようです。小麦は西アジア原産で、中国へは回転式の石臼とともにシルクロード経由でもたらされたと言われております。つまり、漢代以前には碾(ひ)き臼の取っ手なるものは存在しなかったということです。

二、取っ手という「技術的思想」について

 取っ手とは、家具・とびら・なべ・やかん・茶碗などの器物につけて手に持つ部分(つまみ・柄)、また手で動かす部分のことです。元の用字は把手(はしゅ)です。

 つまり、フライパンの柄・なべのフタ・ドアのノブ・箒や塵取りの柄・コーヒーカップのつまみ、鍬や鉞の柄、槍や刀の柄、楯の握り部分などは全て取っ手、もしくは把手(はしゅ)と称されます。

 そのことを踏まえて、次のことをオリシトヨクさまの明敏な頭でお考えください。

 フライパンに柄が無ければフライパンはどう使いますか。煮えたぎる鍋のフタにつまみが無ければどうして鍋のフタを上げるのでしょうか。刀や槍に柄がなければ刀や槍はどうのように使うのでしょうか。箒や塵取りに柄が無ければ不便でしょうがないでしょう。コーヒーカップの場合、例えば通常の湯のみ茶碗のごとく必ずしも取っ手は不要ですが、有った方が便利でしょう。

 ドアにノブが無ければドアはどうやって開けるのでしょう。鍬や鋤に柄がなければどうやって田畑を耕すのでしょう。楯に取っ手が無くてもその上下を両手で押さえれば取り合えず攻撃は防げるでしょうが、いわゆる両手塞がりの状態となるため肝心の片方の手が活かせず、武器としての利便性に欠けます。

 ともあれ、器物に取っ手(把手)を付けると、その器物が実に使い勝手が良くなり機能的であるということは、無形の技術的思想として古来、連綿と受け継がれてきた人間の叡智なのです。

 要するに、個別特殊的な表現である碾(ひ)き臼の取っ手があろうが無かろうが、その背景には、そもそも「取っ手」という普遍的な無形の技術的思想が人間の知恵として存在しているということなのです。

 この無形の技術的思想が、その器物の用途や目的に合わせて、様々な個別特殊的な形状として表現されるのです。逆に言えば、刀や槍の柄にコーヒーカップのつまみを付けても意味が無いということです。用途や目的が異なるからです。

 同じように、トンファーは武器であり、碾(ひ)き臼は生活道具です。自ずからその用途や目的は異なります。そのゆえに、碾(ひ)き臼の取っ手をヒントにトンファーの取っ手が考え出されたのではなく、そもそも「取っ手」という無形の技術的思想が存在するゆえに、武器、もしくは生活用具という各々の用途・目的に合わせて各々の「取っ手」が成立した解すべきなのです。

 結果として、たまたまその形が似通っているということをもって、貴方は、トンファー術は碾(ひ)き臼の取っ手から編み出されたものと言われる。が、しかし、前記したごとく、その上臼の取っ手を掴んで、通常のトンファーのごとく軽快かつ自由自在に振り回せるものでなければ(単に取っ手の形が似ているというだけでは)論理的に今日見られるようなトンファーの技法には結び付かないのです。

 第一、後述するタイ式トンファーの取っ手の使い方は、そもそも、貴方の言われているような碾(ひ)き臼の取っ手を回すというイメージそのものに合致しません。それはなぜか、それを考えることが人間の知性です。俗説を盲信することと、人間の知性とは凡そ似て非なるなのです。

 そのゆえに私は声を大にして言うのです。『確かにミソとクソはその形が似ている。しかし誰が考えてミソとクソが別物であることは明白である』と。

 貴方が「否」と言うのであれば、私は真顔で問い質(ただ)したい。ならば「ミソはクソから編み出されたものか」と。

 試しに小学生に質問してください。「ミソとクソは一緒か」と。たちどころに返答が来るでしょう。「いや違います。なぜならミソは食べられますがクソは食べらませんから」と。同じように、「形が丸い」という意味では、確かに月とスッポンは似ております。しかし、誰が考えても別ものです。

 そのゆえに、オリシトヨクさまの言われていることは、例えば、『彼の宝蔵院流槍術はお寺の大広間を掃く長い座敷箒(ざしきぼうき)の柄から生まれた。なぜならば柄の形が似ているからである』のごとく、実に幼稚なレベルのものであることをご理解ください。

 なぜ柄の形が似ているだけで高度な槍の技法と座敷箒(ざしきぼうき)の柄が結びつくのか、凡人の頭では全く理解できません。

 百歩譲って、碾(ひ)き臼の取っ手のデザインがとても気に入ったとして、トンファーの旧来の柄と交換し、後にそれがトンファーの取っ手の形として定着したとしましょう。

 しかし、だからと言って『トンファーの起源は碾(ひ)き臼の取っ手にあり』と喧伝すれば通常の知性のある人は笑うでしょう。なぜならば、それはトンファーの取っ手のデザインに関する問題であり、トンファーの本質的構造や機能、技法に関わる問題では無いからです。


 凡そ、事物の変化においていわゆる突然変異は有り得ません。人間の感覚で認識できるか否かはともあれ、みな然るべき理由があって変化するのです。

 トンファーという武器の形状、及びそれを踏まえて成立している高度な技術的体系は、単に碾(ひ)き臼の取っ手を見たからと言って、あたかも魔法のごとくに出現するものではありせん。まさに手品の演出のごとくに、そこにはそうなるだけの合理的かつ具体的な理由が存在するのです。

 その最も肝心のプロセスが見事に欠落している貴方の「石臼の取っ手説」は、まさに妄想的なお伽(とぎ)話のレベルであると断ぜざるを得ません。

 それとも、オリシトヨクさまは、取っ手(把手)という技術的思想の起源は、全て碾(ひ)き臼の取っ手に発するとでも言われるのでしょうか。

 然りとすれば貴方の俗説は必ずしも誤っているとは言えないでしょう。(トンファーの技法の成立に関してはともあれ)少なくとも、トンファーの取っ手の部分に関しては正しいと言えます。

 然しながら、既に見たごとく碾(ひ)き臼の歴史は漢代以降であります。しかし、取っ手という無形の技術的思想は既に石器時代の槍の柄、土器の取っ手、青銅器のつまみ等の例をを引くまでもなく無数に表現されております。

 無形たる技術的思想が、各々の用途・目的、機能に合わせて、その個別特殊的な表現として、例えばトンファーの取っ手となり、例えば碾(ひ)き臼の取っ手となっているというだけのことです。

 貴方の言われるがごとく、碾(ひ)き臼の取っ手をヒントに、トンファーの取っ手が成立した分けでも無く、益してや、トンファーの高度な技術的体系が魔法のごとく碾(ひ)き臼の取っ手から生まれた分けでは無いのです。


 それが証拠に、トンファーの場合は、回転の中心軸は柄であり、柄を中心に棒身が回転するのです。逆に、碾(ひ)き臼の場合は、回転の中心軸は円形たる上臼の中心であり、取っ手はその上臼の外周上を回るものです。

 もし、トンファーの取っ手の機能が、碾(ひ)き臼のそれと同じであれば、そもそも武器としての役割は果たせず、逆に、碾(ひ)き臼の取っ手の機能がトンファーのそれと同じであれば、そもそも製粉という役割は果たせません。考えるだけでSFの世界であります。

 この一事を見ても両者の成立は自ずから無関係と言わざるを得ません。もし関係があるとすれば、単に形が似ているという、ただそれだけのことです。確かに人間とチンパンジーはその外形は相似ております。だからと言って、人間とチンパンジーは同じとは言わないでしょう。通常の頭の人は。

 要するに、オリシトヨクさまはイメージで物事をつかんだり、アバウトに把握する粗雑な頭の持ち主であり、物事を正確に判断する器量に欠ける傾向にあるということです。何となくアバウトに「一を聞いて十を知った積りになる」粗忽なタイプとお見受け致します。

 貴方が、トンファーの型もやられたことがない、従ってまた、トンファーの振り方や基本もご存じ無い、にもかかわらずトンファーについて知ったか振りをする、という事実がその何よりの証拠であります。因みに、孫子はそのようなことを『彼を知らず己を知らざれば、戦う毎に必ず殆うし』<第三篇 謀攻>と曰うのです。


※ そこで、オリシトヨクさまに質問をさせて頂きます。しっかりと答えて下さい。

 貴方は、取っ手という無形の技術的思想の起源が全て碾(ひ)き臼の取っ手にあると考えているのでしょうか。然(しか)りとすればその根拠をお示しください。否とすれば、トンファーの取っ手の成立と、碾(ひ)き臼の取っ手との相関関係云々は、実に荒唐無稽、妄想的かつ幼稚な思い付きであること自省して下さい。


三、空手の上段受けの形と、その前腕をガードすることの実戦的な意味

 実に、面妖で不思議なことですが、いわゆるスポーツ空手をやられている方の多くは、なぜ空手の上段受けがあのような形をしているのかをご存知ない場合が多い。

 それどころか、「なぜあのような意味の無い受けがあるのか良く分らない、なぜならば試合には殆ど使われないからだ」と言う。『であるならばやらなければ良いのに』と助言すると、「いや、基本や型にあるから仕方なくやるのだ」とおっしゃる。

 要は、空手に関し真剣に「なぜ」と考えたことも無ければ、仮に疑問を抱いても、「適切に教えてくれる人がいない」、つまりはアバウトの一語に尽きるのです。本来、日本人は、もっと緻密な思考をする民族のはずなのですが。

 そのような方にトンファーを逆手持ちして貰い、そのまま空手の上段受けの形を取って頂くと、一目瞭然ゆえに、たちどころに空手の上段受けの由来を察知されます。

 つまり、トンファー術の上段受けの形からトンファーを外したものが空手の上段受けと言う分けです(ことの事情は釵の場合も同じ)。

 空手は徒手で行うものゆえに、トンファーを外した形がそのまま空手の上段受けとなるわけであります。その意味では、まさにコロンブスの卵ですが、人は言われるまでは気付かないものなのです。

 つまりは、空手の上段受けも武器術たるトンファーの上段受けもその武術的思想は全く同じということです。単にスポーツ空手の視点のみをもって空手の本質を理解しようとしても自ずから限界が生ずる所以(ゆえん)であります。まさに『木に縁(よ)りて魚(うお)を求む」に相似ております。


 ではなぜ、トンファー術にそのような上段受けがあるのか、ということです。


 確かに、空手の上段受けは、スポーツ空手という観点からすれば、さして重要な技法ではないと言えます。なぜならば、スポーツ空手では、相手は間違っても六尺棒や金属バットで突然、頭を目掛けて殴りかかるということは有り得ないからです。

 しかし、こと武術という観点からすれば、そのようなことは当然に想定の範囲内のことであり、自ずからそれへの対処法を編み出さねばならないのです。実はこのことは、トンファーの由来を考察する上で重要なヒントをもたらします。

 因みに、空手の上段受けの技法は、中国・少林拳にも見られるもので、実戦武術という意味合いにおいては、非常に有効な方法と考えます。

 その観点から、改めてトンファーの長さを観察すれば、上段受けの前腕を完全にカバーするに足る長さであることが一見して分ります。逆に言えば、トンファーの機能の一つは上段受けの前腕を安全に守る役割があると言うことです。


 その理由については、敢て説明するまでもありせんが、念のため要点を記します。


(1)攻者が真に殺意を抱いて六尺棒や金属バットで防者に殴り掛かる場合、当然のことながら、先ず防者の頭部を狙うでしょう。これは本能的な攻撃行為と言えます。

 因みに、彼の桜田門外の変に際会した武士の回顧談として「平素、道場では抜き胴など派手な技を教わり稽古していたが、実際の斬り合いの場になると、頭が真っ白になり、ただ上段に振りかぶり、無我夢中で相手の面を打つことだけの技しか使えなかった」との述懐があります。


(2)それに対する防者は、とっさに、もしくは無意識的に、片手もしくは両手をもって上段受けの形でその頭部を守ろうとするでしょう。これは本能的な防禦行為と言えます。この場合、マンガや映画などでは六尺棒や金属バットの方が真っ二つに折れますが、現実的な通常の生身の人間は、その前腕に致命的な打撃を受けることは必定です。そのことが即、敗北に結び付く痛手であることもまた論を俟ちません。

 逆に言えば、前腕に関わるこの一撃を何らかの方法で安全に防禦できれば、防者は直ちに反撃して攻守ところを変えることができるのです。ここにトンファーの第一義的な狙いがあると私は見ております。

 要するに、武器に対するに武器をもってするのが人間の知恵であり、最も避けるべきは武器に対するに生身の肉体をもってすることであります。


(3)ゆえに、その原初的形態として、例えばタイに伝えられているトンファーのごとく、通常のトンファーの取っ手の前に(その取っ手を握っている拳を保護するための言わば鍔的役割の)もう一本の取っ手を付け、さらにトンファーの後端を肘に固定するために(手が通る程度の大きさの)紐の輪を付けた形が考えられます。


(4)あるいは、最も簡便な方法としては、握れる程度の太さで、長さはトンファーと同じくらいの短棒を携帯し、いざという時、その短棒の先端を釵の如くに逆手持ちして前腕をカバーしつつ、空手の上段受けの形で攻撃を禦ぎ、直ちに突きで反撃に転ずるという方法も考えられます。


(5)はたまた、彼の塚原卜伝のエピソードにあるがごとく、囲炉裏端で来客に不意に切りつけられた時、とっさに鍋のフタの取っ手を掴み防禦したいうやり方を応用して、言わば前腕防禦専用の小型の楯を携帯することも考えられます。


(6)私が思うに、少なくとも沖縄に伝えられているトンファーのそもそもの原初的形態は上記(3)のタイ式トンファーのごときスタイルからスタートし、次第に創意工夫が加えられ現在の形と技法に至ったものと解されます。その理由について次のように考えられます。


(7)例えば、タイ式トンファーのごとき場合、確かに前腕は完全に防禦できますが、(後端が紐で肘に固定されているため)攻撃という意味では突きか、もしくはそのまま殴り付けることしかできません。

 仮に、紐を外したとしても、拳の前のもう一本の取っ手が妨げとなって、本手持ちが不十分となるため十分な上段打ちができません。当然、本手持ちでの受けも不十分とならざるを得ません。

 この場合において、様々な試行錯誤と創意工夫のもと、操作に熟練すれば必ずしも腕を固定するための紐は必要ないこと、また(拳を保護するための)もう一本の取っ手を外すことにより、トンファーの振り方が自由自在になること、従ってまた、より自由に攻防の技が繰り出せること、などの利点を見出したものと考えられます。


 上記の(4)の場合は、簡便ではありますが(単に逆手持ちで握るだけでは)どうしても短棒と肘の固定に不安があること、また当然のことながら拳の安全にも難点があります。

 この場合においても、器物に「取っ手」を付けることにより、その有効かつ適切な機能アップが図れるという無形の技術的思想の観点から、その矛盾解決の方法として自然にトンファー式の取っ手が工夫されたであろうことは(タイ式トンファーの例を引くまでもなく)自ずから理解されるところです。

 もとよりそこには、ある程度の試行錯誤と創意工夫が反復されたことでしょうが、ともあれ、これにより前腕を安全に防禦でき、かつ十分なる逆手持ちの突きができること、さらにそこから、(逆手持ちから)直ちに本手持ちに切り替えての振り打ちや受けなどに変化できる高度な技術の体系が生み出されたということであります。


※ そこで、オリシトヨクさまに質問をさせて頂きます。しっかりと答えて下さい。


 貴方の言われる、トンファー『碾(ひ)き臼取っ手説」を通常の人間の感覚で受け止めれば、上記の(3)(4)(5)のごとき実践の状況がその背後にあったということになります。

