2013年05月14日

『敵を殺す者は怒りなり』について

 弊塾のサイトに次ぎのようなご質問が寄せられました。孫子解釈における重要な論点なので管理人の回答を添えてご紹介いたします。

〈ご質問〉

 一般に世間では、「世の中は怒った方が負け」「短気は損気」「負けるが勝ち」「ならぬ堪忍、するが堪忍」などと謂われており、「怒りの感情」は厳に慎むべきもの、と解されています。

 しかし、将軍の書たる孫子には『敵を殺す者は怒りなり。』〈第二篇 作戦〉とあり、一般には、「士卒に敵を殺さしめんと欲すれば、士卒の心を激して怒らしむべし」などと解されています。また一説に「将軍個人の怒りを指したものではない」ともあります。であるならば孫子は、将軍の書ではないのか、などと突っ込みたくなります。

 孫子はまさに戦争を論ずる書ゆえに、上記のような敵に対する憎しみや敵愾心という本能的な「怒り」の感情も分らなくはないのですが、(士卒の場合はともあれ)リーダーたる将軍に対する指針としては何かスッキリとしません。どう考えたら良いのでしょうか。


〈ご回答〉

1、『敵を殺す者は怒りなり。』〈第二篇 作戦〉について

 まさに孫子の言を直訳的に考えればそのような解釈にならざるを得ません。が、そもそも、孫子十三篇六千余文字の一言一句は極めて抽象的な言であることことを理解する必要があります。例えば、ある一定の情報が百枚の原稿用紙にまとめられているとしましたら、それを一枚に精選し、さらにそれを十ヶ条に集約し、さらに三か条、一か条に要約し、最後にそのエキスを一枚の絵で表現するがごときものが、孫子の一言ということであります。

 そのような高度な抽象性を有する孫子の言を、いかにも能天気に表面的・直訳的に理解しようという発想は、孫子の解釈においては百害あって一利なし、と評すべき態度と言わざるを得ません。そもそも、「士卒に敵を殺さしめんと欲すれば、士卒の心を激して怒らしむべし」などの説明は、まさに「言わずもがな」のことであり、竹簡という極めて限定的かつ貴重な言わば紙幅をわざわざ割いてまで書き残すほどのことでないことは論を俟(ま)ちません。

 まさに孫子は、一兵卒の書ではなく、将軍(リーダー)の書でありますから、自ずから、将軍(リーダー)として、常に銘記すべき思想は何かを論ずるものと解するのが適当であります。

 ところで、彼の釈迦は、この世における感情は突き詰めれば二つしか無い。一つは「怒り」であり、一つは「愛」である、と説いております。「怒り」の感情は破壊につながり、「愛」の感情は創造につながる、と曰うのです。

 そのことを踏まえて、孫子の曰う『敵を殺す者は怒りなり。』〈第二篇 作戦〉を読み解けば、自ずから、「怒り」は、まさに「破壊」を意味することが明白です。何に対する「破壊」かと言えば、〈第二篇 作戦〉の優先的立場たる『拙速』、則ち、兵は不祥の器(凶器)、已むを得ずしてこれを用うれば、勝ち易きに勝つを上とす、の意に対する破壊、言い換えれば、その目的に対する重大な阻害要因が「怒り」の感情であると言うことです。

 凡そ「争いごと」に関する人間の怒りの感情は、(それが何であれ)まさに燎原の火のごとく益々エスカレートし勝ちなものであります。その「怒り」がおのずから戦火の拡大と無意味な殺戮をもたらし、延(ひ)いては『拙速』の対極的概念たる戦争の長期化・泥沼化という事態を招来し、結局は、自らを焼き尽すものとなるのであります。

 このゆえに『敵を殺す者は怒りなり。』は、いやしくも将軍たる者、極めて危険な感情たる「怒り」を、ことにおいていかにコントロールするかを常に銘記し行動すべきであるとする、兵法上、極めて重要な思想を論ずる意と解されます。

 まさに老子の曰う「善く戦う者は怒らず」、あるいは、徳川家康の曰う「怒りは敵と思え」と同意と解されます。また、ご質問にある「世の中は怒った方が負け」「短気は損気」「負けるが勝ち」「ならぬ堪忍、するが堪忍」を言うものでもあります。

 この『敵を殺す者は怒りなり。』〈第二篇 作戦〉の解釈を裏付けるものが、用兵篇の総結言たる〈第十二篇 火攻・後半部〉の言であります。則ち、

 『主は怒りを以て師を興す可からず、将は慍(いきどお)りを以て戦いを致す可からず。利に合えば而ち用い、合わざれば而ち止む。怒りは以て復(ま)た喜ぶ可く、慍(いきどお)りは以て復た悦(よろこ)ぶ可きも、亡国は以て復た存す可からず、死者は以て復た生く可からず。故に明主は之を慎み、良将は之を警(いまし)む。』と。

 かく解することにより、〈第二篇 作戦〉に曰う『敵を殺す者は怒りなり。』の意と用兵篇の総結言たる〈第十二篇 火攻・後半部〉の意は明確な整合性を以て、矛盾なく意味が通るのであります。


2、そもそも兵法は体得するものであり、実行できなければ意味がない。

 『敵を殺す者は怒りなり。』〈第二篇 作戦〉は、いやしくも将軍(リーダー)たる者は常に沈着冷静でなければならないことを論ずるものでもあります。人間はいわゆる感情的な動物ゆえに、まさに感情的な「衝動」は人間行動の特色の一つではありますが、頭に血が上り、カーッとしているために往々にして直線的・単眼的な行動に走り勝ちであり、思わない結果を引き起こすことがあるからであります。老子が「善く戦う者は怒らず」と論ずる所以(ゆえん)です。

 とりわけ、ことが戦争・政治などの場合は、亡国や民族の滅亡に直結するものが破壊の感情たる「怒り」なのであります。ゆえに、いやしくも将軍(リーダー)たる者、これを慎み、これを警むるという姿勢が何よりも肝要である、と繰り返し論ずるのであります。

 言い換えれば、「士卒に敵を殺さしめんと欲すれば、士卒の心を激して怒らしむべし」という場合は、人間の本性たる「怒り」の感情の趨(おもむ)くままに益々それを刺激すれば良いだけの話であり、一方、『敵を殺す者は怒りなり。』〈第二篇 作戦〉の真意の場合は、感情の動物にして生身の人間たる将軍(リーダー)の欲望をコントロールしようとするものであります。つまり、両者は全くの正反対の立場となるのです。

