2007年08月17日

4 戦略・戦術は極めて身近な問題である

 8月12日付け朝日新聞の「声」欄に「ダメな大人をバイトで見た」と題する投稿があった。本質を外れた薮睨(やぶにら)み的な思考パターンの横行する現代社会において、その矛盾を鋭く衝いた一言に我々は深く学ぶ必要がある。その内容を要約すれば次のようになる。

--------------------------------------------------------------------------

 僕はスーパーでアルバイトをしている。働いてお金がもらえるのは、お客様がモノを買ってくれるからなので、お客様が一番大切なのは分かっている。

 だが、会計のとき、一言もなく立ち去る人、ビニールのカゴを放置する人など、どうかと思う人は多い。後の人のことを考えられないのだ。こちらは買ってもらう側で、お客様がいないと店はやっていけない。文句を言うつもりはないが、カゴを返すことくらい自分でやってもらいたい。

 ほんの三、四歩で片付けることがことができるのに。そんなに難しいことだろうか? 時間がないのだろうか? 片付けない人はオジサンが多く、意外にも若い人は片付けるのである。

 「近ごろの若い者は」と、よく言われるが、実はオジサンたちの方かしっかりしていないのである。こんな小さなことが変えられれば、きっと世の中は大きく変わっていくと思うのだが…。

--------------------------------------------------------------------------

 投稿者は岐阜県の16歳・高校生の方であるが、若い世代の純粋な立場から見た何気ない一言は、いつしか世慣れし日々純粋さ失いつつあるオジサン達に「戦略・戦術とは何か」あるいは「人間の特長たる自覚的能動性とは何か」を再考するためのヒントを示唆するものである。私は次のように考えた。

 まず、このオジサン達のパターンは二つに分けて考えられる。一つは、自分と他人のために、使った物は「整理整頓」もしくは「必ず元の位置に戻す」のが人間の知恵である、と知ってはいるが実行できなかった場合、一つは、そのような知恵は端(はな)から念頭にない言わば野生児もしくは狼少女的タイプの場合である。


一、オジサン達の好きな戦略・戦術の観点から考えた場合

 ここでは、戦略とは、最も中心的な位置にくる目的、目標、そして方向づけといった根本レベルの考え方をいう。戦術とは、どのように具体的に戦略を達成してゆくかという手段方法をいう。

 つまり、この場合、自分のため、あるいは(次に使う)他人のためにビニールの買い物カゴを定位置に戻すという決心が戦略であり、その決心に従い、実践の場においてカゴを手に持って二、三歩、歩を進めるというのが戦術である。

 そのゆえに、そうすべきであるという「知恵」を知っていながら実践できなかったオジサンは、まさに「ほんの二、三歩」歩くことが不能という意味での戦術の失敗により、戦略を(ヤルからヤラナイへ)変えてしまったということである。逆に言えば、そもそも戦略という「根本の決心」が決まっていなかったとも言える。

 いわゆる戦略・戦術という言葉が日本社会で喧伝されてから久しい。とりわけオジサン達はこの言葉が好きなようであるが、その意味内容がどこまで理解されているのかは甚(はなは)だ疑わしい。大方は、新興宗教に心酔している信者のように、ただ呪文の如く唱えているに過ぎないようである。

 しかし、戦略は呪文の如く単に言葉を並べることではなく、(戦術による)行動の追求と積み重ねを絶対条件としているものゆえに現実を変革する力を持つのであり、その意味では、「買い物カゴ」のごとき極めて身近な問題から「戦略・戦術とは何か」の実際的感覚を養うことが肝要なのである。

 五体満足な普通のオジサンなら「ほんの二、三歩が歩けないから戦略を放棄した」などと言えないだろう。否、そんな馬鹿なことは幼稚園児でさえ言わないであろう。にもかかわらずできないのは何処に問題があるかと言うことである。それを考え、問題を解決する、つまり現実世界を変革するのが戦略・戦術を考えるということである。