 例えば、碾(ひ)き臼で農作業中のお百姓さんが、突然、不審者に襲われ六尺棒で脳天を攻撃された。そこで(塚原卜伝よろしく)とっさに重さが優に20キロを超える上臼の取っ手を掴み、空手の上段受けの形で、相手の六尺棒の攻撃を受けたという事実があるか、と言うことです。

 百歩譲って、そのような場面は無いとしても、件(くだん)のお百姓さんは、田畑での農作業の合い間に、常時、上記の『碾(ひ)き臼型トンファー』を振り回して稽古に励んでいたという事実があったのか、と言うことです。

 なぜかと言えば、常時そのようにして稽古され、かつ様々な試行錯誤と創意工夫が反復されて初めて、今日みられるような神妙なレベルのトンファーの術理が生まれるのが道理だからです。


 そもそも、人間の脳というものは、実践行動があって初めて十分に機能する性質のものです。言い換えれば、何ごとであれ事物発展のプロセスには、具体的な実践行動が不可欠なのです。これは人間社会の初歩的な通念ですす。

 そのゆえに、私は貴方に、20キロを優に超える『碾(ひ)き臼型トンファー』を使って毎日々稽古していたという事実があったのかを敢て確認しているのです。

 このバカバカしくも愚かな事実が貴方によって証明されない限り、『碾(ひ)き臼型トンファー』からトンファー術が発生したということは論理的には言えないのです。

 もし貴方が、あると強弁されるのであれば、それは妄想か、あるいは魔法か、はたまた他愛もないお伽話と断ぜざるを得ません。

 貴方は碾(ひ)き臼の取っ手、取っ手と熱病のようにうなされておりますが、現実問題として優に20キロを超える『碾(ひ)き臼型トンファー』など実際に使用できるのでしょうか。その意味で『碾(ひ)き臼型トンファー』は、言わば動いていない船と同じです。

 そもそも動いてもいない船(実践行動の欠落している意)の舵をどのように切ろうと船は方向を変えることはできません。もし、そんなことを本気で考えている船長がいたとすれば、部下たる船員の嘲笑を買い、バカにされるのがオチであります。失礼ながら、オリシトヨクさまの言われていることはそれと同じことなのです。

 現実に使われることなど想像することすらできない『碾(ひ)き臼型トンファー』からどうして高度な技術体系が生まれるのでしょう。明確にお答え願います。

 なぜ貴方がそんな馬鹿げたことを信ずるのかと言えば、貴方はトンファーの技法や術理がどんなものかご存知ないからであります。知らないがゆえにデタラメなことを平気で分け知り顔で言えるのです。

 古来、謙虚さを貴ぶ日本人は、そのような傲慢不遜な態度を『恥ずかしい』こととして忌み嫌うのです。


 ともあれ、否定ばかりでは貴方も立つ瀬が無いでしょう。そのゆえに私は次のようにアドバイスしたく思います。

 既に述べましたように、トンファー「碾(ひ)き臼取っ手説」は合理性が甚だしく欠落しております。ゆえに放棄すべきです。しかし、上記(5)のトンファー「鍋のフタ起源説」は可能性としては否定はできません。ゆえに、貴方は遅疑逡巡することなく過去の盲信を捨てて、新たにトンファー「鍋のフタ起源説」を主張されると宜しいと思います。

 塚原卜伝のエピソードにある、鍋のフタの取っ手がどのような形状のものかはもとより知る由もありませんが、ここでは、一応、「つまみ」状のものとします。

 件(くだん)の囲炉裏端の一件で、「鍋のフタを利用して前腕で禦ぎ敵を制する法」を編み出した卜伝が、その鍋のフタをさらに使い易くするために、取っ手のつまみを長くして、逆手の持ち方を工夫し、長さは肘をカバーできる程度に伸ばし、反対に取っ手から前の不要な部分をカットし、全体的に前腕の形に合わせて瓢箪型の形状にし(この形状は防禦に有利でかつ遠心力が働きます)、さらに防禦と打撃の威力を増すために材質を硬い樫の木に変える等の工夫が想像されます。

 このようにして工夫されたトンファーが、仮に卜伝の時代にあれば、携帯に便利であり、とっさの理不尽な攻撃にも安全に前腕を守れ、かつ反撃にも威力が発揮されるので重宝されたことと思います。

 要するに、トンファー「碾(ひ)き臼取っ手説」は荒唐無稽なお伽話ですが、トンファー「鍋のフタ起源説」は必ずしも荒唐無稽ではないと考えられます。なぜなら、それを創意工夫に足る稽古の実践がプロセスとして存在するからです。


四、戦場の兵法について

 実戦において前腕で受ける技法がいかに有効であるかについて古武術・時代考証家の名和弓雄先生は次のように書いておられます。


「続 間違いだらけの時代劇」(名和弓雄著 河出文庫)より
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 大勢の侍たちが剣術の稽古をしていると、その中に一人、突きの達人がいて、次から次に相手の胸を突いて、突き倒してしまう。刺突の方法が、まことに珍しいので、どの相手も意表を衝かれて負けてしまう。

 その侍の剣法は、左の腕に、打たれてもこたえない丈夫な防具をまいて立ち合い、相手が打ち込んでくると、その木刀を左腕で受け止め、左腕の下から、右手の木刀で相手の胸を、したたかに突いて倒す…というやり方であった。

 一見、まことに幼稚に見えるし、馬鹿馬鹿しいほど簡単な方法であるが、この侍、なかなかの練達の技量で、誰も負けてしまう。そのうちに、負けた連中が、不平を唱えて騒ぎ出した。

 負け組みの言い分は、「こんな馬鹿げた剣法があるはずがない。第一、戦場であれば、腕を斬り落とされてしまうではないか。実戦に使えない兵法の型など、ありえない」と言うのである。

 この言い分に突きの達人は答えた。

 「自分はたび重なる合戦場で、いつもこのやり方で、敵を倒してきた。実戦になると、この兵法が一番すぐれていると思っている」と反論して譲らない。

 「いや、それは信じがたい話である。敵の斬りかけてくる白刃を、左腕で受け止めるなど、そのような危険なことが出来るはずがない」と双方言いつのって、争いになりかけた。

 突きの達人は、負け組みの侍たちに言った。「議論より、確かな証拠をご覧にいれよう」と。論争に加わらなかった中立の侍たちのとりなしで、とにかく、突きの達人の屋敷まで同道することになった。(中略)

 突きの達人が、これをご覧いただきたいと…と、具足櫃(ぐそくびつ)から取り出された具足は、粗末なものであったが、一同は付属している籠手(こて)を見てあっ気にとられた。その籠手は筒籠手で、特別注文で入念に作らせたものらしく、具足には不釣合いなくらい頑丈で、立派であった。

 さらに一同は、左の筒籠手の厚い鉄板の上に残っている無数の斬り込み(刀の傷痕)を見て、思わず息をのんだ。

 負け組みの侍たちのすべてが納得した。いかにも…戦場の兵法とは、このようなものか、と歴戦の体験兵法を認めたのである。

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五、まとめ

 凡そ、事物の発展には、必ずその原初的形態とその歴史的プロセスがあります。今日、見るところの攻防一体の武器たるトンファーをその原初的形態という観点で捉えると、一応、その形状などから判断して「防・守」を主とする武器として出発したものと解するとができます。

 とは言え、もとより攻防は一体であり、かつ事物には必ず両面性がありますから、「防・守」の中にも自ずから「攻」の側面があります。そのゆえに、当初は「防・守」が主体であったトンファー術も、その創意工夫により次第に今日におけるような攻防一体の精妙な武器術に発展したのだ言えます。

 言い換えれば、例えば、タイ式トンファーを(その形状から)今日のトンファーの原初的形態と仮定すれば、その形状を踏まえ、ある程度の試行錯誤と創意工夫が反復されれば、今日におけるトンファーの形と用法に無理なく帰結するであろうことは明白です。

 俗説のごとく『碾(ひ)き臼の取っ手』をヒントにトンファーの取っ手が生まれたと言われても、そもそも原初的形態とも解せられるタイ式トンファーの場合には(取っ手を握って回すという)そのイメージそのものが該当しません。

 即ち、今日におけるトンファーのごとく、取っ手を回転軸として攻防自在に操作するという技法よりも、最も基本的かつ重要な技法たる防禦的機能に有効な形で取っ手が工夫されているからであります。

 そのゆえに、稽古という実践の中で、次第により機能的な使い方が工夫され、やがて今日のトンファーの形が完成し、同時に、逆手持ちの用法のみならず、本手持ちによる受け、振り打ち、逆回し打ちなど攻防自在の用法が完成したと解するのが適当であります。

 思うに、タイには原初的形態のトンファーが(中国から)棒とともに伝えられ、そのまま今日に至ったものとも解せられます。これに対して、琉球には初めから完成された形のトンファーが一定の技法とともに移入されたものと解せられます。木製の棒に取っ手(把手)が付いているトンファーと同じような武器が中国にもありますので、これはそう考えた方が適当です。

 ゆえに、今日見られる琉球のトンファーはタイのそれとは比較にならないほど高度な技法の体系を有しているのだと言えます。もとより、そこには伝来後の様々な創意工夫が反復され、いわゆる琉球化したトンファー術となっていることは当然のことであります。

 終わりに、オリシトヨクさまに申し上げます。そもそも言論の自由なるものは、その言論の中味を吟味し検討することにあります。

 この最も重要かつ肝心な部分は一切論ぜず、ただ只、信じている、信じているの一点張りでは、凡そ言論の自由の名に値しません。それは宗教家の論としては立派ではも通常の社会通念には著しく反します。このことを申し添えておきます。

 多少、辛めの論評となりましたが、特別、貴方に悪意がある分けではありません。それはご理解ください。オリシトヨクさまのご意見を奇貨として(貴方宛ではなく)この拙文を読まれる読者の方々に本質を考えることの意義について、その一例を示したものであります。
posted by 孫子塾塾長 at 08:20| Comment(1) | TrackBack(0) | 時事評論

2009年04月20日

22 俗説の真偽の程を検証することと、俗説をただ盲信することとは自ずから別である

 通常、私はまともなご質問には極めてまともに答えております。しかし、いわゆるまともでないご質問にはそれなりに答えるのを常としております。貴方の「好戦的な語句は避けて下さると助かります」とのご要望には添いたく思いますが、上記の私の観点もご理解頂ければ幸甚です。

 さて、結論を先に申し上げる前にその大前提としてお考え頂きたいのは、世の中のことには必ず二面性があり、どんな問題も「善か悪か」「白か黒か」「証拠が有るか無いか」などの二分法では割り切れない複雑な形をしているということであります。

 正義漢づら、善人づらをして「白か黒か」で単純に裁くことは、当人には快感ではありましょうが、裏を返せば、頭を使わない最も安直な方法と言わざるを得ず、かつ問題解決には至らない拙劣なやり方ゆえに適切ではありません。

 何であれプラス面の中にはマイナス面も含まれているし、マイナス面の中にはプラス面も含まれているゆえに、物事を一面的・表面的・部分的に見てはいけないということです。人間の思考力をもって主体的に自分の頭で考える姿勢が肝要なのです。

 そのゆえに私は、(その割り切れないものに対し)多角度・多面的・本質的な見方・多様な可能性を示し、その上で「そうであるもの」と「そうでないもの」とのいずれに道理(利)があるのか、いずれに軍配が上がるのかを個々人の思考力をもって判断して頂く、という方法を提唱しているのです。

 そのゆえに、まずは、ことの背景・土台の部分というものを考える必要があります。

(1)人間と言うものは、そもそも、いわゆる洗脳され易いものである。

 このことは、我々の日々の生活や社会的現象などを少し観察すれば誰しもが分ることでしょう。もとより、良い方向に洗脳されるのであれば問題はありませんが、悪い方向に洗脳される場合も枚挙に暇がありません。後者の端的な例としてはいわゆる「振り込め詐欺」が挙げられます。

 例えば、窓口の銀行員が「騙されていますよ」と必死に止めるのに(逆にそのような親切を逆恨みしつつ)強引に偽口座に振り込むのですから処置なしです。こうゆう手合いに限ってその洗脳から覚める否や、すぐさま警察に飛び込み(自分の責任を棚に上げ)どうしてくれるんだと大騒ぎするものなのです。

 このゆえに人間は、物事を自分の頭で考え、自分でその真偽を主体的に判断する脳力を磨くことが極めて重要であります。益してや、激動・動乱の時代においてをや、です。

(2)資料の読み方、本の読み方は表面的・一面的であってはならない。

 例えば、今、私の手元に沖縄の然(さ)る有名な空手関係者の著された書物があります。トンファーを論じているその一節に「演武にあたっては、特定の形はないが、空手の動作を巧みに応用する云々」とあります。

 これをトンファーに通じている人が読めば、『この著者は(トンファーに関しては)何にも知らないな』と判断するであろうし、トンファーに全く無知の人が読めば、然るべき大家の記述ゆえに『そうかトンファーには形がないのか』と単純に思い込むでしょう。

 言い換えれば、資料や本に書いてあることが全て正しいと鵜呑みにするのは(生き方としては)極めて危険なことなのです。そのゆえに人は、それらを(他人の頭でなく)自分の頭で主体的に判断できるよう常に学び続ける必要があるのです。

 然りながら人は、そもそも性、弱き者ゆえに、そのような人間らしい習慣づくりを放棄し、思考停止状態で、ただ「新聞に書いてあるから本当だろう」とか、「テレビに出ているから偉い」とか、「本に書いてあるから間違いない」とか、あたかもレッテルを貼るがごとく安直に判断する方向に走るのです。

 さて、その上でお尋ね致します。貴方がご指摘される『ご自身の伝承と他所からの伝聞は区別して書いてください』は、上記の本の場合で言えば、一体、どのように書けば良いのでしょうか。

 まさか「私の伝承ではトンファーの形はある」、しかし「大家の伝承ではトンファーの形は無い」と併記するのでしょうか。然りとすれば、それは人間の頭の使い方ではなく、まさにロボット的な頭の使い方と謗(そし)られることは必定です。

 にも関わらず貴方は平然と『ご自身の伝承と他所からの伝聞は区別して書いてください』と言う。ゆえに私は、貴方に対し(社会人としての専門的能力はもとより卓越されているのでしょうが)人間の総合的知性という意味では実に「幼い」と言わざるを得ないのであります。

 言い換えれば、情報を鵜呑みにしたり、本に書いてあるから正しいと考えるのなら人間の頭は要らないということです。逆に、例えば宗教などの熱烈な信者であればそのような資質は極めて好ましいものなのでしょう。しかし、通常の社会人がそのような偏頗(へんぱ)な考え方に染まっていれば、普通は『バカ』と謂われます。

 最近、新聞のニュースに、次のような記事がありました。

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 岐阜地裁で15日行われた窃盗事件の公判で、同地裁の男性裁判官(40)が男性被告(20)に対して「バカ」と発言していたことが分かった。

 地裁総務課によると、大量の漫画本を万引きしたとして窃盗などの罪に問われた事件の被告人質問で、被告は漫画本を売って大麻を買う金を作るためだったと説明。『(大麻が)体に悪いと思っていない』 『インターネットでは、たばこや酒より害がないと書いてあった』と話す被告に対し、裁判官が『だまされているんだよ、バカだから』と述べたという。
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 「バカ」と発言した裁判官の行為が、法的論理から判断して適切かどうかは分りません。が、しかし、通常の人はこの裁判官の見解は正しいとして支持するでしょう。なぜなら、件(くだん)の人物は(情報を鵜呑みにするという意味では)まさしく「バカ」であり、かつ当人がそのことに気付いていないからです。

 孫子はこのことを『彼を知らず、己を知らざれば、戦うごとに必ず殆うし』<第三篇 謀攻>と曰うのです。「彼」とは、他者のみならず自己内部の敵をも指すものだからです。

 大変失礼ながら、貴方の物の見方・考え方は、もとより上記の「バカ」と同じとは申しませんが、多分に似たところがあると言わざるを得ません。

 言い換えれば、貴方の『インターネットで得た情報を不用意に混ぜないでください』とか、『それともフィリピンでKALI(カリ)を教わったのですか』とかの物言いは、まさに他者の情報を鵜呑みにしているという点において上記の「バカ」と同類だと言うことであります。