 一般に、『性(さが)、弱き者』が人間ゆえに、まさに正反対となる両者の場合、一体、どちらがより困難な道であるか、言い換えれば、どちらが万物の霊長たるにふさわしい道であるか、言うまでもありません。孫子が『敵を殺す者は怒りなり。』〈第二篇 作戦〉と敢えて論ずる所以(ゆえん)です。


3、我々の脳に安易な思い込み・固定観念が生じ易い理由

 そもそも人間の思考なるものは、いわゆる固定観念、もしくは単眼的・近視眼的な思考に陥り易い傾向を備えています。一般的に、人間の脳は統一性、一貫性のとれたものに対しては、殆ど無条件に近い形で肯定的に受け入れると謂われています。その方が複数の情報の識別処理の上での利便性・効率性・安定性が高いからです。

 言わば、人間の脳のもつ統一性、一貫性へのこだわりであり、固定観念・思い込み・思考の偏向とも言えます。

 逆に、統一性、一貫性から外れたものには対しては全く否定的にとらえるという極めて白黒のハッキリした反応を示すと謂われています。その方が自分は一貫した考え方をしていると納得できるので心理的な安定感が得られということであります。そのゆえにこそ人間は、固定観念・思い込み・先入観・思考の偏向に陥り易いとも言えます。つまりは、自分で安心できる思考法につい安住してしまうということです。


4、思い込み・固定観念・先入観・思考の偏向を解く方法

T、問題を全体と部分の根本構造から把握するということ

 脳力開発的に言えば、基礎部第二面「思考方法の整備」の第一項目、常に中心点を明らかにし、中心・骨組みで考える習慣をつくろう(常に目的・目標を明確にする習慣をつくろう)に該当します。
 一般的に、部分的性質のものは目に見えるが、全体的性質のものは目に見えないものであり、かつ、前者は下位レベル(低次元)にあるが、後者は上位レベル(高次元)に位置するという側面があり
ます。そのことを踏まえて、何ごとであれ、全体と部分の根本構造を把握し、適切な判断を行うべし、ということです。

U、全体と部分の根本構造に思いを致すための方法

 古来、いわゆる「迷い」を避ける最も良い方法は、「簡潔に考えること」とされていますが、その伝で言えば、この場合は、まさに次ぎのようなイメージを抱くことも一法かと思われます。

@甲陽軍鑑に曰う『鼠頭牛首』、文字通りネズミの頭と牛の頭をイメージする意。

Aいわゆる『群盲、像を評す』をイメージする。知らないのに分った振りをしていないか。

B多角度思考の活用。つまりは異なる視点の導入。単眼的思考から複眼的思考へ。

C間をおいてから考え直す(一般的には4〜5日が適当と謂われている)

D平素から身辺に起こる小さなことを判断力養成の最適な教材としてイメージし、(その意味で   の)大局を洞察する習慣づくりを実践し、情勢判断力を鍛錬すること。


5、まとめ

 今回は、『敵を殺す者は怒りなり。』〈第二篇 作戦〉の場合の、孫子解釈の実際例を見てきましたが、いずれにせよ、真の意味での孫子の活用は、(高度な抽象性を有するその言の根底にある)その思想をいかに我が身に骨肉化することにあります。

 そのことを踏まえて、個々人の個別具体的な環境における状況、もしくは問題の特殊性と普遍性を自分の頭で徹底して考え抜き、問題解決への理論体系を構築することにあると考えます。


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2011年06月09日

24 孫子の曰う『敵を殺す者は怒りなり』の真意

 孫子の<第二篇 作戦>に『敵を殺す者は怒りなり』の言があります。この言は一般的に「兵士を戦いに駆り立てるには、敵愾心を植えつけなければならない」、あるいは「我が士卒をして敵を殺さしめんと欲せば、まさにこれを激して怒らしむべし」などと解されております。

 しかし、この段の前後の文意、及び十三篇全体を一貫する孫子の兵法思想の観点から言えば、かなり一面的、表面的な解釈と言わざるを得ません。言い換えれば、それは、いわゆる「怒り」という感情に関する言わば戦術的な側面を論じているに過ぎないと言わざるを得ません。

 別言すれば、そもそも「怒り」という感情は、(ことの広狭大小を問わず)まさに世の中の破壊の原因であるゆえに、これを戦略的にいかに解すべきかは兵法にとって極めて重要な問題であり、かつ、<第二篇 作戦>は、孫子兵法の総論部たる戦争観(根本戦略)について論じているものゆえに、自ずから『敵を殺す者は怒りなり』は戦略的立場において解されるべきものと考えられます。

 そのゆえに、『敵を殺す者は怒りなり』<第二篇 作戦>は、次のように解するのが適当と言えます。

 即ち、『いやしくも将軍たる者、ただ怒りの感情に任せて、不必要かつ無意味に敵の兵士や無辜(むこ)の民を殺戮してはならない。それは将軍個人の感情的な憂さ晴らしにはなり得ても、決して自国の利益には結びつかない。むしろそれは、一歩間違えれば、敗軍の基(もとい)ともなり兼ねない極めて危険な行為である。ゆえに、将軍たる者、厳にそのことを慎み、冷静に「我にとって真の利となるものは何か」を考慮すべし』と。老子曰く『善く戦う者は怒らず』と。

※これに関しましては下記の弊サイトで詳説しております。ご参照ください。
  http://sonshijyuku.jp/column/column006.html


 ここでは、上記の解釈を踏まえて、さらにその裏面を考察いたします。

 則ち、人は生きるために動く必要があり、動けば、例えば「犬も歩けば棒に当たる」がことく必ず何かと衝突します。つまり、動くということは即ち戦いであり、戦いは思うように行かないのが現実ゆえに、結局、そこには多種多様な怒りの感情が惹起されることになります。

 例えば、その尽(ことごと)くに過剰反応して四六時中、怒りまくる人、もしくは、一応は我慢するが、ついに耐え切れずに、しばしば怒りを爆発させる人などが散見されます。前者はいわゆる社会生活不適合の人との烙印を押され、後者は、いわゆる瞬間湯沸かし器と酷評されて敬遠されるか、その性格の弱点を巧みに利用される破目に陥ります。まさに孫子の曰う『忿速は侮(あなど)るべし』<第八篇 九変>であります。

 要するに、「アイツは気に食わない」などの動物的な低レベルの怒りや、エゴ丸出しの私憤、はたまた事の真偽・是非善悪も弁(わきま)えずにただ付和雷同するだけの社会的バッシングなどの怒りは決して己の利とはならない、と言うことであります。

 まさに、『短気(怒り)は損気』、『短気(怒り)は身を滅ぼす腹切り刀』ゆえに、一般には、人を責(せ)める前に、まず己の至らな無さを反省し、次から巧く行くように創意工夫する形で、世の中の破壊の原因たる「怒り」の感情を(己の利とすべく)善用し自他共栄を図ることになります。

