2008年01月14日

6 ラストサムライさまのコメントにお答えして

 当ブログの「3 エセ改革者・小泉元首相の現像、未だ覚めやらず」の記事について、1月8日、ラストサムライさまから二回目のコメントを頂きました。内容は下記の通りです。

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 返事ありがとうございます。只、私が思うに孫子の兵法はとても危険でもあります。それはそれをどのように解釈するかによって意味合いが変わってくるからだと思います。

 小泉前首相は、勝ち組と負け組みはいいが、待ち組みはダメだといいました。負け組みはチャレンジして負けた。しかし何もせず待ってるだけの人に対してはそれなりの社会的責任が圧し掛かってくると。

 政治家とは、国内のみならず世界的な規模で政治をやっていかなくてはならない。世界の中の日本の位置付けはどうなのか過去の歴史はどうなのかどのような力関係があるのかを考え日本の立場を良くするように働きかけなけらばならない。

 彼は過去の日本の良さも理解し敗戦によって悪い部分と一緒に葬りさられた日本的道徳的徳目の作法を理解しまた、それを今の世界的力関係の中でどのように復活するか西洋的合理主義はどのように利用できるかなどを考えての行動だったかと思います。

 単なる客寄せパンダみたいな政治家だと批判されるのは、表面的な見方だと思います。彼は国民に問うといって解散選挙を行った。危険な北朝鮮にも行った。郵政民営化も実現させた。彼なりの信念があったからできた行動だと思っています。普通の政治家なら先ず解散選挙なんてやらないと思います。

 「知ることは行う事の始めであり、行う事は知る事の完成である」と王陽明が語ってますが、正に彼は実行したと思っています。
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 これについての管理人のコメントは次の通りです。
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 ラスト・サムライさま、またまた傾聴に値する御意見をお寄せ頂き、誠に有難う御座います。

 孫子に大変お詳しいようですので、まず次の点について御教授頂きたく思います。

(1)貴信に『孫子の兵法はとても危険でもあります。それはそれをどのように解釈するかによって意味合いが変わってくるからです』とあります。

 一体、孫子の文言のどこをどのように解釈すればそのようになるのかを是非、御教示ください。


(2)また貴信に、『「知ることは行う事の始めであり、行う事は知る事の完成である」と王陽明が語ってますが、正に彼は実行したと思っています』とあります。が、しかし、これでは王陽明の思想の根本主旨について全く理解されていないと言わざるを得ません。

 これらを勘案すると、論理的に「孫子や陽明学そのものが危険なのでなく、それを学ぶ人の資質や能力に問題があるから危険なのである」と言わざるを得ないのですが、この点についても御意見を御聞かせ頂きたく思います。

 因みに、王陽明の「知行合一」説の本旨は一般に次のように解されております。


(3)王陽明が「知行合一」説を主張した背景

 いわゆる意識的行動という観点から人間の行動を観察すれば、その前提にまず「認識=知」があり、而る後に「実践=行」があるということは常識的に理解されます。

 つまり、認識=知と、実践=行は別々のことであるというのが通常の考え方であります。この「知」と「行」の関係は、中国哲学史の数千年来の課題であり、古来、「知易行難」の関係でそれをとらえ、知(認識)は容易だが、行(実践)は難しい、つまり「知先行後」という形で観念の優位性が説かれております。

 これが「知と行の関係」におけるのオーソドックスな考え方です。とは言え、実際問題として単なる知識のための知識は、いくら積み重ねても、真の知識・行動と結びついた知識にならないこともまた事実であります。否、むしろ、そうゆう意味での知識人ほど、意外と知識と行動が相反することも一般的傾向と言わざるを得ません。

 言い換えれば、高邁な行動理論を説きながら、いざというとき何にもできない、まさに「口舌の徒」たる学者先生をはじめ、我々の周囲を見回しても、知ったかぶりして偉そうなことをいう連中ほど、返ってろくな奴はいないということです。

 王陽明は、このような知識と行動の分裂は極めて重要な問題であり、これはまさに病気である断じて、古来のオーソドックスな思想たる「知先行後」に異議を唱える形で、いわゆる「知行合一」の思想を説いたのです。


(4)王陽明の説く「知行合一」の根本主旨とは

 しかし、ここで勘違いしてはならないのは、王陽明の説く「知行合一」は、今、この刹那の瞬間を生きる実践主体たる人間の「心」の実態について論ずるものだということです。つまり、王陽明の説く「知行合一」は、常識的に解されるところの「知ることが先で、行うことは後」とはややその趣を異にしているということです。