 今日、通常の頭の人ならインターネットの情報が全て正しいなどとは考えていないでしょう。ゆえに、仮に資料として使う場合、その適否を吟味し判断するのは当然のことです。つまり、貴方の言われるがごとく(ネットの情報をそのまま鵜呑みにして)混ぜるも混ぜないも無いということです。

 また、琉球古武道とフィリピンのKALI(カリ)の技法が異なるということくらいは(オバサンならともかく)普通の頭で普通に考えれば分ることです。ネットで情報を得たとか、得ないとかの問題ではありません。

 貴方の論法は、例えば情報がないから空手と少林寺拳法、もしくは柔道と合気道の違いが分りません、と言うがごときものであり、極めて杓子定規的な硬直した思考と言わざるを得ません。普通の人間は、通常、そのような考え方はしないものです。

(3)俗説の真偽の程を検証することと、思考停止状態で俗説を盲信することとは自ずから別である

 そもそも、トンファーの「石臼・取っ手説」が俗説か否かの判断もできないで、ただ盲信するだけのレベルの人が、なぜ、沖縄のヌンチャクの技法を俗説と断定するのか実に意味不明です。

 因みに、沖縄で謂われているトンファーの起源説は、上記の「石臼の取っ手説」ばかりではありません。その他にも「自在カギ説」「水田用のウズンビーラ説」「取っ手説」があります。

 貴方はあたかも怪しげな宗教の熱烈な信者のごとく「石臼・取っ手説」に固執され盲信されておられますが、その他の説もまさに貴方の言われる伝承ですから、貴方の論法でいくと「全て正しい」ということになります。

 そうしますと、(前記したトンファーの形の有無のケースと同じく)貴方はこれらを併記して全て正しいと言うのでしょうか。それとも貴方の盲信する「石臼の取っ手説」のみが正しいと言うのでしょうか。

 私には何やら(ロボット的思考法の貴方ゆえに)理解不能の信号を発し、思考回路がショートして、その賢明なる頭から煙が噴出して来そうな予感がします。

 いずれにせよ、貴方の人間としての頭は少しも機能していないとの謗(そし)りは免れません。盲信・洗脳もそこまで徹底されるとは実に立派過ぎて言葉もありません。

(4)トンファーに類似する武器は、中国はもとよりタイにも存在する

 学者によれば、中国のトンファー、つまり木製の棒にいわゆる「取っ手」が付いている形状には、六種類があり、その中の一種が沖縄に伝来したと解されるそうである。

 ところで貴方は『中国人が石臼の取っ手を流用してトンファ術を伝授していたならば、それは沖縄人からは見れば「石臼の取っ手から考案された武器」とも見えるものですから、伝承としては間違いとは言えません』と言われております。

 然りとすれば、件(くだん)の中国人とは、沖縄の人に少なくと四通りの由来を伝授したわけですから、実にデタラメな人物ということなります。貴方はそのようなデタラメな人物の伝承を神の如くに崇め奉っているということになります。

 因みに、タイにも沖縄のトンファーと非常に類似している武器があり、沖縄と同じく棒との組手も行われているそうです。

 貴方の見解によれば、タイにも中国人が出かけて行き、トンファーを伝授しつつ、実はトンファーの起源は「石臼取っ手説」であると伝えたことになります。

 しかし、残念ながらそのような伝承はタイはもとより、本家の中国でも寡聞して聞いたことはありません。もしそのようなものがあるなら是非、ご教示頂きたい。

 であるがゆえに、(貴方の言われるように)遠い昔、中国人が来琉してその説を伝授したのではなく、あくまでもそれは沖縄だけで言われているに過ぎないと解すべきであり、かつその説が古いものか新しいものかの考察も必要です。

 そうすれば上記の如き矛盾は起きてこないでしょう。なぜなら、俗説として各々勝手なことを言っているということになるからです。それが人間の頭の使い方と言うものです。

 いずれにせよ、上記のトンファーの起源説は、一般的には、俗説と解されているということです。もとより俗説を信ずるか信じないかは個々人の自由ですが、人間の頭の使い方という点から見れば、なぜそれが俗説なのかを自分の頭で考え、自分の頭で判断することが肝要であり、唾棄すべきことは思考を停止して盲信することであると言えるのであります。

 そのゆえに、貴方の『「石うすの取っ手から考えられた武器でないことは確かです」の根拠を示してください。できないなら明確な否定は避けてください』的な物言いは実に幼い思考と言わざるを得ないのです。

 思うに、貴方の物言いは、明治の新政府によってドイツより導入されて以来、歴史学の主流的地位を占めている、いわゆる実証主義歴史学に洗脳された考え方と言えます。

 簡単に言えば、「証拠がなければ歴史ではない」という考え方です。この立場に立てば、例えば、沖縄の空手の歴史は、江戸時代中期・宝暦12年(1762)の「大島筆記」以前は存在しなかったと言う馬鹿げたことになります。

 それも一つの見識ではありましょう。が、しかし、この方法は(歴史の証拠たる遺物に関してはともあれ)有限の生命たる人間の身体を媒介とする空手に適用するのは必ずしも適当ではありません。

 とりわけ、空手技術の真の伝承は、身体性を媒介とするものゆえに、言葉で表すことはできないという点です。例えば、弟子は師の体の動きを注意深く観察しつつ、その感覚を想像し、師は弟子から見て自分がどのように見られているかを意識しつつ、伝え易く動くなど双方向的に伝達されるものなのです。

 そのゆえに、空手・古武道の場合、(実証主義歴史学でいう証拠という意味においては)古来、幾多の先人達によって脈々と今になお伝えられている「型」がまさにそれに該当すると考えるのが至当です。とりわけ、その型に内蔵される武術的な理論・技法の分解や術理などがその中核を成すものと解されます。

 このゆえに、それが古来、伝承されてきた武術的な空手であるか否かを検証する証拠という意味においては、いわゆる○○流だとか、○○先生に教わったなどの、言わば属人的な要素に重きを置くのではなく、むしろ歴史の証拠たる「型」そのものに伝承されている武術的な理論・技法の分解や術理などが普遍的な武術的思想と照合して妥当か否かを判断することにあると言えます。

 その結果として、(何のために造られたかの伝承が失われ、ただ外形だけが遺されているピラミッドのごとく)単に形骸化しただけの「型」もあれば、真価を秘めた値打ちものの術理を伝承している「型」もあるということが明らかになるでしょう。

 ゆえに、そのための判断基準をキチンと磨くことが真に重要な課題となります。その上で、正しいものは正しいとして真摯に稽古してゆくことが、武術的な空手を追究することの真の価値、本質であると考えます。この事情はトンファー術の場合も全く同じです。

 然るに貴方は、そのような物事の本質・根幹・本体という肝心なことには全く触れずに、まさに酔っ払いの戯言(たわごと)のごときどうでも良いような枝葉末節の「石臼取っ手説」に固執されているから噴飯ものだと言うのです。私が貴方のことを「幼い」と表現する所以(ゆえん)であります。

 おまけにトンファーの型もやられたことが無いと言う。知らなければ素直に知ったか振りをしないのが常識なのに、自己の盲信と頭だけの知識を理由に分ったような物言いをされるから笑止千万だというのです。

 蛇足ながら、トンファーの起源たる「石臼取っ手説」は、例えば、我々が良く耳にする『空手は沖縄の百姓が編み出したもの』説と極めて相似ているということです。

 通常、幕末まで空手を稽古していたものは百姓ではなくいわゆる士族階級であること論を俟ちません。そもそも武術の修行などカネとヒマが無ければできないものなのです。

 貴方も試しに、いわゆる派遣切りの方々やネットカフェ難民などをを尋ねて、『空手は素晴らしい武術です。皆さんもやりましょう』と言ってみてください。

 おそらく返ってくる答えは『やっても良いよ。ただし、仕事とカネを呉れ』と言われるのがオチであります。このゆえに、例えば『空手は沖縄の百姓が編み出したもの』説がどのレベルのものかは自ずからお分かりになるでしょう。

 そもそもトンファーは武具であり、石臼は生活用具です。自ずからその用途や機能は異なるものです。その用途・機能の異なるものをなぜ、無理やりに関連付け、結び付けようとするのか、その意図・狙いはどこにあるのか、私には実に理解不能です。

 貴方は、『私が伝えていたのが明らかな誤りなら訂正が必要です云々』と言われております。

 しかし、そうゆう問題ではなくて、そもそも俗説それ自体が、真実なのか否かを(とりわけ先入観という言わば洗脳を一旦、解除し)貴方の頭で考えて頂きたいということを申し上げているのです。その判断の結果がどうであれ、他人の頭ではなく、自分の頭で考えるというその行為そのものに価値があると申し上げているのです。

 然らば、その「トンファーの起源はいかに解すべきか」であります。逆に言えば、なぜ「石臼取っ手説」は俗説なのかということです。その論拠を提示して検証するということです。

 とは言え、ここまでの説明はあくまでもその前半であり、序章であるとご理解ください。なぜならば、まず、そのようにしてことの背景・土台・根幹の部分明らかにしないと物事の本質には迫れないからであります。

 残念ながら、既に文字数も尽きておりますので、これについて第二部として次回に改めてご説明いたします。
posted by 孫子塾塾長 at 14:36| Comment(3) | TrackBack(0) | 時事評論

2008年11月07日

17 国家や組織の盛衰はリーダーの優劣によって決まる

 アメリカの大統領選挙は、「変革」を旗印にした民主党のバラク・オバマ上院議員がアフリカ系初の大統領として当選しました。

 アメリカ国民の大多数がブッシュ政権に明確な決別を告げたのであり、その意味での選挙の最大の敗北者はブッシュ政権と言えます。

 言い換えれば、アメリカ国民の大多数がブッシュ政権の8年間でアメリカは悪い方向に進んでいると考えており、その拒絶反応が政府・政治への強い不信感を生み、さらにアメリカ発の金融危機が追い打ちをかけたということです。

 ともあれ、大統領選挙に勝利したオバマ氏にとって、「リーダーの失敗」たるブッシュ政権の「負の遺産」をいかに変革するかという厳しい課題が持ち越されたと言うことです。逆に言えば、何がCHANGE(変革)なのか、リーダーの真価が試されるということであります。

 眼を転じて我が日本を見るに、悪名高いそのブッシュ政権のまさにミニチュア版たる小泉構造改革路線の「負の遺産」を未だ引きずったままであると言わざるを得ません。

 この「劇場政治」の呪縛を説くものは、まさに今回のアメリカ大統領選挙のごとき政権交代、即ち二大政党の健全な競争の実現であります。

 そのことに関連し、下記の孫子塾サイトに「国家や組織の盛衰はリーダーの優劣によって決まる」と題した一文をアップいたしました。興味と関心のある方は御一読ください。

「孫子に学ぶ脳力開発と情勢判断の方法」・孫子談義
http://sonshi.jp/sonnsijyuku.html




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2008年06月17日

11 東京・秋葉原の無差別殺傷事件を考える

 去る、6月8日、観光客や買い物客で賑わう東京・秋葉原の歩行者天国で死者七人を出した一種の「自爆テロ」とでも言うべき無差別殺傷事件が起きました。犠牲者の方々のご冥福を心よりお祈り致します。

 この事件に関連して管理人の運営する下記のサイトに「孫子ファン」と名乗られる方から次のようなご質問が寄せられました。

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 「悪いことはすべて自分のせいである」と主張する知人のおじさんがいます。秋葉原の事件の被害者も彼らが悪いのである。それは、「業」が原因であるというのです。悪いのは加害者しかいないと思います。

 因縁や、業(カルマ)など、私は仏教について深くも知りませんが、自分にとって好ましくない状況を「業」の原因説ですべて片付けてよいものでしょうか。このおじさんの論理で行くと、放火されたら、そこに住んでいたのが悪いということになります。どうも納得がいきません。

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 このご質問につきまして、下記サイトの「孫子談義」の項で解説しておきましたので興味のある方はご参照ください。

 「孫子に学ぶ脳力開発と情勢判断の方法」

  http://sonshi.jp/

posted by 孫子塾塾長 at 14:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事評論

2008年05月31日

10 ラストサムライさまへの返信(総括その一)

 当ブログへのラストサムライさまのコメント(とりわけ平成20年3月1日以降)につきましては、事情により十分な返信ができませんでした。そのゆえに今回「総括その一」と題しまして次のように纏(まと)めて返信しておきます。

 まず、3月1日のコメントの内容は下記の通りです。

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 何もお返事が無いとこを見ると、無視してるのか呆れて物が言えないと思っているのでしょう。それは貴方が質問したことに私が答えないからだと思います。

 しかし貴方が質問してる内容は各論であって総論ではないです。私は、何故そのような各論に答えないのか? それは余り意味がない内容だからです。何故、意味がないのか。どんな政策にも必ず問題が起きるからです。そうなると議論する為に議論をする無限ループになり本質からズレルことが明白だからです。前首相については其々の評価があるかと思います。

 しかし貴方が書いている内容を吟味すると書かれてることは、前首相や私や社会に対する批判ばかりです。

 孫子は徹底的現実主義者であり兵法家であって理想主義者でもなく思想家でもないです。貴方の反論はまるで理想なる主君を求め諸国を彷徨っている孔子のようであります。

 先ず兵法とは今ある現実に対してどのような戦術や戦略を使って今ある現状を打開するのか、またどのように社会的優位性を保つのか身を守る為にはどのように行動するのかなどの行動哲学を意味します。

 その兵法を勝手な解釈によって思想や理想に使う物ではないということです。どうも貴方の書かれてる事は、「論語」を読んでる感じがします。孫子、孫子と叫ばれてますが、孔子の間違いではないですか?
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 これについての管理人のコメントは次の通りです。

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(1)各論が論じられない、と言うのであれば、総論もまた論ずべきではない

 なるほど、確かに、いみじくも御自身で御指摘されているように(余りにも意味不明の論理に)まさに呆れ果てて物が言えない状態でした。

 そのゆえに私は、『ラストサムライさまは、兵法というものが全く分っておられません。それではお尋ねしますが、(多分答えは返ってこないでしょうが)孫子と孔子の本質的な違いはどこにあるのでしょか。明確にお答え下さい。これに答えられない以上、貴方に兵法を論ずる資格はありせん』と申し上げたのです。

 その答えについては、追々、説明することに致しますが、それにしても驚いたのは、『総論は述べるが各論は述べないし、答えない。なぜならば、それは余り意味がないからである』の下りです。

 これでは、まさにラストサムライは「人間はどこまで最低になれるか」の典型的な人物と評せざるを得ません。言い換えれば、人間としての頭の使い方を間違えているということであります。

 例えば、過去のコメントを見るとラストサムライさまは十分に各論を語っておられます。とりわけ、平成19年12月30日のコメントには『国民として見るのではなく自身が政治家だとしてどのように国を改革し纏めるのが必要なのかを考えると小泉前首相は近年稀に見る政治家だと思います』とまであります。

 通常、これを読めば、ラストサムライさまが具体的な各論を踏まえつつ、その総論として『小泉前首相は近年稀に見る政治家だ』と述べておられることは明白です。

 逆に言えば、その総論が適切か否かを説明するために具体的な各論が存在するのであります。然(しか)らずんば、総論を論ずる意味はありません。そのようなものは、まさに彼の毛沢東の曰う「調査なければ発言権なし』のごときものであり、印象や願望だけで口から出まかせに物を言うのは世間の人を混乱させるだけであるから止めなさい、ということになります。

 残念ながらラストサムライさまは、(禽獣ならぬ)言葉を発する人間として心得るべき最低限の矜持(ブライド)を喪失しておられます。もし、人間が言いたい放題、口から出まかせに言辞を弄すれば一体、この社会はどうなるのでしょか。