 言わば、これが処世における根本的な戦略方針であり、まさに孫子の曰う『敵を殺す者は怒りなり』<第二篇 作戦>の意であります。彼の徳川家康の遺訓に曰く『堪忍は無事長久の基(もと)、怒りは敵と思え』と。

 ここで問題は、しからば「怒り」は全て否定すべきか、ということです。仏教思想では、まさに「どんな怒りでも、正当化することはできない。正しい怒りなど成り立たない」と論じております。

 一方、人間性悪説であれ性善説あれ、不完全な人間の集合体たる世の中が(ことの広狭大小を問わず)不条理な現象に満ち満ちていることは論を俟ちません。仮にそのような場面に際会した時に、「触らぬ神に祟りなし」とばかりに、腹も立てずに、円満に人と接し、仏像のごとき微笑を浮かべてことを運んでいたとしたら、それはそれで人の道に反する行為と言わざるを得ません。

 つまり、何が正しくて何が正しくないかを熟慮した上で、これは許せないということに対しては、言わば『義憤(正義や人の道に背くことを怒る意)』たる大いなる怒りを持たなくてはいけない、と言うことです。彼の孟子は『自ら反(かえり)みて縮(なお)くんば、千万人と雖も、吾れ、往かん」と論じております。

 例えば、「原発という極めて危険な施設を扱いながら、危険性を小さく見積もっていたのはなぜか」、「原発事故はもとよりこと、常に責任の所在が曖昧かつ不明確な行政組織とは国民にとって一体何のか」「甘い想定で原発の安全神話を声高に喧伝していたいわゆる御用学者は人間としても立派なのか」、「数々の冤罪事件を生みながら反省の欠けらもない検察、事件が起きるまで何もしない警察とは国民にとって一体何なのか」、「国のやることは間違いない、などの恐るべき思考停止状態は何に起因するのか」などにはまさに義憤たる大いなる怒りを激発すべきであります。

 とは言え、根本の戦略方針は『敵を殺す者は怒りなり』<第二篇 作戦>、あるいは「罪を憎んで人を憎まず」でありますから、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」式の怒り方は厳に慎むべきであることは論を俟ちません。

 そのことを踏まえて、最も留意すべき点は、まさに怒るべき否かの正否の問題をいかに判断するか、ということです。言い換えれば、ただ自分の立場や物の見方だけに絶大な信頼を置いて盲信するという幼稚な姿勢は不可だと言うことです。

 幼稚ということはつまりは、小さな狭い自我に固執し、それを乗り越えようとしない傲慢不遜な態度の人を意味しております。例えば、学歴偏重主義社会の今日、とりわけ難関とされる学校さえ出れば、それで世間は、人間も人格(人の道の実践的主体者たる個人の意)も一流だと見なし、自惚(うぬぼ)れた当人も、私の人間的総合力、人格は既に完成されている、私の人格には何の問題も無い、足りないものがあるとすれば、それは必要な専門的知識と経験、方法論だけである、と考えているが如き場合であります。

 孫子の曰う『彼を知り、己を知れば』<第三篇 謀攻>とは、まさにこのような傲慢不遜な姿勢を問うものであります。果たして然(しか)りか、と。

 翻(ひるがえ)って思うに、今回の福島第一原発事故などは、まさに偏差値優先教育の申し子(神仏に祈ったお陰で授かった子)たるの立派な肩書きを持ったいわゆる我利我利(ガリガリ)タイプの学校秀才が引き起こした天下の大罪とでも評すべきものであります。

 一般的に彼らに共通しているものは、今回の大地震・大津波に象徴されるが如きの「自分を超えたもの」「自分より優れたもの」の存在を認め、それに従うという謙虚な姿勢が欠落していると言うことです。つまり孫子の曰う『彼を知り、己を知れば』<第三篇 謀攻>の言を(もとより頭では理解しているであろうが)真底からは分かっていない、とうことであります。

 世間的には確かに彼らはエリートかも知れない。が、しかし、「人智を超えた力」が見えず、もしくはそれを無視し、ただ専門家という名の『葦(よし)の髄から天井を覗(のぞ)く』がごとき視野の狭さに安住していただけの「頭でっかち」的学校秀才こそ、エリートどころかまさに大衆以下のレベルと断ぜざるを得ません。

 人間的資質の空疎なこのような輩(やから)に国民の生命・財産を預けていたということは、人間性善説を基本とする日本人の人の善さ、もしくは「村の長」的なリーダーを善しとする誤ったリーダー観に負うところが大と言わざる得ません。そのような言わば泰平の眠りからは一刻も早く醒めるべきであります。

 今回の東日本大震災・福島第一原発事故を契機として、「真のリーダーとは何か」「その判断基準とは何か」などについての認識を新たにすべき時代が到来したと言えます。

 孫子の曰う『敵を殺す者は怒りなり』<第二篇 作戦>の真意を眼光紙背に徹して深く読み解かねばならない所以(ゆえん)であります。言い換えれば、偏差値優先的教育のようなピントのずれた表面的・一面的・片面的な思考法で読み解くのではなく、自分の人生体験を踏まえ、自分の頭を使って「自分を超えたもの」「自分より優れたもの」の本質を洞察するということであります。


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2008年08月17日

15 人生に兵法的思考はなぜ必要なのか

(1)生きているということの現象的意味

 「生きている」ということは、つまるところ、いわゆるトラブル(苦労・心配・面倒・厄介・紛争・騒擾など)を引き起こすことでありますから、好むと好まざるとに関わらず、また、その価値観のいかんやことの広狭大小は問わず、現実の実人世は日々戦いの連続であり、その最たるものが即ち戦争であると言えます。

 言い換えれば、人生は常に冷酷な生存競争の戦いの連続でありますから、そのような場におけるそれぞれの矛盾解決をめざす主体的な努力なしには、我々のよく生きる道はないということです。

 このような認識に、もし抵抗を感じる人があるならば、その人は、自分の人生をよりよく生きようとする努力と、人生の真の成功者となることに背を向ける人であると言えます。あるいは、その外見は人間でも、その意識の実体は犬や猫と同レベルの酔生夢死の人かも知れません。


(2)問題解決の行動に際しては必ず衝突構造がその中枢に据わってくる

 見方を変えれば、いわゆるトラブルとは、ある要因によって正常の状態が阻害されている事態でありますから、そこには自ずから(広い意味での)意志と意志の衝突構造が存在することは論を俟ちません。

 例えばいわゆる病気などはその典型例と言えます。健康状態を阻害する要因(病)にいわゆる意志があるかどうかはさておき、意志に擬せられる物理的作用が明確に観察されるということであります。