 彼のメーテルリンクの「青い鳥」を引き合いに出すまでもなく、「幸福の青い鳥」は何処(どこ)か遠くにあるのではなく、自身の足下にあることを知るべきである。

 百歩譲って「買い物カゴ」の話はよしとしても、ことが「飲酒運転」の場合はどうであろうか。この場合の戦略・戦術の不一致は極めて重大な結末に至る可能性があることは論を待たない。しかして、そのメカニズムは「買い物カゴ」の場合と全く同じなのである。

 つまりは、「小さなことができない人間は、大きなこともできない」のであり、「一円を笑う人間は、一円に泣く」ということなのである。世に飲酒運転が尽きない所以(ゆえん)である。こんな人に限って「買い物カゴを戻すに必要な、ほんの二、三歩の時間」はたっぷりあるのである。無いとは言わせない。もし無いとすれば、それは税金の無駄遣いと同じく、単に使うところを間違えているに過ぎないのである。


二、「野生児もしくは狼少女」の観点から見た場合

 野生児も狼少女も、もとより人間社会でのマナーを知らないから、仮に「買い物カゴ」を放置しても、罪は無い。だからといって、知性を持ち、五体満足で長年人間社会で暮らしているオジサンがマナーを知らないからという理由で何をしてもいいという理屈にはならない。「お互い迷惑をかけない」「人の振り見て我が振り直す」のが社会を生きる知恵だからである。野生児や狼少女と同列に論ずる訳にはいかない。

 分からなければ素直に聞き、知らなければ自ら学ぶのが知性ある人間の姿である。毛沢東は「喜んで小学生に学べ」と論じている。そのような素直な心を失い、考えることを放棄し、独善的にただ欲望の充足だけに日々を送るのなら犬や猫と同じである。

 イスラム教の人間性弱説を引くまでもなくも、人間は尽きることのない欲望の塊であり、欲望の誘惑に弱いものである。ゆえに、欲望に身を委ねることは確かに快楽であるが、それが昂じて貪(むさぼ)りとなれば、満たされぬ苦しみが生じ、やがては欲望の奴隷となる。

 欲望充足の利と害を十分に知って、適切にこれに対処するのが「性善ではあるが性弱」たる人間の健気(けなげ)さというものである。

 とりわけ人間には、環境や条件に屈せず、ナニクソと発奮して主体的に行動して物事を変革して行く力がある。彼の毛沢東はこれこそが人と動物を区別する所以(ゆえん)のものとしてこれを自覚的能動性と名付けている。

 かつて筆者も、欲望の赴くままに、車の窓からゴミを平気で投げ捨てて恥とも思わない人間であった。その習慣を新婚早々の妻からたしなめられた。妻は中学校の教師であったからそうゆうことにはうるさいのである。筆者も初めは「細かいことを言うなあ、面倒くさいなあ」と思いながら塩らしくゴミを車内のゴミ袋に入れるようにしている内に、それがいつしか習慣となり、そのようにすることはとりわけ苦ではなくなった。

 そのような立場で、他人が車の窓から平気をゴミを投げ捨てる様を目にすると、いかにそれが顰蹙(ひんしゅく)を買う見苦しい行為であるかということが身に染みて分かった。極論すれば、クソ・小便を垂れ流して走っているに等しい行為に映ったのである。

 要するに、人間は欲望のままに行動することもできるが、欲望を制して、これを理性に従わせることもできるのである。いわゆる、理論と実践、戦略と戦術の関係はまさにその問題であることを理解する必要がある。

 ゆえに、ことは高々、「買い物カゴ」の後片付けをどうするか、という表面的問題に過ぎないが、その根本には、戦略と戦術、欲望のコントロール、自覚的能動性と現実の改革などの本質的問題が隠されているのである。

 たった一度の人生、深く味わって生きようとする向きの人は、このような些細な現実を直視して目を背けない心構えが肝要と考える次第である。

posted by 孫子塾塾長 at 11:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事評論
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。
この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/5058661

この記事へのトラックバック