 インターネットの2チャンネルなどでは、まさに悪口雑言の言いたい放題、言い換えれば「人間はどこまで最低になれるのか」の壮大な実験が行われております。もしこれが現実世界のことであれば人間の日常社会は確実に破壊されます。想像するまでもありません。

 なぜ、悪口雑言の言い合いになるかと言えば理屈は簡単です。物事には必ず両面があるため、各々がその拠って立つ立場も弁(わきま)えずに自己の信ずるところを主張し合えば自ずから感情が激し、その内容がエスカレートしていくのは理の当然です。

 ラストサムライさまの言われている「私は、何故そのような各論に答えないのか? それは余り意味がない内容だからです。何故、意味がないのか。どんな政策にも必ず問題が起きるからです。そうなると議論する為に議論をする無限ループになり本質からズレルことが明白だからです」はまさにその意味であると解します。

 そもそも、通常の人間はそのような2チャンネルなどに書き込みはしないし不毛の論争もしません。言われるように、まさに意味が無いからです。

 しかし、当ブログはそのようなバーチャルにして非常識な2チャンネルではありません。ましてやことは(スポーツ・娯楽・レジャー・歌舞音曲の類ではなく)我々の生活に直結する政治を論じているのです。もとより立場や見解は相違するでしょう、いや相違するからこそ真摯に総論・各論を語るべきものと私は思います。

 その際のキーワードは、まず各々の拠って立つ立場を明確にすること、そして何よりも我々国民の現実生活はどのように変化したのかの具体的事実を踏まえて検証するということであります。

 そのゆえに、もしラストサムライがそのようなバーチャル世界の御経験をもとに、「総論は語るが各論は語らない」と考えておられるのならば、まさにそれは「蛇に咬まれて(道端に落ちている)朽ちた縄に怯える」がごとき誤った考え方であると言わざるを得ないのであります。

 もっとも最近はこのようなバーチャル世界と現実との区別がつけられない人が増大傾向にあるようであり、まさにバーチャルなゲームの世界さながらの異常な事件を起こしてマスコミネタになる場合が見受けられます。現実世界とバーチャルな世界は明確に区別することが肝要と老婆心ながらラストサムライさまに申し上げます。


 ついでに言えば、禅の言葉に「脚下を照顧せよ」があります。まず「足元に用心せよ」の意です。当たり前のことは余りに当たり前過ぎるがゆえに、人間の脳はついそれを意識から忘却し勝ちであります。これは人間の脳の盲点の一つです。残念ながら、ラストサムライさまはこの基本的な御認識が欠けておられるように思います。


 一般的に、人の一定の思想というものを分類すれば、まずタイトルがあり、そのタイトルを構成する大項目、さらに中項目、小項目に分けられ、各々に「見出し」が付されます。そして小項目にはその内容を具体的かつ詳細に説明するためのいわゆる本文が付されます。逆に言えば、本文を含めたこの体系の全体がその人の一つの思想内容なのです。

 孫子で言えば、「孫子兵法」というタイトルがあり、そのタイトルは十三の篇(大項目に相当)で構成され、各々見出しが付されます。例えば、第十三篇の場合は「用間」の見出しが付され、さらに中項目、そして小項目に分類され、小項目にはその内容を具体的に説明するための本文が付されます。

 このゆえに、総論だけ論じて各論を語らないのは、言わばタイトルと目次だけで本文の欠落した本を販売しているようなものであります。通常ではこのような本を買う人はおりません。

 ラストサムライさまの言われている「総論は語るが各論は語らない」ということは、まさに「名札はあるが中味が全く無い」ことと同義であります。通常の考え方で言えば、本文があるから目次があり、目次があるから本文があるのです。つまり、本文と目次は一対(セット)なのであり、分けて考えるべきものではないのです。

 然(しか)らずんばそれは、包装されてはいるが中味の無い贈答品、もしくは資料が何もないのに索引・名札のみが貼り付けられている整理棚のごときものとの謗(そし)りを免れません。

 その意味では、「総論は語るが各論は語らない」の論理はまさに事の道理に反した偏頗(へんぱ)にして摩訶不思議な発想と言わざるを得ません。これで物を考えた積りになるのは頭の使い方に関する大いなる錯覚であると思います。例えば、いくら優秀な車に乗っていても、肝心の運転(頭の使い方)が下手くそであれば折角の車も十分には乗りこなせないというものです。


(2)改悪という名の「改革」に終始した小泉劇場は国民に何をもたらしたのか

 今の日本社会を按ずるに、まさに、未来に希望が持てない、逃げ場の無い閉塞感が漂っていると言わざる得ません。とりわけ、小泉内閣は、「痛みなければ改革なし」などの虚言を弄(ろう)し、毎年、2200億円づつ社会保障費を減らすという政策を実施しましたが、まさにこれは悪名高き後期高齢者医療制度に代表されるがごとく、今や、日本社会の医療や介護、福祉のシステムを破綻寸前にまで追い込んでおります。

 しかし、その一方で米軍在沖縄海兵隊のためなら2000億円以上のグアム移転費、いわゆる「思いやり予算」は惜しげもなく支給するという。通常、「思いやり」とは弱者に対するもののはずですがこれではまさに本末転倒です。ゆえに「強きを助け、弱きを挫く」のが小泉内閣の本性であったと言わざるを得ません。

 要するに、小泉内閣の構造改革の特徴は、問題解決の真の核心ではあるが、そのゆえに非常に強力な抵抗が予想されるところは避けて通り、抵抗する力が弱く組し易いところを予算削減の対象とし、情け容赦なくむしりとる非情さにあります(なぜそうなるのかの理由については後述します)。

 かつ、その改革の内容たるや、キチンとした将来的ビジョンを踏まえてのものではなく、始めに削減数値目標ありきの小手先だけ、その場しのぎのお粗末なものであったことは、今日、広く知れ渡っているところであります。これが郵政解散・郵政選挙の名の下に行われた小泉構造改革の実態であり、まさに選挙民を愚弄するものと言わざるを得ません。


 人間の脳は、(上記したごとく)余りに当たり前のことについては「効率」という側面から余り意識を用いません。その意味で、通常「改革」と言えば、あくまでも「良い方向」に改め変えることであると信じて疑いません。つまり、「悪い方向」に改め変える意には解しないのが通常であります。

 もし仮に、故事に曰う「朝三暮四」のごとき理屈(詐術を用いて人を愚弄する意)を用いて「改悪」を「改革」と言いくるめたとしたらこれは由々しき問題と言わざるを得ません。残念ながら小泉構造改革の場合は、悪意か偶然かはともかくとしても後者の意の「改革」であったことは否めません。

 例えば、「小泉改革」の目玉たる労働市場の規制緩和策がもたらしたものはまさに「働くルールの破壊」と言わざるを得ません。

 急速に膨らんだ悲惨な日雇い派遣労働者、二百万とも三百万人ともいわれるワーキング・プア、弱者・地方切捨てに起因する社会的格差の拡大、低賃金で働かされ続けるパート労働者、正社員にしても益々少数精鋭化されて長時間労働を強いられ、いわゆる過労死の危険性に日々さらされているというのが実態です。


 つまり、小泉・竹中ラインは(社会の上層部たる)大企業や経営者・株主を優遇する政策を取れば世界的競争に打ち勝って必ずや好況が招来される、さすればその好況の恩恵は必ずや社会の下層部にも行き渡りこれを潤すはずであると想定したのであります。

 その意味では確かに景気は好転いたしましが、大企業はその好況で得た利益を組織的に守り、ついぞ社会の下層部にはその恩恵は行き渡りませんでした。給与所得者の五人に一人が生活保護基準の目安である年収200万円以下であるという問題は、まさにそのことを如実に示すものであります。つまり、小泉・竹中ラインの想定は見事に外れてしまったということです。

 パフォーマンスのみに終始した小泉構造改革という「バカ騒ぎ」の後に残されたものが、未来に希望が持てない、逃げ場の無い閉塞感漂う今日の社会的風潮と言わざるを得ません。今日、「諸悪の根源は小泉にあり」「小泉・竹中は火あぶりの刑だ」の論調が充満する所以(ゆえん)であります。

 このような世相を反映してか、最近の各紙の読者投書欄には、「朝刊に小泉元首相のインタビュー記事が載っていたが、はっきり言ってもう小泉さんの顔は見たくない」「小泉劇場再びなどとんでもない」「とにかく詭弁に満ちた小泉劇場はもうたくさんだ」「郵政民営化に賛成して入れた一票が、なぜそれとは無関係の衆院再議決に使われるのか納得できない」「国民を不安定な状況に追い込んだだけの郵政選挙とは一体、何なのかを冷静に検証する必要がある」などの声が散見されます。


(3)いわゆる小泉劇場を論評する立場について

 物事には必ず両面があるゆえに、いわゆる小泉劇場に関しても賛否両論があるのは当然です。しかし、問題は小泉元首相が「自民党をぶっ壊す」「構造改革を断行し日本を変える」と虚言を吐き、これ見よがしの派手なパフォーマンスを繰り返して、マスコミを巻き込み大衆を煽(あお)り「小泉劇場」を演出したことであります。

 これを例えば、安部前首相や福田総理がいくら声高に「自民党をぶっ壊す」と叫んで見ても誰も本気にしないでしょう。彼らはどこから見ても体制派の人間にしか映らないのであり、その意味での彼らの言動はまさに人畜無害なのであります。

 しかし、あたかも革命家気取りで大言壮語し「いかにも何かやってくれそうだ」と大衆に大きな夢と希望を抱かせただけで、結局は、「影」の部分だけを大きく残して竜頭蛇尾と化した小泉劇場の場合は、人畜無害どころか明らかに日本国民に有害な存在と言わざるを得ないのであります。

 つまり、いやしくも一国の首相たる者が、詐欺的な虚言とパフォーマンスをもって、禁じ手のいわゆる衆愚政治を展開したこと、かつ真の意味での「聖域なき構造改革」には全く手を付けずに、その裏返しとしての「やった振りをする」「見せかけ」だけの構造改革ならぬ構造「改悪」の結果として、今日、様々な社会的な格差が噴出し、益々増大しつつあるということであります。

 半世紀以上続いた自民党の一党独裁が良いのか、はたまた「官僚内閣制」とも謂われる官僚・族議員主導の政治が良いのか、と問われれば、(一般的には)民主主義の根幹たる二大政党制が良いし、それによって選出された政治家による政治家主導の政治が良いに決まっています。

 然(しか)りとして、その場合、最も肝要なことは、そのような言わば「革命」に匹敵するがごとき政治運動が果たして体制内にいる人間に実現可能なことなのか、という問題の根本的かつ本質的な検討であります。

 近いところでは、日本の明治維新、敗戦後の民主主義国家への移行、あるいは毛沢東による中国革命の歴史を繙(ひもと)くまでもなく、通常の知性ではそれは不可能だと断ぜざるを得ないのであります。

 早い話が、徳川将軍の膝下にいる幕臣が将軍の命を受け、幕政改革にいくら献身的に取り組んでも、つまるところ「将軍様、民・百姓のために思い切って幕藩体制を解体しましょう。それが最も根本的な改革です」などと言えるはずが無いということです(ことは北朝鮮の場合も全く同じです)。

 そのゆえに明治維新までの幕政改革は、当然のことながら幕藩体制維持の至上命題のもと、結局は小手先のお茶を濁すものに終始したのであります。小泉構造改革もまた然(しか)りであり例外たり得ません(自民党という一党独裁の体制内にいながらそれをぶっ壊すことなど冗談でもでき得ようはずがないのです)。

 通常の知性があれば、このようなことは誰しも分ることであり、まさに言わずもがなのことであります。しかし、問題は、この平成の御世においてはまさにこの当たり前の論理を見事に忘却してしまった選挙民が多かったということです。およそバカげた小泉劇場がいかにも救世主ごとく熱狂的に歓迎されたのがその証左です。


 このタイプには次のような立場があります。第一は、端(はな)から体制擁護で自民党による一党独裁政治を望んでいる立場、第二は民主主義の根幹たる二大政党移行が望ましいとするが、それを実現する者こそが小泉元首相その人信じて疑わない立場、第三は、自民党の一党独裁でも、二大政党でもどちらでも良いが、とにかく、小泉元首相は格好よくて「理想の人」だと恋焦がれる立場であります。

 ラストサムライさまが上記いずれの立場であるかは定かではありませんが、私が切に申し上げたいことは、確信犯たる第一の立場は「善し」としても、第二と第三の立場は実に好ましくないということであります。なぜならば、それはまさに小中学生が松井やイチローや松坂に憧れる姿と何ら変わらないからであります。

 ラストサムライさまは『(管理人の)書かれてることは、前首相や私や社会に対する批判ばかりです』とコメントされておりますが、その真意はまさに既述した立場の違いを論じているからに他なりません。もしこれが趣味の問題であるならば、当然のことながら立場の違いを論ずるのは愚の骨頂というものです。なぜならばそれは、好き嫌いの世界だからであります。

 しかし、こと政治は、スポーツや娯楽・レジャーの類とは本質的に異なります。日常の国民生活に直結するものであり、まさに孫子の曰う『兵は国の大事なり。死生の地、存亡の道』<第一篇 計>と同次元のものなのです。ゆえに孫子は『察せざる可からざるなり。』と曰うのであります。

 今日、日本社会に噴出している様々な、いわゆる社会的格差の原因は、基本的には小泉・竹中ラインの構造改革に起因するものであることは衆目の一致するところであります。

 私に言わせると、彼の新撰組の暗躍が「明治維新を三年遅らせた」と謂われているがごとく、実に茶番な小泉劇場の「バカ騒ぎ」は、日本が自民党の一党独裁と決別し、健全な二大政党時代に移行するタイミングを三年遅らせたと考えております。

 どの角度からみても彼の小泉劇場が言わば「将軍様」の君臨する自民党一党独裁体制の側に立つものであることは論を俟ちません。

 そのゆえに我々選挙民は、誰がその諸悪の根源たる独裁体制を擁護し、誰がそれに反対しているのか、言い換えれば、誰が国民に害悪を流す者であり、誰が国民の利益を願う者であるかを、好き嫌いや外見、先入観の壁を越えて明晰に判断すべきであります。

 それが民主主義国家の主権者たる我々の取るべき態度であり、真のリーダーたる者のその態度こそが、孫子の曰う『進みては名を求めず、退きては罪を避けず』<第一篇 地形>の真意に合致するのです。

 今回はこの辺にしておきます。次回は、「孫子」と「孔子」の思想は、どこが同じでどこが異なるのかについて解説いたします。

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2008年02月22日

9 生野さまのコメントにお答えして

 当ブログの記事について、2月13日、生野様から下記のコメントを頂きました。有難うございます。文字数の関係から、返信はこちらの記事としてアップさせて頂きました。

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 今回捕鯨についてのコメントがありましたので、私もコメントさせていただこうと思います。 私の周りには西洋の方がたくさんいて、それはそれはいろいろな方がいます。 日本の常識が通用する方もいれば、通用しない方もいます。 友人になれる人もいれば、なれない人もいます。ただ、今回、捕鯨に対するオーストラリアのあまりに偽善的な態度には、全くあきれています。

 先生のおっしゃる通り、オーストラリアの方々は自分たちが常日頃殺された動物たちを口にしていることは、どう思っているのか、ぜひ彼らにきいてみたいところです。 クジラは頭がいいから殺してはならない、という人もいますが、なら、頭が悪い生き物はころしてもいいのか、というとても恐ろしい思想につながると思います。

 私が一番頭に来るのは、「偽善」です。 肉を食べる人は、動物(牛など)を殺す、という行為は他人にやらせて(他人の手を汚し)、いかにも自分たちは無実、というように、高みにたって日本人をバッシングしているようにみえるのです。