 簡単に言えば、ヘビースモーカーが、今、この瞬間、禁煙しようと決意すれば、まさにその瞬間は禁煙しているということになります。その意味で、王陽明は、知と行は本来、二つではなく一つであり不可分と言ったのです(常識的な解釈はここまで突き詰めていません。しかし刹那を生きる実践主体という立場においてはそうゆう解釈が成り立つということです)。

 しかし、そうは言っても、先のヘビースモーカー氏が(時間の経過とともに)ニコチンの禁断症状を起こして我慢できずに喫煙すれば、やはり、禁煙の重要性を知ることと、それを実行することは不一致と言うことになります(その人が平素から禁煙を公言している場合は、常識的な解釈においても不一致となります)。

 その意味では、聖書にある「情欲を抱いて女を見た者は、姦淫と同罪である」の言も同じことが言えます。つまり、実践主体たる個人の内面におけるその瞬間という意味で言えば、すでにそれを実行する態勢が始まっているということであり、そのまま目的を完遂すべく行動を継続すれば論理的には姦淫に行き着くわけです。

 とは言え、そう欲したからといって直ちにそれを充足するべく行動する人は、常識的には有り得ないので(例えそのような情欲を抱いたとしても外形的には)何事も起きていないがごとき態度をもって接することになります。つまり、常識的な解釈で言えば、これは言行の不一致には当たらないということであります。

 が、しかし、知行合一説のごとく厳密に言えば、(ことの善悪は別として)まさにそれは言行の不一致ということになります。そのゆえに、キリストは、性に対する純潔という意味で、「それはいけない」と言うのです。なぜならば、「情欲を抱いて女を見た者は、姦淫と同罪」だからです。

 これは法律の問題ではなく、真実に人に関わろうとする人の心の「知と行」の問題なのです。これが王陽明の説く「知行合一」の本旨です。


 つまり王陽明は、古来の「知先行後」思想の弊害を憂えて、現実のこの瞬間を生きる人間の立場に立てば、「知と行」はあくまでも一つであり間断や分裂は有り得ないと説いたのです。言い換えれば、本来、「知と行の関係」はそのようなものであるゆえに、強い真剣な気持ちをもって認識=知と、実践=行の問題に取り組むべきだと主張したのです。

 別言すれば、ことを為すの根源は、唯(ただ)に心の中に自然と備わっているのであり、この道理を外界の事物の中に求めるのはとんだ間違いである、と言うのです。

 とは言え、重要なことは何を実行するかということです。言い換えれば、天意に背かない正しい行動をするということであり、そのためには正しい知、すなわち知覚と意識の裏づけが必要となります。これが「知行合一」説の根本主旨であります。

 この理解が無く、単純に「知ることは行う事の始めであり、行う事は知る事の完成である」とばかり、私意に任せ思慮や分別を伴わない行動は、無価値どころか人間社会には極めて有害となります。マスコミ報道を賑わす社会的事件や不祥事などは殆ど「自分がしたいから、その欲求を満たすために、そのことだけを考えてやった」結果に他ならず、長崎県・佐世保のスポーツクラブで起きた散弾銃乱射事件のなどはまさにその典型例と言わざるを得ません。

 政治の目的が、弱者を助け、民の竈(かまど)を潤すことにあるとすれば、為政者はなおさら慎重に「知行合一」の根本主旨を理解する必要があります。

 とりわけ、小泉元首相のごとき、独善的で風変わりな政治家が、(たとえ悪気はなくとも)衆議によって政治をするよりも、その特異なパフォーマンスをもってマスコミ報道を煽り、衆愚政治を演出して、独りで断行するのが正しいと信じて、正鵠を射た多数の識者の意見や国民の声を無視して独断的に政治を行えば、世の物議や騒動を引き起こすことは必定であり、決して世の中のためにならないのです。

 結果はまさに、(己一個の趣味嗜好や独善的願望を満たして)悦に入っているのは小泉元首相ただ独りであり、弱者は益々、虐げられ、民の竈(かまど)は一向に潤わなかったと言っても過言ではありません。小泉元首相は政治家たるの資質を欠く、と評する所以(ゆえん)です。


 ともあれ、王陽明の知行合一説は、(行動の前にまず正鵠を射た理念が必要という意味で)結局のところ「知と行の関係」におけるオーソドックスな思想たる「知先行後」と同じものと言わざるを得ず、その域を出るものではありません。