 その意味で言えば、病と対峙し、その治療の成否が患者の生死に直結する医術はまさに兵法そのものであり、そのゆえに治療とは、兵法的思考をもって病気の撃退を図るべきものとも言えます。


 因みに、弊塾のオンライン通信講座「孫子に学ぶ脳力開発と情勢判断の方法」では、

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これまでに、弁護士・公認会計士・税理士・社労士などいわゆる士業の方々が多く受講されておりますが、残念ながら、未だ医師の方の受講はありません。戦いの普遍的思想をコンパクトに纏めた孫子兵法の観点から医術を研究するのも一つ見識かと考えるものです。

 
 ともあれ、例えば、人類最大のトラブルたる戦争も、また企業間競争など様々な組織同士の争いも、あるいは個人間の対立や抗争、はたまた個々人の内面における心的葛藤も、その根底には必ず意志と意志との衝突構造があるということです。

 もとより、それが顕在化している場合もあれば、潜在化している場合もあるなどその形態は千差万別ですが、ことの本質には必ずこの衝突構造が存在するという認識が重要なのです。

 言い換えれば、「問題が解決しない」「目標が実現達成しない」などのケースは、この衝突構造の分析と把握が不十分であるため、結果として問題に適切に対処していないことに起因するものと言えます。

 そのゆえに、むしろ平凡で簡単な対象や事態ほど、(訓練という意味でも)キチンとした戦略、戦術を踏まえて問題解決を図るという認識が重要となります。


(3)衝突構造を解明するものが抗争・葛藤の原理たる戦略的視点である

 ことの広狭大小がどうあれ、その根底にある意志と意志との衝突構造という本質は不変であるため、これを解読可能にするものは、やはり抗争・葛藤の原理としての戦略的視点ということになります。ここに我々が孫子に代表される兵法的思考を学ぶ所以(ゆえん)があるのです。

 とりわけ孫子は、人類最大の抗争たる戦争を簡潔かつコンパクトに纏めたものであるゆえに、上記の戦略的視点を学び、これを日々の問題解決に活用するためには極めて適切なテキストであり、かつ有効なヒントを提示するものであります。


(4)兵法は観念論ではなく、現状打破の思想とその実践の方法である

 そもそも問題は解決されなければ意味がありません。その意味で兵法は、いわゆる観念論たる哲学ではなく行動を大前提とする実践論であります。

 とは言え、もとより闇雲(やみくも)に実践すれば良いというものではなく、当然のことながら実践のための基礎的な理論(物の見方・考え方)が必要となります。

 この理論を踏まえて問題を分析し、いわゆる「ねらい・目標」たる戦略を立案し、戦術を確立して(問題解決のための)実践行動を展開するということです。

 何事であれ、理論と実践のバランスは極めて重要であります。即ち、理論と実践はそもそも一体両面の関係にあるゆえに、両者が相互に影響を及ぼしつつ一体となってそのレベルをスパイラルにアップさせることが肝要であります。

 問題を解決するということは、つまりは、兵法の実践であり、その実践を整理して兵法の理論がさらに精緻になるということになります。

 このスパイラルな、言わばラウンド展開は、循環往復して尽きることはなく、次第により高度の問題解決に対応できるという上達構造になっております。

 これを適切に実行し得るか否かは、まさに個々人の脳力、力量に掛かっているわけですが、その実践の判断基準、指針となるものが孫子兵法であり、その実践論たる脳力開発であります。


 弊塾の通信講座「孫子に学ぶ脳力開発と情勢判断の方法」は、まさのそのために開設されているものです。とりわけ、最近は、新たに「戦略思考ができる日本人養成講座」と題してのセミナーを開催しております。

 第一期生として既に五名の方が学ばれておられます。弊塾では引き続き、第二期生を若干名募集しております。開講は九月からです。興味のある方はメールにて詳細をお問合せください。
posted by 孫子塾塾長 at 17:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 孫子

2008年07月17日

14 「一漢文学者」さまのコメントにお答えして

 当ブログの記事について、6月17日、「一漢文学者」さまから下記のコメントを頂きました。有難うございます。文字数の関係から、返信はこちらの記事としてアップさせて頂きました。

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 孫子曰く「兵は奇術」との言葉は、いかが解釈されますか。私は、ラストサムライさんと似た解釈であります。つまりは奇を正当に行使しうる超法規的状態であるから、王道に反する策を行使しても良いと。いわゆる覇術。

 そもそも七武経書と五経はその射程範囲を異にするものと存じます。「如何するか」「如何にあるべきか」の差であります。「如何にするか」が問われる状態は政体として末期であるのです。西洋の政体循環論ではないが、無為→大同→小康→刑罰があります。(前から二つ三つは礼楽政治)

 上記の政体で政治そのものが問われるのであれば「五経」、もし非常の時、侵略、内乱が起れば「七武経書」が適する。いかがでしょうか。当方は東洋思想の中で孫子は末端の学「数」「因」学として敬遠しておるものです。

 経学としていかに活用できるか、貴殿の孫子の講義に注目するところであります。

 もうひとつ、靖国について貴殿のお考えと異にします。諸方に軋轢を無くすことがその眼前に置かれておるのですが、なるほどそれは支那と商業をしたい経団連の皆様と同じくして功利的な意見であります。公に殉じられた方々に対し、公でお祭り申し上げるのが本来ではないでしょうか。

 最後になります。ともに東洋学に依拠するものとして申し上げれば、能力云々、知性云々のご発言にはいささか眉を顰めます。我々一人ひとりに備わる良知が傷つくだけであります。

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 余りにも低俗的な内容なのでお答えする気もしませんでしたが、若干、時間ができましたので次のように回答しておきます。


一、日本の歴史をキチンと学ばれてはいかがでしょうか

 恐らく、「一漢文学者」さまは中国もしくは朝鮮の方かと思われますので、まず日本の事情につき、次の二点を明らかにしておきます。

 一つは、源頼朝の鎌倉幕府以来、明治維新に至るまでの七百年間、日本は、いわゆる武家政権、即ち武士の支配した時代であったこと。一つは、(かつての中国の士太夫や朝鮮の両班のごとく)日本にはいわゆる「科挙」の制度が無かったことです。

 このゆえに、日本の場合は、大道(根幹)は兵法であって、小道(枝葉)は儒学であるというのが一般的常識であります。言い換えれば、武家政権の支配思想は兵法であり、「一漢文学者」さまの言われているような儒教に依拠する「礼楽政治」ではないと言うことです。