 捕鯨する日本人も、研究目的と言っていますが、「何のための研究で捕鯨をするのか」ということをしっかり説明していただきたいと思います。
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 全く御説の通りだと思います。一般的に言えば、他人のせいにするのが西欧人の思想であり、内に原因を求めるのが東洋人の思想です。

 これは基本的には、その淵源がいわゆる牧畜・小麦文化圏にあるか、はたまた稲作文化圏にあるかの相違とも考えられます。その意味で中国は北方が牧畜・小麦文化圏、南方が稲作文化圏ではありますが、東シナ海のガス田問題や中国製毒餃子事件などへの対応を見るまでもなく、その主流は欧米人的な発想にあると言えます。

 欧米人は、良く言えば、目立ちたがり屋で、自己主張が強く、「分らない」ことでも知らないとは言わない、「よく知らない」ことであっても自信をもって答える、「間違った結論」であっても断固として主張するのが彼らの論理であり、やり方なのです。


 確かに、日本人と比べて理性的・論理的に物を思考するという点においては長所ではありますが、「誰が考えても理屈にもならないような理屈」を絶対に正しいと自己主張するのは明らかに短所と言わざるを得ません。

 このような偏頗(へんぱ)な思考パターン、言わば独断と偏見ごときものは社会的な軋轢(あつれき)や紛争を惹起することはあっても合理的な問題解決の方法としては明らかに不適当であり、むしろ有害であります。

 これはまさに毛沢東の曰う「ただの理性認識にだけに止まるもの」と言わざるを得ません。

 言い換えれば、(その思考によって得られた一定時点における一定の結論は)絶えざるスパイラルな実践の検証を通じてその理論の不完全性を正し、これを発展させる過程が絶対に必要だということです。

 稲作文化圏の人たる毛沢東が欧米の思想を摂取して中国的弁証法の立場からこのように論じていることは実に意義のあることであります。

 つまり、欧米人の自己主張の凄まじさは、「恥の文化」や「謙譲の美徳」をもってする非論理的な日本人としては信じられない言動でありますが、これが欧米人の通常の姿と理解しつつ、徒(いたずら)に辟易(へきえき)して恐れ入ることなく、彼らの論理の弱点をキチンと弁(わきま)え、一段も二段も高い次元から事を論ずるべきものと考えます。


 そのゆえに、(日本の調査捕鯨に対するオーストリアの言動に関しては)例えば、次のように言うことができます。

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 人間は環境の動物である。住むところの気候・風土・地形山河・言語・風俗が変われば人間の文化も自ずから異なるのは当然である。鯨の「食文化」に関して言えば、歌謡曲「南国土佐を後にして」の歌詞に、

『国の父さん室戸の沖で鯨釣ったと言う便り、

わたしも負けずに励んだ後で歌うよ土佐のよさこい節を、

言うたちいかんちやおらんくの池に潮吹く魚が泳ぎよる、

よさこいよさこい』

とあるがごとく、捕鯨は古来の日本の文化である。


 狭い地球で異民族同士が仲良く生活するためには、意味もなく他民族の宗教や食の習慣などの文化に関し異議を挟まないことである。イラク戦争などはまさに現代版十字軍の盟主を気取ったアメリカがその奉ずるところの欧米人的思考の欠陥ゆえに引き起こした暴挙である、と。

 その意味で、その自己主張はさておき、国家とし、民族として、はたまた人間として、まず他民族の食文化を認めるのか、認めないのか、はたまた食糧問題という意味での海洋資源の持続的な利用に関し、何ゆえに鯨のみを特別視するのか、鯨資源の適正管理を前提とする持続的捕鯨のどこが非合理的なのか、などの基本的な見解、立場を日本政府としてキチンと問うべきであります。

 まさにそれこそ日本が自己主張すべき本質的事柄であると考えます。その上で、いかに交渉し、いかに利害の調整を図るか、という問題であります。
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 いずれにせよ、調査捕鯨反対のオーストリアなどに対しは、独断と偏見のごとき「ただの理性認識にだけに止まるもの」とは似て非なるキチンとした論理をもって、正しい自己主張をすることが日本には最も望まれることであります。

 とは言え、皮肉なことに、調査捕鯨を拡大し鯨肉の供給量が増えたのは良いが、今、日本国内での流通が広がらず、その鯨肉をどう処理するかが悩みのタネであるという。まさに宜(むべ)なるかなと首肯せざるを得ません。

 やはり、日本人は一事が万事で、論理性に乏しいのみならず、計画性もまた、行き当たりばったりの出たとこ勝負に終始するのか、と慨嘆せざるを得ません。日本人は孫子をキチンと学ぶべきであると主張する所以(ゆえん)です。
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2008年02月04日

8 ラストサムライさまへの返信(その二)

 当ブログの「7 ラストサムライさまへの返信」の記事について、1月31日、ラストサムライさまから四回目のコメントを頂きました。内容は下記の通りです。

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 私は、好き嫌いで物事を言ってるわけではなく大局を見据えて政治を行うことができるかそうでないかで語っているんです。

 「敵を知り己を知れば百戦危うからず」 アメリカ特に西洋人はどんな民族なのかご存知ですか? 日本の常識は通用しません。オーストラリアの捕鯨船に対しての行為はご存知ですか? これは一例ですけど独裁的パワーポリティックスなんですよ。

 日本人は責任と権限を曖昧にし問題が起きても責任逃れできるようなシステムを作り上げます。そういう悪しき積み上げによって疲弊した政治を改革しようとした彼は評価するべきであると言ってるだけです。

 宗教が違っても国家の為に戦った人達を弔うことは何か問題でもあるのですか?

 孫子は戦争は絶対にしてはならないが、戦争するなら絶対に勝たなければならないと言ってますが、日本はアメリカと戦争をして負けた。それが今日まで国際的不利を強いられ依存型経済大国に成り下がった訳です。

 自国を自立した強い国家として築く為には、アメリカと協力しながら国内の過保護政策からの脱却また国内需要の拡大を計らなくてはならない。規制緩和をどんどんやり、お金の流れと雇用の流出によって適材適所が生まれ長い年月を経てて自立した国造りを行うことを目的としていたのではないでしょうか?
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 これについての管理人のコメントは次の通りです。

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 ことの初めからそうでしたが、どうもラストサムライさまの御意見は支離滅裂としか言いようがありません。

 もとより、御自身の職業における専門的能力という意味では非の打ちどころのない立派な見識と御意見をお持ちなのでしょう。が、しかし、(例えば当ブログでのやり取りのごとく)ことが専門的範疇を離れると御自身でも何を言っているのかさっぱり分っておられないものと拝察いたしました。

 その意味での確固たる理念や思想もなく、ことの本質を掘り下げる根気や脳力もないのに、いかにも分ったような物言いをされているから滑稽なのです。が、しかし、多分それは御自身でもお気付きなのでしょう。

 そのゆえに、それを誤魔化そうとして、(私に見るところ、実に一知半解のままに)権威たる孫子や王陽明の言を呪文のように振りかざし、「どうだ、恐れ入ったか」のごとき態度が実に幼児的なのです。呪文は単なる言葉の羅列に過ぎず、意味も力もないことを知るべきであります。

 もとより、個人としてのラストサムライさまがどのような御意見であろうとそれは貴方の自由です。が、しかし、確固たる理念や思想もなく、ことの本質を掘り下げる根気や脳力もない思考態度が、社会全般の風潮として主流となり大勢となればこの日本はどうなるのかということが問題なのです。

 その典型例が、いわゆる衆愚政治たる小泉劇場であると言うのであります。その一翼を担っているのがまさにラストサムライさまに代表されるがごときの御意見であると私は観じております。敢て、貴方の御意見を当ブログで論ずる所以(ゆえん)です。


1、小泉元首相はなぜ(小泉チルドレンを帥いて)道路特定財源の一般財源化に動かないのか。

 私はすでにラストサムライさまに対し、衆愚政治たる小泉劇場の下で行われた構造改革・規制緩和とは何であったのか、その結果、何がもたらされたのかなどについて複数の疑問・質問を投げかけ、何回も当ブログに提示して、その回答を求めてきました。

 而(しか)るに、未だもって明確な御回答をラストサムライさまから頂いておりません。書けないのか、はたまた書けない理由があるのでしょうか。たまにまともなことが書いてあるかと思えば「風呂の中で屁をひるような」意味不明瞭な内容ばかりであります。私が、ラストサムライさまは好き嫌いのレベルで小泉元首相を選んでいると論じている所以(ゆえん)であります。

 それならそうと初めから素直に言えば良いのです。「あ、そう。その程度の考え方なのね」で終わりなのです。而るにそのことを「偽装」して、いかにも物の分ったような物言いをされるので当方としては嫌味の一つも言いたくなるのです。


 そこで念のため、再三再四の質問をさせて頂きます。

 小泉元首相は、「地方にできることは地方に」という謳い文句の下、いわゆる三位一体の改革と称して国から地方への税源移譲による地方の分権化を構造改革の目玉の一つとしてきました。

 小泉元首相の真にインチキなところは、それを実現するための根本的問題たるいわゆる官僚支配の利権構造には全くメスを入れずに(意図的に避け放棄したまま)、ただ、大衆受けするスローガンを掲げ、もっともらしいパフォーマンス展開したことにあります。

 つまり彼の構造改革なるものはまさに「仏造って魂入れず」であり、その結末がどうであったかは論ずるも愚かなことであります。できなければ言わなければいいものを、いかにもできそうに「偽装」するから問題があるというのです。
 しかも、ただひたすら、己一個の保身や名誉、栄達のためとあっては何をか況(いわ)んやであります。その意味ではまさに国賊的政治家と言わざるを得ません。


 その証左として、彼はなぜ、八十有余名のいわゆる小泉チルドレンを帥いて、今、国会を賑わしている道路特定財源の一般財源化に立ち上がらないのでしょうか。地方分権の推進という意味においては、誰が見ても一般財源化の方に道理があります。

 そのゆえに、ガソリンの値下げに賛成するかしないかはともかくとしても、(地方への税源移譲という彼の信念から言えば)最低、道路特定財源の一般財源化に決起するのが道理であり、かつ、今がその好機ではありませんか。

 しかし、この点に関しては未だもってウンでもスンでもありません。これは何を物語っているとお考えですか。

 この点について是非、ラストサムライさまの御意見を御聞かせ下さい。

 まず、足元のこんな自明のことすら実行できないようでは、とてもラストサムライさまの言われる『自国を自立した強い国家として築く為には、アメリカと協力しながら国内の過保護政策からの脱却また国内需要の拡大を計らなくてはならない。規制緩和をどんどんやり、お金の流れと雇用の流出によって適材適所が生まれ長い年月を経てて自立した国造りを行うことを目的としていた』ごとき偉大な政治家とは評価できないということです。つまり、そんなことはラストサムライさまの頭のなかだけにある幻想であります。

 その意味で、彼の田中康夫参院議員の言う「なんちゃって小泉竹中、へなちょこ改革」の指摘はまさに言い得て妙、であります。


2、ラストサムライさまは「大局を見据える」という意味が分かっておられません。

 大局を判断する前に、まず日本の立場を考えることが重要です。四方を海に囲まれ天然資源の乏しい日本は、四方八方の国々から資源を輸入し、加工し、輸出してその剰余価値で国民が食べてゆくのが基本です。言い換えれば、世界のいずれの国々とも仲良くして、戦争をしてはいけないのが日本の立場なのです。

 而るに、ラストサムライさまは「アメリカにべったりで、アメリカとのみ友好関係を維持しておけば万事こと足れり」とする小泉元首相が大局を見据えた偉大な政治家であると言う。しかし、上記のごとき日本の立場、それに基づいての大局を考えるという立場からすれば、これは明らかに大局の意味を取り違えております。

 但し、旧小泉政権が、ただ、自己政権の延命を図るための判断という意味での大局ということでは正解です。
 しかし、真の意味での日本の国益には明らかに反するということです。

 もとよりいわゆるパートナーシップは大事です。しかし、真の意味でのパートナーシップとは、ことの理非曲直を明らかにし、その是々非々を明確に相手に伝えるということです。それがなければ、アメリカという旦那にただ盲従するだけの「お妾さん」に過ぎません。何をもってこれが「大局を見据える」と言えるのか、まさに笑止千万と断ぜざるを得ません。


3、ラストサムライさまは「彼を知り己を知れば」の御理解が一知半解です。

 ラストサムライさまは、『アメリカ特に西洋人はどんな民族なのかご存知ですか? 日本の常識は通用しません。オーストラリアの捕鯨船に対しての行為はご存知ですか? これは一例ですけど独裁的パワーポリティックスなんですよ』と言われておりますが、私は既に「7 ラストサムライさまへの返信」のコメントにおいて捕鯨船云々、即ち「その主張が間違いであっても絶対に正しいと自己主張するのが彼らの特長である」と具体的に論じております。

 考えてみても下さい。捕鯨が動物愛護の精神に反するというのなら、彼らが毎日、屠殺・狩猟して食糧としている諸々の家畜や動物は可哀想ではないのか、と言うことです。要するに、誰が考えても理屈にもならない理屈を絶対に正しいと自己主張するのが彼らの論理であり、やり方なのです。その意味ではまさに小泉元首相も同類と言えます。

 問題なのは、私が既にそのことを指摘しているのにそれを読んでおられない、もしくは認識されていないということです。孫子の曰う『彼を知り己を知れば』<第三篇 謀攻>は、単に言葉を弄(もてあそ)ぶことではなく実践躬行が本旨なのです。

 捕鯨調査船へのオーストラリアの関与云々を言われる前に、まず足下である私の発言について「彼を知らず」であり、そのゆえに「己を知らざる」者と言わざるを得ません。


 さらに言えば、ラストサムライさまは『オーストラリアの捕鯨船に対しての行為はご存知ですか? これは一例ですけど独裁的パワーポリティックスなんですよ』と言われております。言い換えれば、このような独裁的パワーポリティックスに対してまともに対抗できるのは偉大な政治家たる小泉元首相ただ一人であるとでも言いた気であります。

 しかし、ラストサムライさまの見方は全く一面的・部分的な見方です。そもそもパワーポリティックスなるものは、オーストラリアの場合に限らず、全世界どこでも見られる普遍的な事象です。早い話が、無実の人間を簡単に罪に陥れる国家権力の恐ろしさを如実に天下に示した鹿児島の志布志事件や富山の冤罪事件はまさに、パワーポリティックス以外の何者でもありません。つまりは独断と偏見による実力行使ということです。

 その意味で、そもそも戦いという事象は全てパワーポリティックスなのです。それなのになぜことさら『これは一例ですけど独裁的パワーポリティックスなんですよ』などと強調される必要があるのかわけが分りません。

 孫子はそのことを『勢とは利によりて権を制するなり』<第一篇 計>、あるいは『権を懸けて動く』<第七篇 軍争>と論じております。吾人が孫子を学ぶ所以(ゆえん)です。
 ラストサムライさまは孫子に造詣が深い御様子ですが、一体、孫子の何を学ばれているのでしょうか。極めて疑わしい限りであります。

 そのような見識しかないラストサムライさまが、独裁的パワーポリティックスたる欧米とまともに渡り合えるのは偉大な政治家たる小泉元首相しかいない、と判断されても余りにも説得力がありません。

 彼の武田信玄の曰うがごとく、単に「がさつな人間」を武勇の人と見間違えているのではありませんか。パフォーマンスだけの偽装政治家たる彼にできるのはせいぜい、スピッツの遠吠えくらいではないでしょうか。


 また、ラストサムライさまは、『日本人は責任と権限を曖昧にし問題が起きても責任逃れできるようなシステムを作り上げます。そういう悪しき積み上げによって疲弊した政治を改革しようとした彼は評価するべきであると言ってるだけです』と小泉元首相を評価されておりますが、まさにその諸悪の根源たる官僚政治の改革を意図的に放棄しての政治改革に、一体、何ほどの価値があるというのでしょうか。

