2007年07月02日

2 孫子を学ぶ意義

一、根本的・本質的な問題解決を苦手とする日本人の民族的弱点

 一般的に、我が日本民族の優秀性には定評があり、ひとしく世界の認めるところであります。しかしそれは、いわゆる将帥(指導者・リーダー)としての優秀さではなく、どちらかと言えば、命ぜられたことには黙々と誠実に器用にこなす下士官・兵的資質において優れているという評価であります。

 言い換えれば、大所高所からの兵法的思考ができない、もしくは不得手とするのが日本民族の特徴であり、裏を返せば、まさにそれこそが世界に冠たる優秀民族の弱点・アキレス腱に他なりません。

 このゆえに、何かことが起きても、「誤魔化(ごまか)し」の別名である、いわゆる「和を以て貴しとなし」を得意とし、「まあまあ、なあなあ」で問題を先送りするだけという体質が日本社会の普遍的現象となるわけであります。

 誰かが、何とかしてくれるだろうと言うわけであります。国で言えば、積もり積もった国家財政の赤字、年金、道路公団問題、官僚による公金横領とでも言うべき目を覆うばかりのお手盛り行為等々、会社組織で言えば、彼の山一證券倒産に代表される典型的な問題の先送り等々、枚挙に暇がありません。

 先輩(先代)たちによる、このデタラメのツケが溜まった結果として様々な不祥事が後輩(後代)たちのある時期に噴出するという構造が日本の社会の実態と言わざるを得ません。


 かつて、日本軍と直接戦った経験のあるアメリカ軍やイギリス軍、あるいはロシア軍の将軍たちの殆んど一致した意見として、「日本陸軍の下士官・兵は優秀だが、将校は凡庸で、特に上に行くほど愚鈍だ」と言われています。

 とりわけマッカーサーは、「日本の高級将校の昇進は(戦争指揮の上手さ・巧みさの基準ではなく)単に年次による順送り人事によるものである。従って、日本の下士官・兵は強いが、日本の軍中央部は必ずしも恐れるに足りない」と断じています。

 つまるところ、日本の高級将校たちは、戦場における指揮能力以前の問題として、戦争をするためには絶対に必要な条件、すなわち孫子の曰う「彼を知り己を知る」という兵法的思考力、あるいは戦略の構想力が決定的に欠けているということです。

 つまり、日本人は、命ぜられたことを誠実に器用にこなす下士官・兵的な資質には優れていても、指導者・リーダーとしての資質には見るべきものがない、ゆえに恐れるに足らず、というわけであります。


二、世界共通の大陸的兵法思考が日本で発達しなかった理由

 古来、異民族同士が血で血を洗う激しい興亡を繰り返してきたユーラシア大陸に比べて日本は周辺を海で囲まれた島国です。この海が自然の防壁をなしていたゆえに、近代まで日本が異国・異民族と戦った歴史はわずか三回(白村江の戦い・蒙古襲来・秀吉の朝鮮出兵)だけであります。

 言い換えれば、殺戮に継ぐ殺戮の殲滅戦を常とし、国家や民族の存亡を賭けた戦いが当たり前の中国や西欧文明の歴史とは「月とスッポン」の違いがあり、むしろ異民族との戦争は未経験に等しいと言わざるを得ません。裏を返せば、複数の文化をまたいで物事を判断しなければならないような厳しい環境で揉まれてこなかったということであります。


 要するに、外敵の侵入する恐れのない平和な島国にあって風俗・習慣・言語・思考を同じくする単一民族同士が、紛争解決の落し所を模索しつつ「まあまあ・なあなあ」の馴れ合いで持ちつ持たれつの関係を築いてきたというところであります。グローバルスタンダードとでもいうべき大陸的兵法思考が日本で発達しなかった所以(ゆえん)であります。

 つまり日本人は「何が正しく、何が間違っているのか」という原理・原則で動くのではなく、まさに「和を以て貴しとなす」に象徴されるがごとく、日本人特有のあいまい・馴れ合いの情緒的大勢追随思考で動くということであり、そのゆえに時としてマインド・コントロールされ、思考停止のまま、お上(組織の上位者)の権威に盲目的に服従するという民族的欠陥が露呈されるのであります。


 孫子の曰う『彼を知り己を知れば、百戦殆うからず。』<第三篇 謀攻>とはまさに上記のごとき状況を総括して曰うものであります。つまり、物事は、一面的・表面的・観念的に見るのではなく、全面的・本質的に見なければならないことを曰うものであります。