 つまり王陽明は、ラストサムライ様の御説のように単純に「知ることは行う事の始めであり、行う事は知る事の完成である」と言っているのではないと言うことです。まず、天意に背かぬ正しい行動のためには何をなすべきか、それが最重要だと言っているのです。

 王陽明は、そのために最も重要なことはまず「志を立てる」こと、言い換えれば、「正鵠を射た理念」が必要だということを主張しております。私がここで言いたいのは、小泉元首相のパフォーマンスから窺い知る限りでの「その志」もしくは「政治的理念」が果たして弱者の為になり、民の竈(かまど)を潤すことを願ってのものなのか否かということであります。

 それが天意に背かぬ正しい思想であれば、まさにその「知行合一」は諸手を挙げて歓迎されるべきことなのです。しかし、もしその実態が私意に任せた個人的趣味の欲望充足にあるとすれば、それは由々しき問題であり、有害となるのです。


(5)小泉劇場の背景にある「志」は国民の幸福を願ってのものなのか

 一般に、小泉元首相は、永田町という特殊な世界のとりわけ政局には異常な興味と関心を抱いている政治家と謂われております。言い換えれば、国民生活と遊離したその舞台で、いかに立ち回り、いかに自身をアッピールし、いかにリーダーシップを取るかに生き甲斐と関心があるのであり、国民のために何をすべきかを考えるタイプに非ず、ということです。

 自民党を離党せずに「自民党をぶっ壊す、改革する」と言っていること自体がまさにその証左であり、つまりは、小手先だけの、見せかけだけの改革となることを自ら宣言しているようなものです。もとより、そのパフォーマンスが国民の利益を代弁しているように見える場合もありますが、その本質はあくまでも自己の保身のために利用しているに過ぎないということです。

 北朝鮮訪問の例で言えば、要するに、拉致問題の全面解決どころか、たった五人の拉致家族を返して貰うことを条件に拉致問題の幕引きを図ったのです。金正日が今もなお、拉致問題は既に解決済みだと言い続けている所以(ゆえん)です。つまり、拉致問題は、小泉元首相にとっては解決すべき問題ではなく、自身の政権浮揚のために利用する対象に過ぎなかったということです。

 郵政解散も同じことです。一般的には誰も郵政民営化には反対していません。問題はどのようなやり方をしたらベターなのか、ということが論点なのです。而るに、その肝心な論点をわざとはぐらかし、わけの分からない「郵政民営、是か否か」「郵政解散」などに論点をすり替え、いわゆる小泉劇場を演出したのです。

 つまり、小泉劇場とはまさに衆愚政治の別名に他ならず、あまつさえ、「郵政民営化、是か否か」に限って獲得したはずの「郵政」総選挙による多数の議席数を良いことに、あたかも、全てに対する国民の信任を得たかのごとく恣意的に解釈し、弱者切捨てのための障害者自立支援法などをはじめ、郵政以外のさまざまな法案を力づくで押し通したのです。

 要は、その時々の衆愚政治的を喚起するために適当なパフォーマンスを演出し、国政という舞台を利用して単にその個人的趣味を満足させたに過ぎません。「一将功成って万骨枯る」とはまさにこのことです。

 孫子は、『進みては名を求めず、退きては罪を避けず。ただ、民を是れ保ちて、而も、利の主に合うは、国の宝なり。』<第十篇 地形>が真のリーダーであると断じておりますが、小泉元首相の場合は、「進みて名を求め、退きては罪を避け」と言わざるを得ません。

 論より証拠で、アメリカナイズされた変な小泉政治の結果、現在の日本は、規制緩和の中で急速に膨らんだ日雇い派遣のデタラメな実態、二百万とも三百万人ともいわれるワーキング・プアの問題、弱者・地方切捨てによる社会的格差の問題、給与所得者の五人に一人が生活保護基準の目安である年収200万円以下である問題、低賃金で働かされ続けるパート労働者の待遇問題、正社員ですら、定期昇給もなく、いつ首になるか分からない労働環境で働かされている問題などが山積しております。我が世の春を謳歌しているのは強者たる一部の大企業だけ、と言わざるを得ません。


 もとより、これらの責任の全てが小泉政治にあるというわけではありません。が、しかし、このような傾向が顕著になったのは明らかに小泉政治以降ということです。このような厳しい現実に目を背け、例えばインド洋の米艦に莫大な費用を費やして燃料補給する必要性がどこにあるというのでしょうか。