 彼はただ、改革をやっている振りをして、美味しいとこだけを散々喰い散らかし、挙句の果てに(いざ代金を支払う段になると)責任も取らずに食い逃げしたというのが実態ではないでしょうか。まさに「一将、功成りて万骨枯る」であります。しかし、これは国民の生命・財産を守るのが政治という観点からいえば絶対に許されない行為なのです。このような政治家のどこが偉大なのか私は理解に苦しみます。


4、諸方の利害を円満に調整し、落としどころに落とすのが政治である。

 ラストサムライさまは『宗教が違っても国家の為に戦った人達を弔うことは何か問題でもあるのですか?』と言われておりますが、もとよりそれは個人の自由であります。

 問題なのは、いやしくも一国の首相たる者は、諸方の利害を調整し、キチンと落としどころに落とすのがその役割であると申し上げているのです。それが政治家たる者の責任であり任務であると申し上げているのです。

 然るに、小泉元首相は全くその任務を果たさず、逆に、中国や韓国などとの国際的外交関係を悪化させ、国内的には為にする(ある目的を達しようとする下心があっての意)不毛の物議を惹起させ、それを自己の保身のために利用したのであります。

 そんなに戦没者の供養がしたければ、諸方の利害を調節するという意味で最もベターないわゆる「無名戦士の碑」建立に動くか、はたまた、(一国の首相としてではなく)戦没者を悼む一個人として参拝すれば良いのです。然るに、彼はそのいずれの方法も取らなかった、まさに国賊的な売名行為と言わざるを得ないのであります。


 ともあれ、『進みては名を求めず、退きては罪を避けず、ただ民を是れ保ちて、而も利の主に合うは、国の宝なり。』<第十篇 地形>が孫子の曰うリーダーの条件であることを我々選挙民は銘記すべきなのです。

 この資質と心構え・覚悟の無い人は、なまじリーダーなどになるな、世間の人が迷惑するということなのです。
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2008年01月29日

7 ラストサムライさまへの返信

 当ブログの「6 ラストサムライさまにお答えして」の記事について、1月15日、ラストサムライさまから三回目のコメントを頂きました。内容は下記の通りです。

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 理路整然とした内容ですけど心に響かない内容ですね。知識だけの理屈を捏ねても国民は動きません。
 内政に関して事細かな批判はあるでしょうけれど国民の代表としては世界を見据えて行動する首相が望ましいと思います。貴方が望む理想の聖人君子は理想であって現実的ではないです。

 世界で一番強い国はアメリカです。彼らの価値観は日本人には理解し難いエゴの塊です。それを突付けば武力行使を辞さない。そういう民族なんです。ではそういう民族とやっていくにはどのような方法が日本にとって得策でしょうか?

 一国の首相が靖国神社で参拝することは戦争で亡くなった多くの兵士や遺族にとっては嬉しいことでもありますよ。遺族の者として私は嬉しかったですね。例えそれがパフォーマンスであってもです。
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これについての管理人のコメントは次の通りです。

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 ラストサムライさま、度々の御意見を賜り誠に有難うございます。実に立派な御見解ですのでもとより申し上げることもありませんが、色々な意味で示唆に富む内容でありますので、敢て俎上に載せさせて頂きます。


(1)国の政治に直結する投票行動を「好き嫌い」で決めてはいけません。

 ラストサムライさまは、何か大きく勘違いされていませんか。スポーツや芸能、娯楽やレジャーの類はもとより「好き嫌い」の感情で判断されても一向に差し支えありません。

 例えば、レッドソックスが勝ったとか敗けたとか、朝青龍がモンゴルから帰るとか帰らないとか、藤原紀香が結婚したとかしないとか、ハンカチ王子がどうしたとか、そんなことはまさに個々人の趣味嗜好、好き嫌いの問題なのです。

 しかし、こと政治に関しては「好き嫌い」の感情で判断することは心して戒めなければなりません。なぜならば、政治は、孫子の曰うがごとく『(国民の)死生の地、(国家の)存亡の道』<第一篇 計>だからであります。

 政治や行政が何をしたのか、その結果がどうであったのかを主権者たる国民は平素から冷静な目で厳しく見つめなければならないのです。それを芸能人やタレント、スポーツ選手などを見る目と同次元の感覚で捉えてはいけない、ということです。例え、世間が、大勢がそうで合ったとしてもそれは明らかに間違いなのです。

 衆愚政治たる小泉劇場の下で行われた構造改革と規制緩和が何をもたらしたのか、はたまた、その背後にある彼の空疎にしてツギハギだらけ、見せ掛けだけの思想がどれほどの弊害をもたらしたのか、その結果たるや論ずるまでもありません。

 もとより国政に構造改革や規制緩和は必要です。しかし、世の中の事物は複雑怪奇ですから、して良いものと、して悪いもの、あるいはその取扱を慎重にしなければならないもの、など様々な性質があります。

 それを十羽ひとからげにして、単に、自己の人気取りのために、セーフティーネットや安全のためのガイドラインも考えず、(一般に謂われている意味での)拙速をもって乱暴に形だけの政治を行えばどうなるのかということです。

 政治は国民の生命と安全を守るものであり、それをただ政治家一身の名誉と栄達のために利用すべきでない、ということです。

 今日、大きな問題となっている地方や農村の疲弊、バスやタクシー、トラックなど運輸業界の過当競争による安全の崩壊は決して消費者の為になっていません。かつ、これらはあくまでも一部の現象と解すべきであり、一事が万事、いつ噴出すか分からない状況が秘められているところに衆愚政治の恐ろしさがあるのです。

 独裁者的に行われた衆愚政治の結末が、かつて無い地方の反乱を引き起こし、それにより自民党は、昨夏の参院選において歴史的惨敗を喫し、立党以来の最大の危機に直面しているのです。

 これらの現象は決して、ラストサムライさまの言われるがごとくの『内政に関して事細かな批判はあるでしょうけれど』などという能天気(のうてんき)な問題でないのです。まさに国家国民の死生の地、存亡の道なのです。

 そのゆえに、我々が政治家を判断する場合、(好き嫌いの感情でなく)彼がどのような思想を持ち、言動・行動において何をしてきたか、はたまた何をやろうとしているのかを厳しく監視することが肝要なのです。

 ラストサムライさまに選挙権があるのか無いのか分りませんが、少なくとも主権者たる国民は、(世間や大勢がどうあれ)平素から政治に関心を持ち、勉強し続けるという姿勢が重要なのです。それが民主主義国家の国民たる者の勤めなのです。

 これは決してラスとサムライさまが言われているような『聖人君子の理想』ではなく、極めて当たり前の現実的な問題なのです。世間や大勢がそうだからといって理論が間違っているわけではありません。いつの時代であれ真理は真理なのです。


(2)兵法とは何か・その一

 失礼ながらラストサムライさまは兵法というものが良く分っておられません。いつの時代であれ、またどんな社会であれ、その理屈に理があると分っていてもそのことに従いたくない人、反発したがる人は必ずいるものです。

 早い話がラストサムライさまとて、例えば「素直になれ」の重要性は認識されていると思います。しかし、だからといって、気に入らない人から「素直になれ」と言われても素直に従いたくないでしょう。それが人間というものです。

 そのゆえに、ラストサムライさまが言われているがごとくの『理路整然とした内容ですけど心に響かない内容ですね。知識だけの理屈を捏ねても云々』は、通常のごく当たり前の反応でありますから、(そのように反論されても)私は何の痛痒も感じません。

 しかし、問題は次の点にあります。つまり、兵法的に言えば、そのような謂わば程度の低い人を動かす方法が例えば「任侠」であり「情愛」なのです。言い換えれば、兵法に長けた人は、そのような人心操作の詐術をもって、物の道理の分らない人を手足のごとく動かすのです。

 もとよりそれが(先回の知行合一論で説明したごとく)正鵠を射たものであれば良いのですが、然(しか)らずんば、大いに問題があるということなのです。

 ゆえに我々は、その政治家の思想や言動、行動を平素からチェックする必要があるのです。つまり我々は、好き嫌いの感情で衆愚政治の片棒を担ぐことだけは民主主義国家の国民として避ける必要があるということです。その意味で、小泉元首相は、実に人心操作の詐術に長けた人と言うことはできます。


(3)兵法とは何か・その二

 失礼ながらラストサムライさまは、孫子の曰う『算多きは勝ち、算少なきは勝たず』<第一篇 計>の真意がお分かりではありません。孫子は算が多いから戦えとも、算が少ないから戦うなとも曰っておりません。

 それを偏見で解釈して『世界で一番強い国はアメリカです。彼らの価値観は日本人には理解し難いエゴの塊です。それを突付けば武力行使を辞さない。そういう民族なんです。ではそういう民族とやっていくにはどのような方法が日本にとって得策でしょうか?』などと言われているのは、まさに「孫子読みの孫子知らず」と断ぜざるを得ません。

 日本をアメリカの属州の一つの如くに勘違いされ、もしくは、そのように望まれてているとしか解されないラストサムライさまのお立場ではそのような御見解で宜しいのでしょうが、通常の日本人の感覚からすれば実に意味不明な論であります。

 もし、然(しか)りとすれば、日本は、例えば日清戦争も日露戦争も戦えず、ただ大国たる中国やロシアに命ぜられるがままに極東の片隅にひっそりと蹲(うずくま)っているだけのつまらない国家に成り下がっていたことでしょう。

 我々が今日あるのは、我々の父祖が敢然と立ち上がり、例えば、大国アメリカと戦った太平洋戦争の歴史があるからではないでしょうか。カミカゼの名が今日も世界に知れ渡っているのは、ことの是非はともあれ、我々日本民族の誇りではないでしょうか。

 私はアメリカと戦争しろと申し上げているのではありません。しかし、アメリカに逆らうな、唯々諾々(いいだくだく)とその命に従うべし、との売国奴にして国賊的な思想には組しないということです。

 そもそも、(一般的に言えば)他人のせいにするのが西欧人の思想であり、内に原因を求めるのが東洋人の思想です。例えば、日本の調査捕鯨船団を追う二つの環境保護団体の行動を見れば一目瞭然でありましょう。報道によれば、自分から日本船に乗り込んできてそのまま居座り、あろうことか「人質にされた、日本はテロ国家」だと世界に発信しているわけですから、その思想の何たるかは押して知るべしであります。

 つまり、言われている『彼らの価値観は日本人には理解し難いエゴの塊です。それを突付けば武力行使を辞さない。そういう民族なんです』などは当たり前のことであって敢て特筆に値するような内容ではないのです。それを踏まえてどう処置するかが兵法の兵法たる所以(ゆえん)なのです。

 ゆえにそのこと自体は問題でも何でもありません。問題なのは、まさに「だからそのような恐ろしい国に逆らうな、その方が得策である」と論じて憚(はばか)らない長い物には巻かれろ式の事なかれ主義、唾棄すべき避戦主義にあるのです。再度、孫子をキチンと学ばれることをお勧めします。


(4)日本の宗教は神道だけではありません。

 ラストサムライさまは、小泉元首相や神道に熱烈に帰依するゆえに『一国の首相が靖国神社で参拝することは戦争で亡くなった多くの兵士や遺族にとっては嬉しいことでもありますよ。遺族の者として私は嬉しかったですね。例えそれがパフォーマンスであってもです』と言われておりますが、ご存知のように日本の宗教は神道だけではありません。

 戦死し自動的に靖国神社の祭られている人が、例えば、仏教徒の場合、キリスト教徒の場合、無神論者の場合、彼らの心中は如何ばかりのものでしょうか。もとより、死者に思いは無いとして百歩譲ったとしても、そこに関わる戦死者遺族の方々の宗教事情も同じことなのです。

 ラストサムライさまのごとく単純に『一国の首相が靖国神社で参拝することは戦争で亡くなった多くの兵士や遺族にとっては嬉しいことでもありますよ。遺族の者として私は嬉しかったですね』と言えないことはお分かりだと思います。

 要するに、世の中のことは複雑怪奇なのです。平成19年を象徴する言として「偽」が選ばれました。しかし、あれはあくまでもいわゆる「氷山の一角」であり、巷には、彼の「振り込め詐欺」を始め、利権に群がる政治家の「偽」、国益を無視して省益を優先する官僚の「偽」、「離れではすき焼きを食っている」特別会計の「偽」、マスコミ報道の「偽」、宣伝広告の「偽」等々が溢れかえっております。

 油断をすれば喰われてしまうのがこの世の現実であり、能天気(のうてんき)では自滅せざるを得ません。吾人が孫子を学ぶ所以(ゆえん)であります。
posted by 孫子塾塾長 at 11:18| Comment(2) | TrackBack(0) | 時事評論

2008年01月14日

6 ラストサムライさまのコメントにお答えして

 当ブログの「3 エセ改革者・小泉元首相の現像、未だ覚めやらず」の記事について、1月8日、ラストサムライさまから二回目のコメントを頂きました。内容は下記の通りです。

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 返事ありがとうございます。只、私が思うに孫子の兵法はとても危険でもあります。それはそれをどのように解釈するかによって意味合いが変わってくるからだと思います。

 小泉前首相は、勝ち組と負け組みはいいが、待ち組みはダメだといいました。負け組みはチャレンジして負けた。しかし何もせず待ってるだけの人に対してはそれなりの社会的責任が圧し掛かってくると。

 政治家とは、国内のみならず世界的な規模で政治をやっていかなくてはならない。世界の中の日本の位置付けはどうなのか過去の歴史はどうなのかどのような力関係があるのかを考え日本の立場を良くするように働きかけなけらばならない。

 彼は過去の日本の良さも理解し敗戦によって悪い部分と一緒に葬りさられた日本的道徳的徳目の作法を理解しまた、それを今の世界的力関係の中でどのように復活するか西洋的合理主義はどのように利用できるかなどを考えての行動だったかと思います。

 単なる客寄せパンダみたいな政治家だと批判されるのは、表面的な見方だと思います。彼は国民に問うといって解散選挙を行った。危険な北朝鮮にも行った。郵政民営化も実現させた。彼なりの信念があったからできた行動だと思っています。普通の政治家なら先ず解散選挙なんてやらないと思います。

 「知ることは行う事の始めであり、行う事は知る事の完成である」と王陽明が語ってますが、正に彼は実行したと思っています。
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 これについての管理人のコメントは次の通りです。
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 ラスト・サムライさま、またまた傾聴に値する御意見をお寄せ頂き、誠に有難う御座います。

 孫子に大変お詳しいようですので、まず次の点について御教授頂きたく思います。

(1)貴信に『孫子の兵法はとても危険でもあります。それはそれをどのように解釈するかによって意味合いが変わってくるからです』とあります。

 一体、孫子の文言のどこをどのように解釈すればそのようになるのかを是非、御教示ください。


(2)また貴信に、『「知ることは行う事の始めであり、行う事は知る事の完成である」と王陽明が語ってますが、正に彼は実行したと思っています』とあります。が、しかし、これでは王陽明の思想の根本主旨について全く理解されていないと言わざるを得ません。

 これらを勘案すると、論理的に「孫子や陽明学そのものが危険なのでなく、それを学ぶ人の資質や能力に問題があるから危険なのである」と言わざるを得ないのですが、この点についても御意見を御聞かせ頂きたく思います。

 因みに、王陽明の「知行合一」説の本旨は一般に次のように解されております。


(3)王陽明が「知行合一」説を主張した背景

 いわゆる意識的行動という観点から人間の行動を観察すれば、その前提にまず「認識=知」があり、而る後に「実践=行」があるということは常識的に理解されます。

 つまり、認識=知と、実践=行は別々のことであるというのが通常の考え方であります。この「知」と「行」の関係は、中国哲学史の数千年来の課題であり、古来、「知易行難」の関係でそれをとらえ、知(認識)は容易だが、行(実践)は難しい、つまり「知先行後」という形で観念の優位性が説かれております。