 あの未曽有(みぞう)の大敗北を喫した太平洋戦争を見ても、日本人は「彼を知らず、己を知らざる者」であったと言わざるを得ない所以(ゆえん)であります。


三、かつてのサムライ達の根本思想は大陸的兵法思考にあった

 ところで、原理主義と言えば、日本では彼のイスラム原理主義を想起して何か恐ろしげでえたいの知れぬものと眉をひそめる向きも多いようですが、それは日本人の勝手な思い込みに過ぎません。

 基本的には、朝鮮・中国を始め、中近東・西洋の大陸諸国はすべて大なり小なりの原理主義が基調であることは常識です。

 因みに、現代日本人が憧憬して止まないかつてのサムライ達は、武人の必読書たる孫子を愛読し、人間学の書たる四書五経を学び、その教えに従って行動したのです。 ここで想起すべき重要な点は、これらの書物は島国たる日本の産物ではなく、まさに典型的な大陸的発想の国たる中国で生まれた思想であるということです。

 言い換えれば、サムライ達の根底には戦いに関する確たる原理・原則が貫かれていたのであり、その意味ではまさしく大陸的発想たる原理主義者であったわけです。それによって培われた素養が、例えば明治維新を支えた大きな原動力となり、世界の列強と伍して堂々と渡り合える素地を育(はぐく)んだのです。


 日本人はまさにこのような良き伝統こそ、真に継承すべきであります。あたかも浮き草のごとく、情緒的な大勢の趨くままに流されるのは確かに心地良いことかも知れませんが、日本民族の将来、そして我々一人一人の将来を見据えれば不幸の源と言わざるを得ないのであります。


 世界は今、グローバリゼーションの大潮流に覆われて激烈な大競争の時代を迎え、日本も明治維新・戦後に次ぐ大きなうねりの中にあります。このような危急存亡の秋にあって独り日本のみが特異な「あいまい・馴れ合い」思考に終始することは(楽で心地よいことことかもしれませんが)決して得策とは言えません。


四、日本民族に今、最も求められている思想は孫子である。

 世に「助長補短策」という言葉があります。長所を助けて短所を補う策という意味ですが、元来、手先が器用で勤勉な日本人にさらに大陸的発想たる兵法的思考が加わればまさに「鬼に金棒」ということになります。

 そのゆえに、今、日本人が焦眉の急として学ぶべきものは大陸的兵法思考(言い換えれば分析的思考・弁証法的思考)の代表たる孫子であると言わざるを得ません。

 皆がやれば自分もやる、皆がやらなければ自分もやらないというのが日本人の特徴であります。しかし、真の自己変革のためには、そのようなあいまい、かつ情緒的な思考法は間違いであると気付くことがまず必要であります。何が正しく、何が正しくないか、そうゆう普遍的な原理・原則をもって思考すべきことが重要であります。

 孫子の原文は、文字数で言えば僅か六千余文字、原稿用紙にすると十五〜六枚程度でありますが、その行間には、まさに戦いに関するエッセンスのすべてが凝縮されている優れものです。そのゆえにこそ、読み手の力量に応じて小さく打てば小さく響き、大きく打てばどこまでも大きく響くというところに特長があります。

 因みに、彼の毛沢東は 「孫子には唯物論も弁証法もある」との認識を示しております。彼の武田信玄は、孫子のバックボーンたる分析的思考・弁証法的思考が苛烈な戦国の世を生き抜く知恵であることを悟ったがゆえに、孫子に傾倒したのであります。

 この、言わば兵法的思考をいかに読み解き、いかに活用するかが、孫子を学ぶ醍醐味であり、孫子が今日もなお読み継がれている所以(ゆえん)であります。

posted by 孫子塾塾長 at 11:00| Comment(1) | TrackBack(0) | 孫子
この記事へのコメント
先生のブログ、大変興味不覚読ませていただいています。私も今仕事においていろいろな困難、壁にぶつかっています。 この困難を解決し、自分のやるべきことに集中できる、強さ、力を身につけることが、今の私にとってはとても大切なのですが、先生のおっしゃることには大変説得力があり、なるほど、と思うことがたくさんあり、とるに足らない私の日常にも応用していけそうですので、先生とこのブログにはとても感謝しております。
Posted by 生野    at 2007年07月06日 00:22
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