 とりわけ、兵法は、例えば「お金」のごとくいわゆる中性的な性格にその特色がありますから、世に氾濫する様々な「色付き」の思想、例えば仏教、神道、キリスト教、儒教、その他のイデオロギーなどを超越してこれらを領導する思想と成り得たのです。

 因みに、彼の武田信玄を兵法の師と仰ぐ徳川家康は、慶長11年、「孫子」を首位におく官版「武経七書」(孫子・呉子・司馬法・尉繚子・三略・六韜・李衛公問対)を日本で初めて刊行しています。

 江戸時代においては、確かに儒教の興隆はありましたが、それは単に幕藩体制維持のための道徳教育の道具として利用されたに過ぎないのであり、歴史的に見ても、江戸時代における儒学者の立場は、「役立たず者」的意識の強い少数者であったことは確かであります。

 そのゆえに、「一漢文学者」さまのお国たる中国や朝鮮のことは知らず、日本の場合、大道(根幹)は兵法であって、小道(枝葉)は儒学であると言わざるを得ないのです。

 つまり、貴方の言われている『当方は東洋思想の中で孫子は末端の学「数」「因」学として敬遠しておるものです』との実に尊大なご主張は、残念ながら、日本の歴史的事実には合致しておりません。当て嵌まらないということです。まさに儒学者特有の極めて視野狭窄的な物の見方、見当外れな見解の典型と言うべきものであります。


二、そもそも平時も戦時も一つの物の両面であって分断すべきものではありません

 貴方は、『上記の政体で政治そのものが問われるのであれば「五経」、もし非常の時、侵略、内乱が起れば「七武経書」が適する。如何でしょうか』と実に傾聴に値する見解を述べておられますが、これこそまさに、儒学者特有の極めて狭い料簡による固定的、表面的、一面的な物の見方と言わざるを得ません。


 そもそも『天下安(やす)しと雖(いえど)も、戦いを忘るれば必ず危うし』<司馬法>は、古来、国家護持の要諦とされております。


 而るに貴方は『如何にあるべきか』の平時は、礼楽政治をもってし、いよいよ政体も末期を迎え侵略や内乱が頻発する状態たる『如何にするか』の非常時は、『王道に反するゆえに敬遠する末端の学』たる兵法をもってすると言われるが、一体どこでその両者を別なものとして区別されるのか伏してお伺いしたいところであります。

 因みに、孔子は身の丈、九尺六寸(216センチ)の偉丈夫で、とりわけ馬術や弓術に優れ、その力は国門のかんぬき挙げるほどの武人であったことは史書の示す通りです。

 ただ彼は、士君子の教育者であり、徳治主義による政治を目指していたため軽々しく兵についた語ることを避けていただけであります。しかし、その一方で、民衆の軍事教練を重んじ、その民衆を指導する士君子については、文武両面にわたる武人教育を施していたことは論を俟ちません。

 その一個の人間たる孔子をどのようにして武人と文人の二つに分けて区別することができるのでしょうか。まさか孔子を殺しその死体を「腑分け」して区別するとでも言うのでしょうか。

 否、そもそも二つに分ける意義は何なのかということです。言い換えれば、儒学者の根底には、彼らが観念的に描くところの「王道たるもの、斯くあれかし」の空想的欲望があり、このゆえに、上記の「腑分け」は、ただ単にこの欲望を満足させたいがためのものと解せざるを得ません。

 そのような無駄話を盲信し、国家を滅亡させた好例が近代で言えば、「一漢文学者」さまのお国たる清朝であり李氏朝鮮なのではないでしょうか。

 彼の国が儒学者の説に忠実であったのは善しとするも、その結果、『天下安(やす)しと雖(いえど)も、戦いを忘るれば必ず危うし』<司馬法>の典型例として滅亡したことも事実であります。

 言い換えれば、まさに「陣に臨みて槍を磨く(平素から準備せずに、その直前になって慌てて対応する意)」の愚行と言わざるを得ません。あたかも、「一漢文学者」さまの論調のごとく、確かに虚仮脅(こけおど)しとしては光る(少しは役に立つ意)ことはありましょうが、本質的にはクソの役にも立たないということです。


 「一漢文学者」のお説が真実ならば、なぜ貴方の母国たる中国人民共和国は、戦後六十有余年を経た今日、本来の王道政治・礼楽政治に徹し中華人民解放軍を解散しないのか実に解せません。

 それはまさに彼らが中華人民共和国成立以前の悲惨かつ過酷な近代中国の歴史を知る者であり、その歴史に謙虚に学ぶ者だからであります。逆に言えば「武」を捨てたらどうなるのか身に沁みて感じているのです。

 その点、武の国たる幕末日本の場合は、表向きは武家政権の本体を巧みにカモフラージュしていても、ことの本質を決して見失わなかったがゆえに、今日、G8として世界に名を成している所以(ゆえん)であります。


三、政治家個人の私利私欲のために天下の政治を利用するのは国民の敵である

 日本の現在の社会情勢を見るに、半世紀以上の長きに亘って日本を支配してきた言わば自民幕藩体制が急速に衰えつつあり、政権交代への予兆を感じさせる現象があちこちで噴出し初めております。その他諸々の変動要因を加味すれば、現在の日本は、まさに天下大乱の兆しが大であると言えます。

 大乱と言えば、かつて戦国時代到来の契機となった応仁の乱がありました。この乱のそもそもは、時の為政者、有力者達がそれぞれ自分の私利私欲のために立ち回ったことに起因します。

 もとより、彼らにはそれが大乱に続く道筋であるとは想像だにしていなかったことでしょう。しかし、その何気ない私利私欲に基づく軽率な行動がやがて燎原の火のごとき戦火を生み、その後、一世紀にも及ぶ大乱を招来し、当時の大衆や社会を塗炭の苦しみに追いやったのです。

 言い換えれば、この応仁の乱は、いやしくも一国の権力者たる者、個人の私利私欲で政治を軽率に行ってはならないという後世への貴重な教訓を残したのです。

 而(しか)るに、彼の小泉元首相の政治的所業は、まさに個人の(政治家個人としての欲望充足という意味での)私利私欲のために政治を行った典型例であります。

 今日、社会問題となっている、例えば、郵政民営化がもたらした地域の崩壊や地方切捨ての格差問題、社会問題と化した派遣労働者問題、雇用・医療・社会福祉問題などの諸悪の根源は全て小泉元首相に起因するといっても過言ではありません。

 そもそも、自民党幕藩体制が揺らいでいる言わば「幕末」ゆえに、奇人変人たる小泉元首相のごとき政治家が登用されたのであり、通常であれば有り得ないことであります。

 逆に言えば、自民党幕藩体制下の最後の切り札たる彼に課せられた最大の使命は「人気取り」なのです。それを演出できる最適の人材として彼に白羽の矢が当たったということなのです。