 これが「知と行の関係」におけるのオーソドックスな考え方です。とは言え、実際問題として単なる知識のための知識は、いくら積み重ねても、真の知識・行動と結びついた知識にならないこともまた事実であります。否、むしろ、そうゆう意味での知識人ほど、意外と知識と行動が相反することも一般的傾向と言わざるを得ません。

 言い換えれば、高邁な行動理論を説きながら、いざというとき何にもできない、まさに「口舌の徒」たる学者先生をはじめ、我々の周囲を見回しても、知ったかぶりして偉そうなことをいう連中ほど、返ってろくな奴はいないということです。

 王陽明は、このような知識と行動の分裂は極めて重要な問題であり、これはまさに病気である断じて、古来のオーソドックスな思想たる「知先行後」に異議を唱える形で、いわゆる「知行合一」の思想を説いたのです。


(4)王陽明の説く「知行合一」の根本主旨とは

 しかし、ここで勘違いしてはならないのは、王陽明の説く「知行合一」は、今、この刹那の瞬間を生きる実践主体たる人間の「心」の実態について論ずるものだということです。つまり、王陽明の説く「知行合一」は、常識的に解されるところの「知ることが先で、行うことは後」とはややその趣を異にしているということです。

 簡単に言えば、ヘビースモーカーが、今、この瞬間、禁煙しようと決意すれば、まさにその瞬間は禁煙しているということになります。その意味で、王陽明は、知と行は本来、二つではなく一つであり不可分と言ったのです(常識的な解釈はここまで突き詰めていません。しかし刹那を生きる実践主体という立場においてはそうゆう解釈が成り立つということです)。

 しかし、そうは言っても、先のヘビースモーカー氏が(時間の経過とともに)ニコチンの禁断症状を起こして我慢できずに喫煙すれば、やはり、禁煙の重要性を知ることと、それを実行することは不一致と言うことになります(その人が平素から禁煙を公言している場合は、常識的な解釈においても不一致となります)。

 その意味では、聖書にある「情欲を抱いて女を見た者は、姦淫と同罪である」の言も同じことが言えます。つまり、実践主体たる個人の内面におけるその瞬間という意味で言えば、すでにそれを実行する態勢が始まっているということであり、そのまま目的を完遂すべく行動を継続すれば論理的には姦淫に行き着くわけです。

 とは言え、そう欲したからといって直ちにそれを充足するべく行動する人は、常識的には有り得ないので(例えそのような情欲を抱いたとしても外形的には)何事も起きていないがごとき態度をもって接することになります。つまり、常識的な解釈で言えば、これは言行の不一致には当たらないということであります。

 が、しかし、知行合一説のごとく厳密に言えば、(ことの善悪は別として)まさにそれは言行の不一致ということになります。そのゆえに、キリストは、性に対する純潔という意味で、「それはいけない」と言うのです。なぜならば、「情欲を抱いて女を見た者は、姦淫と同罪」だからです。

 これは法律の問題ではなく、真実に人に関わろうとする人の心の「知と行」の問題なのです。これが王陽明の説く「知行合一」の本旨です。


 つまり王陽明は、古来の「知先行後」思想の弊害を憂えて、現実のこの瞬間を生きる人間の立場に立てば、「知と行」はあくまでも一つであり間断や分裂は有り得ないと説いたのです。言い換えれば、本来、「知と行の関係」はそのようなものであるゆえに、強い真剣な気持ちをもって認識=知と、実践=行の問題に取り組むべきだと主張したのです。

 別言すれば、ことを為すの根源は、唯(ただ)に心の中に自然と備わっているのであり、この道理を外界の事物の中に求めるのはとんだ間違いである、と言うのです。

 とは言え、重要なことは何を実行するかということです。言い換えれば、天意に背かない正しい行動をするということであり、そのためには正しい知、すなわち知覚と意識の裏づけが必要となります。これが「知行合一」説の根本主旨であります。

 この理解が無く、単純に「知ることは行う事の始めであり、行う事は知る事の完成である」とばかり、私意に任せ思慮や分別を伴わない行動は、無価値どころか人間社会には極めて有害となります。マスコミ報道を賑わす社会的事件や不祥事などは殆ど「自分がしたいから、その欲求を満たすために、そのことだけを考えてやった」結果に他ならず、長崎県・佐世保のスポーツクラブで起きた散弾銃乱射事件のなどはまさにその典型例と言わざるを得ません。

 政治の目的が、弱者を助け、民の竈(かまど)を潤すことにあるとすれば、為政者はなおさら慎重に「知行合一」の根本主旨を理解する必要があります。

 とりわけ、小泉元首相のごとき、独善的で風変わりな政治家が、(たとえ悪気はなくとも)衆議によって政治をするよりも、その特異なパフォーマンスをもってマスコミ報道を煽り、衆愚政治を演出して、独りで断行するのが正しいと信じて、正鵠を射た多数の識者の意見や国民の声を無視して独断的に政治を行えば、世の物議や騒動を引き起こすことは必定であり、決して世の中のためにならないのです。

 結果はまさに、(己一個の趣味嗜好や独善的願望を満たして)悦に入っているのは小泉元首相ただ独りであり、弱者は益々、虐げられ、民の竈(かまど)は一向に潤わなかったと言っても過言ではありません。小泉元首相は政治家たるの資質を欠く、と評する所以(ゆえん)です。


 ともあれ、王陽明の知行合一説は、(行動の前にまず正鵠を射た理念が必要という意味で)結局のところ「知と行の関係」におけるオーソドックスな思想たる「知先行後」と同じものと言わざるを得ず、その域を出るものではありません。

 つまり王陽明は、ラストサムライ様の御説のように単純に「知ることは行う事の始めであり、行う事は知る事の完成である」と言っているのではないと言うことです。まず、天意に背かぬ正しい行動のためには何をなすべきか、それが最重要だと言っているのです。

 王陽明は、そのために最も重要なことはまず「志を立てる」こと、言い換えれば、「正鵠を射た理念」が必要だということを主張しております。私がここで言いたいのは、小泉元首相のパフォーマンスから窺い知る限りでの「その志」もしくは「政治的理念」が果たして弱者の為になり、民の竈(かまど)を潤すことを願ってのものなのか否かということであります。

 それが天意に背かぬ正しい思想であれば、まさにその「知行合一」は諸手を挙げて歓迎されるべきことなのです。しかし、もしその実態が私意に任せた個人的趣味の欲望充足にあるとすれば、それは由々しき問題であり、有害となるのです。


(5)小泉劇場の背景にある「志」は国民の幸福を願ってのものなのか

 一般に、小泉元首相は、永田町という特殊な世界のとりわけ政局には異常な興味と関心を抱いている政治家と謂われております。言い換えれば、国民生活と遊離したその舞台で、いかに立ち回り、いかに自身をアッピールし、いかにリーダーシップを取るかに生き甲斐と関心があるのであり、国民のために何をすべきかを考えるタイプに非ず、ということです。

 自民党を離党せずに「自民党をぶっ壊す、改革する」と言っていること自体がまさにその証左であり、つまりは、小手先だけの、見せかけだけの改革となることを自ら宣言しているようなものです。もとより、そのパフォーマンスが国民の利益を代弁しているように見える場合もありますが、その本質はあくまでも自己の保身のために利用しているに過ぎないということです。

 北朝鮮訪問の例で言えば、要するに、拉致問題の全面解決どころか、たった五人の拉致家族を返して貰うことを条件に拉致問題の幕引きを図ったのです。金正日が今もなお、拉致問題は既に解決済みだと言い続けている所以(ゆえん)です。つまり、拉致問題は、小泉元首相にとっては解決すべき問題ではなく、自身の政権浮揚のために利用する対象に過ぎなかったということです。

 郵政解散も同じことです。一般的には誰も郵政民営化には反対していません。問題はどのようなやり方をしたらベターなのか、ということが論点なのです。而るに、その肝心な論点をわざとはぐらかし、わけの分からない「郵政民営、是か否か」「郵政解散」などに論点をすり替え、いわゆる小泉劇場を演出したのです。

 つまり、小泉劇場とはまさに衆愚政治の別名に他ならず、あまつさえ、「郵政民営化、是か否か」に限って獲得したはずの「郵政」総選挙による多数の議席数を良いことに、あたかも、全てに対する国民の信任を得たかのごとく恣意的に解釈し、弱者切捨てのための障害者自立支援法などをはじめ、郵政以外のさまざまな法案を力づくで押し通したのです。

 要は、その時々の衆愚政治的を喚起するために適当なパフォーマンスを演出し、国政という舞台を利用して単にその個人的趣味を満足させたに過ぎません。「一将功成って万骨枯る」とはまさにこのことです。

 孫子は、『進みては名を求めず、退きては罪を避けず。ただ、民を是れ保ちて、而も、利の主に合うは、国の宝なり。』<第十篇 地形>が真のリーダーであると断じておりますが、小泉元首相の場合は、「進みて名を求め、退きては罪を避け」と言わざるを得ません。

 論より証拠で、アメリカナイズされた変な小泉政治の結果、現在の日本は、規制緩和の中で急速に膨らんだ日雇い派遣のデタラメな実態、二百万とも三百万人ともいわれるワーキング・プアの問題、弱者・地方切捨てによる社会的格差の問題、給与所得者の五人に一人が生活保護基準の目安である年収200万円以下である問題、低賃金で働かされ続けるパート労働者の待遇問題、正社員ですら、定期昇給もなく、いつ首になるか分からない労働環境で働かされている問題などが山積しております。我が世の春を謳歌しているのは強者たる一部の大企業だけ、と言わざるを得ません。


 もとより、これらの責任の全てが小泉政治にあるというわけではありません。が、しかし、このような傾向が顕著になったのは明らかに小泉政治以降ということです。このような厳しい現実に目を背け、例えばインド洋の米艦に莫大な費用を費やして燃料補給する必要性がどこにあるというのでしょうか。

 孫子の曰う『ただ、民を是れ保ちて、而も、利の主に合うは、国の宝なり。』どころか、まさにその正反対の政治家が小泉元首相であったと言わざるを得ません。


(6)小泉元首相の流す涙で国のために散った特攻隊員は果たして浮ばれるのか

 そもそも、アメリカ一辺倒のポチ犬が(そのアメリカを倒すために已むに止まれぬ思いで散って逝った)特攻隊員の遺影の前で涙を流したからといって、はたまた、国士気取りで、靖国神社に参拝したからといって、特攻隊員が喜ぶとでも思っているのでしょうか。私に言わせれば全て茶番であり、演出されたパフォーマンス以外の何者でもありません。

 もし本当に彼に日本の国を思う志があるのなら、戦後、日本が放置したままの戦争責任の総括を国民に呼びかけ、それを踏まえて新たな日本の国づくりたるビジョンを首相として国民に提示すべきであったのです。

 巧妙なパフォーマンスの演出という特異な才能をその面で発揮すればそれこそ「近年稀に見る政治家」と謳われたことでしょう。日本の行く末を案じて出撃した特攻隊員達は、そのことを見届けて初めて安堵し浮ばれるのではないでしょうか。

 日本人は、あれだけ悲惨な未曽有の大敗北を喫したにも拘らず、何の反省も教訓も得ないまま経済発展への道をひた走りました。これが今日のビジョン無き、日本社会の閉塞感を生み出している原因であります。

 ついでに言えば、無節操な日本人のこの性質こそが、戦争の直接の被害者たる中国・韓国などをして「日本は信用できない」と言わしめている所以(ゆえん)なのです。

 にも拘らず、「アメリカとさえ巧くやっていればそれで善し」とする、それこそ(知行合一の本旨に反する)天意に背いた不適切な狭い了見を踏まえ、思慮なき乱暴な行動をとったのが小泉元首相だったのです。

 まさに戦争被害者の神経を逆なでするがごとく、国士気取りで靖国に参拝すれば、中・韓の外交関係が冷え切るのも蓋(けだ)し当然のことであります。

 そもそも問題なのは、首相就任前は一度も靖国詣でをしたことの無い彼が、なぜ首相在任中に限って靖国に参拝したがるのか、誰が見てもこれは一身に注目を集めるための話題づくり、もしくは政権のイメージアップ図るためのパフォーマンスと言わざるを得ません。靖国参拝をしたいのなら個人の資格で行くべきなのに敢てそうしない、そこにはやはりそれなりの理由あると見るのは当然のことです。

 そもそも思想そのものが極めて脆弱なのになぜかパフォーマンスだけは熱心にやる、そこを見透かされているゆえに、大人たる中国首脳などは小泉元首相を評して「子犬」などと揶揄するのであります。軽さでは定評のある彼のブッシュ米大統領さえも(小泉元首相の軽さには)本心では呆れているのではないでしょか。

 このような政治家の一体、どこが「近年稀に見る政治家」なのか私にはさっぱり分かりません。むしろ、その特異な才能と相俟って、独裁者の資質を備えた危険人物と解するのが適当であります。然るに昨今、このような人物の再登場を願う向きもあるやに聞き及びます。が、しかし、心ある日本人は小泉劇場のごとき衆愚政治は二度と見たくないと感じているのではないでしょうか。
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2007年08月17日

4 戦略・戦術は極めて身近な問題である

 8月12日付け朝日新聞の「声」欄に「ダメな大人をバイトで見た」と題する投稿があった。本質を外れた薮睨(やぶにら)み的な思考パターンの横行する現代社会において、その矛盾を鋭く衝いた一言に我々は深く学ぶ必要がある。その内容を要約すれば次のようになる。

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 僕はスーパーでアルバイトをしている。働いてお金がもらえるのは、お客様がモノを買ってくれるからなので、お客様が一番大切なのは分かっている。

 だが、会計のとき、一言もなく立ち去る人、ビニールのカゴを放置する人など、どうかと思う人は多い。後の人のことを考えられないのだ。こちらは買ってもらう側で、お客様がいないと店はやっていけない。文句を言うつもりはないが、カゴを返すことくらい自分でやってもらいたい。

 ほんの三、四歩で片付けることがことができるのに。そんなに難しいことだろうか? 時間がないのだろうか? 片付けない人はオジサンが多く、意外にも若い人は片付けるのである。

 「近ごろの若い者は」と、よく言われるが、実はオジサンたちの方かしっかりしていないのである。こんな小さなことが変えられれば、きっと世の中は大きく変わっていくと思うのだが…。

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 投稿者は岐阜県の16歳・高校生の方であるが、若い世代の純粋な立場から見た何気ない一言は、いつしか世慣れし日々純粋さ失いつつあるオジサン達に「戦略・戦術とは何か」あるいは「人間の特長たる自覚的能動性とは何か」を再考するためのヒントを示唆するものである。私は次のように考えた。

 まず、このオジサン達のパターンは二つに分けて考えられる。一つは、自分と他人のために、使った物は「整理整頓」もしくは「必ず元の位置に戻す」のが人間の知恵である、と知ってはいるが実行できなかった場合、一つは、そのような知恵は端(はな)から念頭にない言わば野生児もしくは狼少女的タイプの場合である。


一、オジサン達の好きな戦略・戦術の観点から考えた場合

 ここでは、戦略とは、最も中心的な位置にくる目的、目標、そして方向づけといった根本レベルの考え方をいう。戦術とは、どのように具体的に戦略を達成してゆくかという手段方法をいう。

 つまり、この場合、自分のため、あるいは(次に使う)他人のためにビニールの買い物カゴを定位置に戻すという決心が戦略であり、その決心に従い、実践の場においてカゴを手に持って二、三歩、歩を進めるというのが戦術である。

 そのゆえに、そうすべきであるという「知恵」を知っていながら実践できなかったオジサンは、まさに「ほんの二、三歩」歩くことが不能という意味での戦術の失敗により、戦略を(ヤルからヤラナイへ)変えてしまったということである。逆に言えば、そもそも戦略という「根本の決心」が決まっていなかったとも言える。