 孫子の曰う『ただ、民を是れ保ちて、而も、利の主に合うは、国の宝なり。』どころか、まさにその正反対の政治家が小泉元首相であったと言わざるを得ません。


(6)小泉元首相の流す涙で国のために散った特攻隊員は果たして浮ばれるのか

 そもそも、アメリカ一辺倒のポチ犬が(そのアメリカを倒すために已むに止まれぬ思いで散って逝った)特攻隊員の遺影の前で涙を流したからといって、はたまた、国士気取りで、靖国神社に参拝したからといって、特攻隊員が喜ぶとでも思っているのでしょうか。私に言わせれば全て茶番であり、演出されたパフォーマンス以外の何者でもありません。

 もし本当に彼に日本の国を思う志があるのなら、戦後、日本が放置したままの戦争責任の総括を国民に呼びかけ、それを踏まえて新たな日本の国づくりたるビジョンを首相として国民に提示すべきであったのです。

 巧妙なパフォーマンスの演出という特異な才能をその面で発揮すればそれこそ「近年稀に見る政治家」と謳われたことでしょう。日本の行く末を案じて出撃した特攻隊員達は、そのことを見届けて初めて安堵し浮ばれるのではないでしょうか。

 日本人は、あれだけ悲惨な未曽有の大敗北を喫したにも拘らず、何の反省も教訓も得ないまま経済発展への道をひた走りました。これが今日のビジョン無き、日本社会の閉塞感を生み出している原因であります。

 ついでに言えば、無節操な日本人のこの性質こそが、戦争の直接の被害者たる中国・韓国などをして「日本は信用できない」と言わしめている所以(ゆえん)なのです。

 にも拘らず、「アメリカとさえ巧くやっていればそれで善し」とする、それこそ(知行合一の本旨に反する)天意に背いた不適切な狭い了見を踏まえ、思慮なき乱暴な行動をとったのが小泉元首相だったのです。

 まさに戦争被害者の神経を逆なでするがごとく、国士気取りで靖国に参拝すれば、中・韓の外交関係が冷え切るのも蓋(けだ)し当然のことであります。

 そもそも問題なのは、首相就任前は一度も靖国詣でをしたことの無い彼が、なぜ首相在任中に限って靖国に参拝したがるのか、誰が見てもこれは一身に注目を集めるための話題づくり、もしくは政権のイメージアップ図るためのパフォーマンスと言わざるを得ません。靖国参拝をしたいのなら個人の資格で行くべきなのに敢てそうしない、そこにはやはりそれなりの理由あると見るのは当然のことです。

 そもそも思想そのものが極めて脆弱なのになぜかパフォーマンスだけは熱心にやる、そこを見透かされているゆえに、大人たる中国首脳などは小泉元首相を評して「子犬」などと揶揄するのであります。軽さでは定評のある彼のブッシュ米大統領さえも(小泉元首相の軽さには)本心では呆れているのではないでしょか。

 このような政治家の一体、どこが「近年稀に見る政治家」なのか私にはさっぱり分かりません。むしろ、その特異な才能と相俟って、独裁者の資質を備えた危険人物と解するのが適当であります。然るに昨今、このような人物の再登場を願う向きもあるやに聞き及びます。が、しかし、心ある日本人は小泉劇場のごとき衆愚政治は二度と見たくないと感じているのではないでしょうか。
posted by 孫子塾塾長 at 18:06| Comment(2) | TrackBack(0) | 時事評論
この記事へのコメント
理路整然とした内容ですけど心に響かない内容ですね。知識だけの理屈を捏ねても国民は動きません。内政に関して事細かな批判はあるでしょうけれど国民の代表としては世界を見据えて行動する首相が望ましいと思います。貴方が望む理想の聖人君子は理想であって現実的ではないです。世界で一番強い国はアメリカです。彼らの価値観は日本人には理解し難いエゴの塊です。それを突付けば武力行使を辞さない。そういう民族なんです。ではそういう民族とやっていくにはどのような方法が日本にとって得策でしょうか?一国の首相が靖国神社で参拝することは戦争で亡くなった多くの兵士や遺族にとっては嬉しいことでもありますよ。遺族の者として私は嬉しかったですね。例えそれがパフォーマンスであってもです。
Posted by ラストサムライ at 2008年01月15日 21:43
 文字数の関係から、このコメントに対する回答は「7 ラストサムライさまへの返信」の記事としてアップ致しました。
Posted by 管理人 at 2008年01月29日 11:22
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