 その意味では、まさに自民党及び小泉元首相は党利党略・私利私欲のために天下の政治を利用したということであります。そのような子供騙しに乗せられた有権者の無知も哀れでありますが、その選択の結果は紛れも無い客観的事実として直接、国民生活に影響を与えます。

 論より証拠、その因果の報いを受けて今の日本社会はどうなっているのでしょうか。

 最近、あちこちで「あの小泉には完全に騙された」「もう自民党には絶対に入れない」という声を多く聞きます。私に言わせれば「今頃何を言うのか、騙されたヤツが悪いのだ」ということでありますが、ともあれ、「一将、功なりて万骨枯る」とはまさにこのことであります。

 「ラストサムライ」さまがその小泉元首相を評して「近年稀に見る偉大な政治家だ」と言われるから、それは違うと申し上げたのです。

 その趣旨は、彼のライオンヘアーの形や表面ばかりに目を奪われるのではなく、天下の権力者が、天下のために政治を行わないで、あくまでも個人の「人気取り」という完全な私利私欲のために、天下のための政治を利用するからそれがいけないと言うのです。

 もとより、「ラストサムライ」さまは、個人の専門的能力という意味では優れた資質をお持ちの方でありましょう。しかし、こと物事の本質を洞察するという能力、言い換えれば「汝自身を知れ」もしくは「己を知る」という能力において極端に無知であるから、その意味において「貴方はバカだ」と申し上げたのです。これは今日の偏差値優先知識教育の最大の弊害であります。

 そう言われてもなお気が付かない人間、その意味すらも分らない人間、曰わんや、その本質も弁(わきま)えずに表面的な言葉尻を捉まえて『能力云々、知性云々のご発言にはいささか眉を顰めます。我々一人ひとりに備わる良知が傷つくだけであります』などと言われている方もまさに同類の思考パターンと言わざるを得ません。

 今日、日本社会の混乱を益々増幅させている最も唾棄すべきものが「主体者不明の評論家的知識偏重型」思考であることは論を俟ちません。


四、国に殉じた人々を国家が祀るのは当然のことである

 「一漢文学者」さまは、『公に殉じられた方々に対し、公でお祭り申し上げるのが本来ではないでしょうか』などとしたり顔をされておりますが、こんなことは当然のことであり誰もそのことに反対はしていません。

 私が反対しているのは、そのような天下のことを、天下の権力者が「人気取り」という一個の私利私欲のために利用するな、ということです。その意図が余りにも見え見えであり、その「志」が余りにも卑しいから言うのであります。


 なお、貴方は『経学として(孫子が)いかに活用できるか貴殿の孫子の講義に注目するところであります』と書かれておりますが、これについては既に下記の弊塾サイトで論じております。


孫子に学ぶ脳力開発と情勢判断の方法
http://sonshi.jp/


※ 上記サイト内「孫子談義」の下記の項をご参照ください。

(1)日用の学として兵法を学ぶ意義(08/4/3の項)

(2)兵法的思考力の養成・その一(08/5/15の項)

(3)兵法的思考力の養成・その二(08/5/19の項)



四、「戦略思考のできる日本人育成塾」について

 日本人の一般的傾向として、日々の専門的業務という意味では極めて高い能力を発揮されるものの、こと戦略的思考という意味においては、残念ながら、些(いささ)か欠けているものがあると言わざるを得ません。

 その意味で孫子塾では、「戦略思考ができる日本人育成塾」と題するセミナーを六ヶ月をワンクールとして月二回のペースで開講しております。現在、第一期生として五名の方が参加されております。

 日本は今、好むと好まざるとに関わらず、まさに第二の黒船とでもいうべきグローバル化の大変動に直面しています。

 日本人がこの激動の時代を生き抜くためには、平安末期から明治維新に至るまで日本を領導してきたいわゆる「武士の思想」を戦略思考の原点と捉え、真摯に学び、自己変革する必要がある、というのがその趣旨であります。

 現在、第二期生を募集しております。募集人数は若干名です。興味のある方はメールにてお問合せください。
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2008年07月10日

13 武蔵の「仏神は尊し、仏神は頼まず」の真意

 孫子の言に、『勝つ可からざるは己に在り』<第四篇 形>があります。一見、分りにくい言葉ですが、つまりは、運動とか活動とかの原動力(原因)は、本来、主体者自身の内側(内因)にあるのであって外部(条件)にあるのではないことを曰うものです。

 このゆえに脳力開発では「自分で主体的にやる姿勢をつくろう」、「人頼りの姿勢は止めよう」の習慣作りを重視しております。

 とは言え、このように極めて平凡で当たり前のことはともすれば「分っている」「知っている」つもりになってすっかり意識から抜け落ち、忘れられてしまう、という結果になり勝ちであります。しかし、現実世界では、平凡なことを、平凡に実行することが何よりも絶大な偉力を発揮するのです。

 言い換えれば、「自分で主体的にやる姿勢をつくろう」、「人頼りの姿勢は止めよう」の指針は一見、平凡に見えて実は極めて奥深いものがあるのです。

 そのことを別な角度から言うものが、彼の宮本武蔵が自誓の言葉としていた「仏神は尊し、仏神は頼まず」です。

 つまり、孫子の『勝つ可からざるは己に在り』<第四篇 形>と、脳力開発の「自分で主体的にやる姿勢をつくろう」と、宮本武蔵の「仏神は尊し、仏神は頼まず」とは相互に密接な関係があるということです。

 ことの背後に隠されている本質的な要素をキチンと弁(わきまえ)えることは兵法を学ぶ上で極めて肝要であります。

 このことにつきまして、弊塾サイトの「孫子時評」で詳しく論じておりますので、興味のある方はご覧になってください。


孫子に学ぶ脳力開発と情勢判断の方法
http://sonshi.jp/


<お知らせ>

 孫子塾では現在、「戦略思考ができる日本人育成塾」と題するセミナーを月二回のペースで開講しております。

 日本は今、好むと好まざるとに関わらず、まさに第二の黒船とでもいうべきグローバル化の大変動に直面しております。

 日本人がこの激動の時代を生き抜くためには、平安末期から明治維新に至るまで日本を領導してきたいわゆる「武士の思想」を戦略思考の原点と捉え、真摯に学び、自己変革する必要がある、というのがその趣旨であります。

 募集人数にまだ若干名の空きがございますので、興味のある方は下記サイトのメールにて詳細をお問合せください。

http://sonshi.jp/
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2007年11月12日