 いわゆる戦略・戦術という言葉が日本社会で喧伝されてから久しい。とりわけオジサン達はこの言葉が好きなようであるが、その意味内容がどこまで理解されているのかは甚(はなは)だ疑わしい。大方は、新興宗教に心酔している信者のように、ただ呪文の如く唱えているに過ぎないようである。

 しかし、戦略は呪文の如く単に言葉を並べることではなく、(戦術による)行動の追求と積み重ねを絶対条件としているものゆえに現実を変革する力を持つのであり、その意味では、「買い物カゴ」のごとき極めて身近な問題から「戦略・戦術とは何か」の実際的感覚を養うことが肝要なのである。

 五体満足な普通のオジサンなら「ほんの二、三歩が歩けないから戦略を放棄した」などと言えないだろう。否、そんな馬鹿なことは幼稚園児でさえ言わないであろう。にもかかわらずできないのは何処に問題があるかと言うことである。それを考え、問題を解決する、つまり現実世界を変革するのが戦略・戦術を考えるということである。

 彼のメーテルリンクの「青い鳥」を引き合いに出すまでもなく、「幸福の青い鳥」は何処(どこ)か遠くにあるのではなく、自身の足下にあることを知るべきである。

 百歩譲って「買い物カゴ」の話はよしとしても、ことが「飲酒運転」の場合はどうであろうか。この場合の戦略・戦術の不一致は極めて重大な結末に至る可能性があることは論を待たない。しかして、そのメカニズムは「買い物カゴ」の場合と全く同じなのである。

 つまりは、「小さなことができない人間は、大きなこともできない」のであり、「一円を笑う人間は、一円に泣く」ということなのである。世に飲酒運転が尽きない所以(ゆえん)である。こんな人に限って「買い物カゴを戻すに必要な、ほんの二、三歩の時間」はたっぷりあるのである。無いとは言わせない。もし無いとすれば、それは税金の無駄遣いと同じく、単に使うところを間違えているに過ぎないのである。


二、「野生児もしくは狼少女」の観点から見た場合

 野生児も狼少女も、もとより人間社会でのマナーを知らないから、仮に「買い物カゴ」を放置しても、罪は無い。だからといって、知性を持ち、五体満足で長年人間社会で暮らしているオジサンがマナーを知らないからという理由で何をしてもいいという理屈にはならない。「お互い迷惑をかけない」「人の振り見て我が振り直す」のが社会を生きる知恵だからである。野生児や狼少女と同列に論ずる訳にはいかない。

 分からなければ素直に聞き、知らなければ自ら学ぶのが知性ある人間の姿である。毛沢東は「喜んで小学生に学べ」と論じている。そのような素直な心を失い、考えることを放棄し、独善的にただ欲望の充足だけに日々を送るのなら犬や猫と同じである。

 イスラム教の人間性弱説を引くまでもなくも、人間は尽きることのない欲望の塊であり、欲望の誘惑に弱いものである。ゆえに、欲望に身を委ねることは確かに快楽であるが、それが昂じて貪(むさぼ)りとなれば、満たされぬ苦しみが生じ、やがては欲望の奴隷となる。

 欲望充足の利と害を十分に知って、適切にこれに対処するのが「性善ではあるが性弱」たる人間の健気(けなげ)さというものである。

 とりわけ人間には、環境や条件に屈せず、ナニクソと発奮して主体的に行動して物事を変革して行く力がある。彼の毛沢東はこれこそが人と動物を区別する所以(ゆえん)のものとしてこれを自覚的能動性と名付けている。

 かつて筆者も、欲望の赴くままに、車の窓からゴミを平気で投げ捨てて恥とも思わない人間であった。その習慣を新婚早々の妻からたしなめられた。妻は中学校の教師であったからそうゆうことにはうるさいのである。筆者も初めは「細かいことを言うなあ、面倒くさいなあ」と思いながら塩らしくゴミを車内のゴミ袋に入れるようにしている内に、それがいつしか習慣となり、そのようにすることはとりわけ苦ではなくなった。

 そのような立場で、他人が車の窓から平気をゴミを投げ捨てる様を目にすると、いかにそれが顰蹙(ひんしゅく)を買う見苦しい行為であるかということが身に染みて分かった。極論すれば、クソ・小便を垂れ流して走っているに等しい行為に映ったのである。

 要するに、人間は欲望のままに行動することもできるが、欲望を制して、これを理性に従わせることもできるのである。いわゆる、理論と実践、戦略と戦術の関係はまさにその問題であることを理解する必要がある。

 ゆえに、ことは高々、「買い物カゴ」の後片付けをどうするか、という表面的問題に過ぎないが、その根本には、戦略と戦術、欲望のコントロール、自覚的能動性と現実の改革などの本質的問題が隠されているのである。

 たった一度の人生、深く味わって生きようとする向きの人は、このような些細な現実を直視して目を背けない心構えが肝要と考える次第である。

posted by 孫子塾塾長 at 11:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事評論

2007年08月09日

3 エセ改革者・小泉前首相の幻像、未だ覚めず

 不運にも、似非(えせ)改革者・小泉前首相の身代わりに指名され、その猿真似をしたに過ぎない「ぼんぼんのお友達内閣」たる安部政権は、今回の第21回参院議員選挙において、「食い逃げ・勝ち逃げ」をした前政権のツケを全面的に支払わされる形で、国民の大鉄槌を受け歴史的大敗を喫した。

 このことは、既に予測されていたこととは言え、その惨敗振りは(小泉前首相の個人的趣味嗜好のレベルで無責任に行われた)いわゆる弱者切捨てを容認する競争原理に基づく新自由主義政策への国民の反感・怒りの強さが見て取れる。

 その意味では、この歴史的惨敗は、単に安部首相の宰相たるの資質や能力、閣僚の不祥事・不始末などに拠るものではなく(それは起爆剤として作用したに過ぎない)、その真因は、この五年間、ひたすら独特のパフォーマンスを繰り広げて国民を欺き続きけてきた小泉政権の無責任さのツケに起因するものと言わざるを得ない。

 むしろ、お坊ちゃん育ちの安部首相の立場は、いずれ馬脚を現さざるを得ない宿命を誰よりも承知していた小泉前首相が「後は野となれ山となれ」式に絶妙なタイミングで引退するに際し、その花道を飾るために巧みに仕組んだ一種の身代わり、もしくは時限爆弾であったと言わざるを得ない。

 因みに、孫子はリーダーの在るべき姿について『進みては名を求めず、退きては罪を避けず』<第十篇 地形>と論じている。小泉前首相の場合はまさにその逆で、エセリーダーたるの名にふさわしく「進みては名を求め、退きては罪を避け」であったと言わざるを得ない。

 このようなエセリーダーを宰相として仰がざるを得ない日本及び日本人は、国家としても国民としても不幸の極みである。

 その意味で、阿部首相の罪は、「官から民へ」「改革なくして成長なし」「大きな政府から小さな政府へ」などの空疎なキャッチフレーズばかりが強調され、その本質は覆い隠されていた小泉改革の恥部や暗部に目を背け、その光の部分のみに心を奪われ、恩に着せられ、恩に着て無分別にもその二代目に収まったことにある。

 そのゆえに、そのツケ払いは当然のことながら自分自身で払わなければならない。普通の大人であれば、今さら「実は、騙されました。私は単なる身代わりでした」とは口が裂けても言えないからである。


 ところで、8月7日付け朝日新聞の「声」欄に「郵政民営化の凍結案に仰天」と題された投稿があった。まさに仰天するその内容を要約すれば次のようになる。
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1、郵政民営化の凍結案など参院選の公約のどこにも書いてない。国民新党との野党共闘のために民主党が郵政民営化の凍結案を持ち出すならば完全な本末転倒だ。

2、二年前の衆院選は、小泉前首相が「郵政民営化か否か」を国民に直接問いかけ、焦点がはっきりしていた。小泉人気や戦略のうまさばかりが喧伝されるけれども、結果を見れば、「郵政民営化」が支持されたのは紛れも無い事実である。

3、自民党がそれをうやむやにして、なし崩しに抵抗勢力を復党させている。それに対する嫌気も選挙結果に少なからぬ影響があったはずだ。

4、民主党は(郵政民営化の凍結案をやるなら)選挙前に公約すべきで、突然持ち出すのは完全な反則である。民主党は拙速で政局を狙うのをやめ、何が自分たちに期待されているのか、もう一度、議論し直すべきだ。
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 投稿者は千葉県の48歳・男性(フリーライター)の方であるが、私はこの意見に大いなる怒りと失望を感じた。そして考えた。

 言葉を持ち考えるがゆえに人間は万物の霊長なのであり、そのゆえにまた人間は、仮想と現実の間に生きる者でもある。まさにその意味では、夏目漱石の彼の「草枕」にあるが如く「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される」のが人の世の常である。

 問題は、この両者をキチンと弁(わきま)え、機に臨み変に応じてその兼ね合いをどう判断するかということである。

 言いえれば、政治は徹頭徹尾リアリティーの世界であるのに対し、ファッションやデザイン、歌舞音曲の類は、好き嫌いの感情、感覚や感性などを主とする世界である。その意味で、前者は「智」の働く世界であり、後者は「情」の働く世界である。

 この両者のいわゆるTPOを間違え、かつ、それに固執すれば「意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい」ということになる。

 言い換えれば、「味噌とクソは別」なのであり「月とスッポンは違う」のである。いくら形や色が似ているからといって両者を混同すると現実の生活は成り立たないのである。

 私が強い怒りと失望を禁じ得なかったのはまさにこの点にある。つまり、この投稿者(仮にA氏とする)は、どう考えても国民の司命、国家の安危に関わる政治をあたかもファッションやデザイン、歌舞音曲の類を鑑賞するが如きと同列の感情、感覚や感性をもって判断していると言わざるを得ない。

 別言すれば、A氏は自分ではさも分かったつもりで書いているのであろうが、実は自分自身で何を言っているのか実はよく分かっていないのではないかと疑われるのである。

 子供騙しのような彼の小泉劇場が案に相違して功を奏したのは意外とA氏のごとき思考パターンの人が多かったゆえかもしれない。もとより、A氏には怨みもつらみもないが、ここでは、「政治はファッションに非ず、国民の司命、国家の安危に関わる重大事である」という観点から論じて見たい。

一、A氏は、「郵政民営化、是か非か」の問題の本質をつかんでいない

 (いわゆる抵抗勢力と目されている人達を含め)誰も郵政民営化には反対していない。問題は、いかに適切な形を取るのかということなのである。当然のことながらこれにはある程度の時間を掛けて、真摯な議論や討論が必要なのである。その粋(すい)を集めてより良いものを創るのが民主主義の原則なのである。

 逆に言えば、間違っても人気取りのためのパフォーマンスに利用したり、政争の具に供してはならないのである。而(しか)るに小泉前首相は、「改革なくして成長なし」「自民党をぶっ壊す」などの詐欺師まがいのキャッチフレーズを声高に叫んで国民の耳目を幻惑し、問答無用の独裁者的な暴走政治を展開したのである。

 これを民主主義の敵と言わずして何を言うのであろうか。今回は、まさにその化けの皮が剥がれたのである。

 構造改革など真っ赤な嘘で、実(まこと)しやかにその本質を覆い隠し、いかにも「やっています」というパフォーマンスのみを巧妙に演出したに過ぎない。そもそも原理的に、政権党たる自民党の組織内にいて本質的な構造改革などできる道理がない。

 たとえて言えば、封建支配の危機回避のために行われた江戸幕府の諸改革のごとものである。そもそも、民衆の不満に対する封建支配そのものがジレンマの極みであるのに、その幕藩体制維持を前提としての改革など所詮は小手先のものに終始せざるを得ないのが道理である。

 真に民衆のための改革を企図するのであれば、先ず幕藩体制を解体すべし、というのが道理である。彼の明治維新により幕府が倒壊した所以(ゆえん)である。その伝でゆけば、自民党を改革するには外部による政権交代しかないのである。

 このゆえに、自民党の組織内にいて「自民党をぶっ壊す」などいうこと自体がそもそもインチキであることを見抜く必要がある。小泉前首相のしたことは、単に、その立場を悪用して、自己一身の人気取りのためのパフォーマンスを繰り広げただけであり、その結果、自身の生存基盤たる自民党の集票組織を破壊したに過ぎないのである。まさに、蛸が自分の手足を食う図式である。

 その意味で、今回の歴史的大敗に示されているがごとく、真の被害者は、獅子身中の虫たる小泉前首相に思うさま振り回され、頼みの組織をガタガタにされた他ならぬ自民党自身ということになる。が、しかし、そのように詐欺師紛いの人物を選挙の顔として首相に担いだのだからこれは自業自得としか言いようが無い。

 要するに、「郵政民営化」が支持されたのではなく、国民はその小泉劇場に騙されたのである。その二代目政権たる阿部内閣がそれを国民の全権委任と曲解し、さらなる暴走政治を拡大した結果、今日の、例えば国民生活を直撃する実質的大増税などがいとも簡単に国会で可決されているのである。これを暴走と呼ばずして何を暴走というのであろうか。

 ともあれ、極めてリアリティーな政治を仮想的なパフォーマンスや、ファション的感覚、好き嫌いの趣味・嗜好の感情や感性で捉えてはならないのである。

二、「過ちを知りては必ず改めよ」の精神が肝要である。

 そのゆえに、「郵政民営化の凍結案など参院選の公約のどこにも書いてない」ことなど問題にすること自体が問題なのであり、そもそも次元が異なるものであることを理解する必要がある。

 要するに、何人であれ、誤りは誤りとして素直に認め、「過ちを知りては必ず改めよ」の精神を堅持することが肝要であり、人間社会、それなくしては進歩は望めない。まさに「過って改めざる是を過ちと言う」のである。


三、政治は弁証法的思考をもって「正・反・合」の知恵を絞ることに価値がある。

 (A氏が言うがごとく)自民党が、なし崩し的に抵抗勢力を復党させているのは、郵政民営化、是か非か、をうやむやにしているわけではない。

 そもそも、物事を白か黒か、敵か味方に分けて論ずること自体が人間の叡智に反する極めて愚劣な行為なのである。人の世は、そのような短絡的な発想で事が片付くほど単純ではないのである(但し、個人や組織の内面的対決たる決断・意思決定の場合は自ずから別である)。

 自民党が「なし崩しに抵抗勢力を復党させている」のはその愚かしさに気付いたからであり、その意味ではまさに進歩であり、非難されるべき謂われは無いのである。

四、「拙速」の意味を取り違えている

 孫子の曰う『拙速』<第二篇 作戦>の真意は、「目的を見失うことなく速やかに達成せよ」という意味である。たとえば、中国の故事にいう「蛇足」に見るがごとく、先に蛇の絵を描き終えた男が(つい油断して)余計な蛇の足など書き加えねば、本来の目的たる酒が飲めたのである。

つまりは、目的を見失わず速やかに達成すべし、とするのが『拙速』の真意なのであり、「手段は拙劣でも速くやれば良い」とする意味ではないのである。

 その意味で、A氏が言うがごとく、「民主党は(郵政民営化の凍結案という)拙速で政局を狙うのをやめ、何が自分たちに期待されているのか、もう一度、議論し直すべきだ」とあるが、これは全くの見当違いなのである。

 むしろ、郵政民営化の凍結案を提出し、これを最善の形にすべく議論の俎上に乗せることは、とりもなおさず、小泉・安部二代政権による国民無視の独裁的暴走政治にキチンと対処していることを示す本質的なアッピールとなるのである。むしろ、この根本的問題を放置すれば、民主党がその資質を国民に問われるは必定である。

 そのゆえに、政権交代を狙う民主党にすれば、郵政民営化の凍結案提出は、孫子の曰う真の意味での『拙速』にいささかも違わないのてあり、目的達成のためには極めて有効適切な手段なのである。

posted by 孫子塾塾長 at 13:34| Comment(4) | TrackBack(0) | 時事評論