5 「孫子を勉強するにはどうすればいいですか」に答えて

(1)孫子は知識の勉強ではありません

 一般的に言えば、生きている人間は皆、立派な兵法家であるとの見方ができます。極論すれば、例えば、弱肉強食が常態であるアフリカのサバンナに棲息する野生動物は、皆、類い稀な兵法家ということです。理屈なしに生き抜くために日夜、全身全霊をもって戦っているという意味であります。況んや、万物の霊長たる人間に於てをや、であります。

(2)その意味で、常在戦場の人として、明日をも知れぬ人生を生きた孫子(孫武)の立場も、現代を生きる我々個々人の立場も全く同次元のものと解されます。ゆえに我々個々人もまた(戦時・平時という程度の差はあれ本質的には)常在戦場の人なのです。


 言い換えれば、人は兵法などを学ばずとも、有限の生ある日々を自分の五感で感じ、知恵や工夫を働かせ、生き抜くために物事を考えようとしているということです。

 ただ、人間が動物と違うのは、そのような戦いの日々に際し、古来の先人の経験が知恵として結実している兵書を、(戦いに関する)物の見方・考え方の指針として利用することができるという点であります。而して、その戦いの主体者はあくまでも個別特殊的存在たる個々人であるということです。ゆえに兵法においては、まず「汝自身を知れ」が鉄則なのです。

 兵法を学ぶという原点は、まさにここにあるわけであり、その意味で、いわゆる受験勉強に代表される演算能力中心の知識勉強とは似て非なるものであり、言わば、幹と枝葉、全体と部分、脳力と能力のごとき相違があるということです。

 あるTVドラマで年配のベテランの捜査員が上司ではあるが若年にして新米のエリート捜査員に「六法全書では人は捕まえれない」と諭(さと)すシーンがありました。

 つまり、知識は必要であるが、それはあくまでも人間の脳力の一部に過ぎない。変化を常態とする世の事象に適切に対処するためには「脳力」という意味での総合的人間力を磨く必要がある、の意と解されます。


(3)かつて日本は、士農工商という身分制度の下にあり、そのリーダーたる武士道教育の棍本は総合的人間力の育成、もしくは社会の指導者たる者、人間としていかに生きるべきかを追究するにありました。社会的指導者層の育成という意味では、それはそれで世界に冠たる有意義な教育システムであったことは確かであります。

 とは言え、明治以降の日本の社会システムを踏まえれば、とりわけ学生時代は、好むとと好まざるとに関わらず、(リーダー育成たるかつての武士道教育とはおよそ対極に位置する)演算能力中心の知識勉強、いわゆる偏差値優先の教育とは無縁ではいられません。

 然(しか)らば、かつて社会的リーダーの育成システムという意味において、世界に冠たる武士道的教育は現代社会において不要かと言えば、さにあらず、(その意味での社会的要請を善意に解釈すれば)それは個々人が社会人になってから、自覚して主体的にやるべきものである、との暗黙の了解があると解されます。


(4)然りながら、それが現実に行われているか否か極めて心許ないものがあると言わざるを得ません。一般的に言えば、厳しい受験戦争に勝ち抜いて、例えば(偏差値教育の精華たる)一流校を卒業すれば、自他ともにこれで人間として一人前と錯覚し、どちらかといえば人間形成と無縁の生活を送る人が多いようです。況んや、二流校、三流校の卒業生においてをや、と言わざるを得ません。

 仮に、資格試験などの勉強をするにしてもそれはあくまでも従来の偏差値教育の延長に過ぎず、いわゆる人格完成、総合的人間力の形成を目指すものとは無縁のものです。


(5)言い換えれば、そのような感覚、もしくは知識の勉強の延長という観点から孫子を学ぶことは適切ではないと言うことであります。冒頭で記したのはまさにそのような意味なのです。

 孫子を学ぶということは、人生とは何か、生死とは何か、戦いとは何か、組織とは何か、社会とは何か、国家とは何か、それらを踏まえて人生いかに生きるべきかを追究し実践することです。そもそもは、そのような土台の上に、現実の日々の生活があり、ビジネスがあり、地位があり、資格試験があり、家庭があり、将来があるということです。


(6)人間は思考力があるがゆえに、万物の霊長たり得ましたが、その知識ゆえに、あるいは極めて便利な現代的システムゆえに、返ってそれが妨げとなって、自分の頭でものを考え、自分の五感で感じ、知恵や工夫を働かせて物事を考えようとする力が失われてしまっていることも事実であります。


(7)孫子は、あくまでもリーダーの書であり、現状変革の思想であり、実践の書であります。ゆえに、これを学ぶには単なる知識を学ぶという感覚では難解な部分が多々あります。その意味で、孫子を学ぶには(発想の転換を図るなどの意味で)一定の学習システムが必要になるということです。これらの詳細について興味のある方は、弊塾サイトの下記の目次項目を御覧ください。


「孫子に学ぶ脳力開発と情勢判断の方法」
http://sonshi.jp/


(T)孫子の学び方について:「孫子時評」のP2・「第七回 孫子を人生万般に活用するための方法」

(U)上記の参考として:「孫子談義」11月7日付けの「孫子の意味は必ずしも正しく理解されていない」

(V)孫子をオンライン講座で本格的に学びたい:「通信講座の御案内」
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2007年07月02日

2 孫子を学ぶ意義

一、根本的・本質的な問題解決を苦手とする日本人の民族的弱点

 一般的に、我が日本民族の優秀性には定評があり、ひとしく世界の認めるところであります。しかしそれは、いわゆる将帥(指導者・リーダー)としての優秀さではなく、どちらかと言えば、命ぜられたことには黙々と誠実に器用にこなす下士官・兵的資質において優れているという評価であります。

 言い換えれば、大所高所からの兵法的思考ができない、もしくは不得手とするのが日本民族の特徴であり、裏を返せば、まさにそれこそが世界に冠たる優秀民族の弱点・アキレス腱に他なりません。

 このゆえに、何かことが起きても、「誤魔化(ごまか)し」の別名である、いわゆる「和を以て貴しとなし」を得意とし、「まあまあ、なあなあ」で問題を先送りするだけという体質が日本社会の普遍的現象となるわけであります。

 誰かが、何とかしてくれるだろうと言うわけであります。国で言えば、積もり積もった国家財政の赤字、年金、道路公団問題、官僚による公金横領とでも言うべき目を覆うばかりのお手盛り行為等々、会社組織で言えば、彼の山一證券倒産に代表される典型的な問題の先送り等々、枚挙に暇がありません。

 先輩(先代)たちによる、このデタラメのツケが溜まった結果として様々な不祥事が後輩(後代)たちのある時期に噴出するという構造が日本の社会の実態と言わざるを得ません。


 かつて、日本軍と直接戦った経験のあるアメリカ軍やイギリス軍、あるいはロシア軍の将軍たちの殆んど一致した意見として、「日本陸軍の下士官・兵は優秀だが、将校は凡庸で、特に上に行くほど愚鈍だ」と言われています。

 とりわけマッカーサーは、「日本の高級将校の昇進は(戦争指揮の上手さ・巧みさの基準ではなく)単に年次による順送り人事によるものである。従って、日本の下士官・兵は強いが、日本の軍中央部は必ずしも恐れるに足りない」と断じています。

 つまるところ、日本の高級将校たちは、戦場における指揮能力以前の問題として、戦争をするためには絶対に必要な条件、すなわち孫子の曰う「彼を知り己を知る」という兵法的思考力、あるいは戦略の構想力が決定的に欠けているということです。

 つまり、日本人は、命ぜられたことを誠実に器用にこなす下士官・兵的な資質には優れていても、指導者・リーダーとしての資質には見るべきものがない、ゆえに恐れるに足らず、というわけであります。


二、世界共通の大陸的兵法思考が日本で発達しなかった理由

 古来、異民族同士が血で血を洗う激しい興亡を繰り返してきたユーラシア大陸に比べて日本は周辺を海で囲まれた島国です。この海が自然の防壁をなしていたゆえに、近代まで日本が異国・異民族と戦った歴史はわずか三回(白村江の戦い・蒙古襲来・秀吉の朝鮮出兵)だけであります。

 言い換えれば、殺戮に継ぐ殺戮の殲滅戦を常とし、国家や民族の存亡を賭けた戦いが当たり前の中国や西欧文明の歴史とは「月とスッポン」の違いがあり、むしろ異民族との戦争は未経験に等しいと言わざるを得ません。裏を返せば、複数の文化をまたいで物事を判断しなければならないような厳しい環境で揉まれてこなかったということであります。


 要するに、外敵の侵入する恐れのない平和な島国にあって風俗・習慣・言語・思考を同じくする単一民族同士が、紛争解決の落し所を模索しつつ「まあまあ・なあなあ」の馴れ合いで持ちつ持たれつの関係を築いてきたというところであります。グローバルスタンダードとでもいうべき大陸的兵法思考が日本で発達しなかった所以(ゆえん)であります。

 つまり日本人は「何が正しく、何が間違っているのか」という原理・原則で動くのではなく、まさに「和を以て貴しとなす」に象徴されるがごとく、日本人特有のあいまい・馴れ合いの情緒的大勢追随思考で動くということであり、そのゆえに時としてマインド・コントロールされ、思考停止のまま、お上(組織の上位者)の権威に盲目的に服従するという民族的欠陥が露呈されるのであります。


 孫子の曰う『彼を知り己を知れば、百戦殆うからず。』<第三篇 謀攻>とはまさに上記のごとき状況を総括して曰うものであります。つまり、物事は、一面的・表面的・観念的に見るのではなく、全面的・本質的に見なければならないことを曰うものであります。

 あの未曽有(みぞう)の大敗北を喫した太平洋戦争を見ても、日本人は「彼を知らず、己を知らざる者」であったと言わざるを得ない所以(ゆえん)であります。


三、かつてのサムライ達の根本思想は大陸的兵法思考にあった

 ところで、原理主義と言えば、日本では彼のイスラム原理主義を想起して何か恐ろしげでえたいの知れぬものと眉をひそめる向きも多いようですが、それは日本人の勝手な思い込みに過ぎません。

 基本的には、朝鮮・中国を始め、中近東・西洋の大陸諸国はすべて大なり小なりの原理主義が基調であることは常識です。

 因みに、現代日本人が憧憬して止まないかつてのサムライ達は、武人の必読書たる孫子を愛読し、人間学の書たる四書五経を学び、その教えに従って行動したのです。 ここで想起すべき重要な点は、これらの書物は島国たる日本の産物ではなく、まさに典型的な大陸的発想の国たる中国で生まれた思想であるということです。

 言い換えれば、サムライ達の根底には戦いに関する確たる原理・原則が貫かれていたのであり、その意味ではまさしく大陸的発想たる原理主義者であったわけです。それによって培われた素養が、例えば明治維新を支えた大きな原動力となり、世界の列強と伍して堂々と渡り合える素地を育(はぐく)んだのです。


 日本人はまさにこのような良き伝統こそ、真に継承すべきであります。あたかも浮き草のごとく、情緒的な大勢の趨くままに流されるのは確かに心地良いことかも知れませんが、日本民族の将来、そして我々一人一人の将来を見据えれば不幸の源と言わざるを得ないのであります。


 世界は今、グローバリゼーションの大潮流に覆われて激烈な大競争の時代を迎え、日本も明治維新・戦後に次ぐ大きなうねりの中にあります。このような危急存亡の秋にあって独り日本のみが特異な「あいまい・馴れ合い」思考に終始することは(楽で心地よいことことかもしれませんが)決して得策とは言えません。


四、日本民族に今、最も求められている思想は孫子である。

 世に「助長補短策」という言葉があります。長所を助けて短所を補う策という意味ですが、元来、手先が器用で勤勉な日本人にさらに大陸的発想たる兵法的思考が加わればまさに「鬼に金棒」ということになります。

 そのゆえに、今、日本人が焦眉の急として学ぶべきものは大陸的兵法思考(言い換えれば分析的思考・弁証法的思考)の代表たる孫子であると言わざるを得ません。

 皆がやれば自分もやる、皆がやらなければ自分もやらないというのが日本人の特徴であります。しかし、真の自己変革のためには、そのようなあいまい、かつ情緒的な思考法は間違いであると気付くことがまず必要であります。何が正しく、何が正しくないか、そうゆう普遍的な原理・原則をもって思考すべきことが重要であります。

 孫子の原文は、文字数で言えば僅か六千余文字、原稿用紙にすると十五〜六枚程度でありますが、その行間には、まさに戦いに関するエッセンスのすべてが凝縮されている優れものです。そのゆえにこそ、読み手の力量に応じて小さく打てば小さく響き、大きく打てばどこまでも大きく響くというところに特長があります。

 因みに、彼の毛沢東は 「孫子には唯物論も弁証法もある」との認識を示しております。彼の武田信玄は、孫子のバックボーンたる分析的思考・弁証法的思考が苛烈な戦国の世を生き抜く知恵であることを悟ったがゆえに、孫子に傾倒したのであります。

 この、言わば兵法的思考をいかに読み解き、いかに活用するかが、孫子を学ぶ醍醐味であり、孫子が今日もなお読み継がれている所以(ゆえん)であります。

posted by 孫子塾塾長 at 11:00| Comment(1) | TrackBack(0) | 孫子