2008年07月17日

14 「一漢文学者」さまのコメントにお答えして

 当ブログの記事について、6月17日、「一漢文学者」さまから下記のコメントを頂きました。有難うございます。文字数の関係から、返信はこちらの記事としてアップさせて頂きました。

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 孫子曰く「兵は奇術」との言葉は、いかが解釈されますか。私は、ラストサムライさんと似た解釈であります。つまりは奇を正当に行使しうる超法規的状態であるから、王道に反する策を行使しても良いと。いわゆる覇術。

 そもそも七武経書と五経はその射程範囲を異にするものと存じます。「如何するか」「如何にあるべきか」の差であります。「如何にするか」が問われる状態は政体として末期であるのです。西洋の政体循環論ではないが、無為→大同→小康→刑罰があります。(前から二つ三つは礼楽政治)

 上記の政体で政治そのものが問われるのであれば「五経」、もし非常の時、侵略、内乱が起れば「七武経書」が適する。いかがでしょうか。当方は東洋思想の中で孫子は末端の学「数」「因」学として敬遠しておるものです。

 経学としていかに活用できるか、貴殿の孫子の講義に注目するところであります。

 もうひとつ、靖国について貴殿のお考えと異にします。諸方に軋轢を無くすことがその眼前に置かれておるのですが、なるほどそれは支那と商業をしたい経団連の皆様と同じくして功利的な意見であります。公に殉じられた方々に対し、公でお祭り申し上げるのが本来ではないでしょうか。

 最後になります。ともに東洋学に依拠するものとして申し上げれば、能力云々、知性云々のご発言にはいささか眉を顰めます。我々一人ひとりに備わる良知が傷つくだけであります。

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 余りにも低俗的な内容なのでお答えする気もしませんでしたが、若干、時間ができましたので次のように回答しておきます。


一、日本の歴史をキチンと学ばれてはいかがでしょうか

 恐らく、「一漢文学者」さまは中国もしくは朝鮮の方かと思われますので、まず日本の事情につき、次の二点を明らかにしておきます。

 一つは、源頼朝の鎌倉幕府以来、明治維新に至るまでの七百年間、日本は、いわゆる武家政権、即ち武士の支配した時代であったこと。一つは、(かつての中国の士太夫や朝鮮の両班のごとく)日本にはいわゆる「科挙」の制度が無かったことです。

 このゆえに、日本の場合は、大道(根幹)は兵法であって、小道(枝葉)は儒学であるというのが一般的常識であります。言い換えれば、武家政権の支配思想は兵法であり、「一漢文学者」さまの言われているような儒教に依拠する「礼楽政治」ではないと言うことです。

 とりわけ、兵法は、例えば「お金」のごとくいわゆる中性的な性格にその特色がありますから、世に氾濫する様々な「色付き」の思想、例えば仏教、神道、キリスト教、儒教、その他のイデオロギーなどを超越してこれらを領導する思想と成り得たのです。

 因みに、彼の武田信玄を兵法の師と仰ぐ徳川家康は、慶長11年、「孫子」を首位におく官版「武経七書」(孫子・呉子・司馬法・尉繚子・三略・六韜・李衛公問対)を日本で初めて刊行しています。

 江戸時代においては、確かに儒教の興隆はありましたが、それは単に幕藩体制維持のための道徳教育の道具として利用されたに過ぎないのであり、歴史的に見ても、江戸時代における儒学者の立場は、「役立たず者」的意識の強い少数者であったことは確かであります。

 そのゆえに、「一漢文学者」さまのお国たる中国や朝鮮のことは知らず、日本の場合、大道(根幹)は兵法であって、小道(枝葉)は儒学であると言わざるを得ないのです。

 つまり、貴方の言われている『当方は東洋思想の中で孫子は末端の学「数」「因」学として敬遠しておるものです』との実に尊大なご主張は、残念ながら、日本の歴史的事実には合致しておりません。当て嵌まらないということです。まさに儒学者特有の極めて視野狭窄的な物の見方、見当外れな見解の典型と言うべきものであります。


二、そもそも平時も戦時も一つの物の両面であって分断すべきものではありません

 貴方は、『上記の政体で政治そのものが問われるのであれば「五経」、もし非常の時、侵略、内乱が起れば「七武経書」が適する。如何でしょうか』と実に傾聴に値する見解を述べておられますが、これこそまさに、儒学者特有の極めて狭い料簡による固定的、表面的、一面的な物の見方と言わざるを得ません。


 そもそも『天下安(やす)しと雖(いえど)も、戦いを忘るれば必ず危うし』<司馬法>は、古来、国家護持の要諦とされております。


 而るに貴方は『如何にあるべきか』の平時は、礼楽政治をもってし、いよいよ政体も末期を迎え侵略や内乱が頻発する状態たる『如何にするか』の非常時は、『王道に反するゆえに敬遠する末端の学』たる兵法をもってすると言われるが、一体どこでその両者を別なものとして区別されるのか伏してお伺いしたいところであります。

 因みに、孔子は身の丈、九尺六寸(216センチ)の偉丈夫で、とりわけ馬術や弓術に優れ、その力は国門のかんぬき挙げるほどの武人であったことは史書の示す通りです。

 ただ彼は、士君子の教育者であり、徳治主義による政治を目指していたため軽々しく兵についた語ることを避けていただけであります。しかし、その一方で、民衆の軍事教練を重んじ、その民衆を指導する士君子については、文武両面にわたる武人教育を施していたことは論を俟ちません。

 その一個の人間たる孔子をどのようにして武人と文人の二つに分けて区別することができるのでしょうか。まさか孔子を殺しその死体を「腑分け」して区別するとでも言うのでしょうか。

 否、そもそも二つに分ける意義は何なのかということです。言い換えれば、儒学者の根底には、彼らが観念的に描くところの「王道たるもの、斯くあれかし」の空想的欲望があり、このゆえに、上記の「腑分け」は、ただ単にこの欲望を満足させたいがためのものと解せざるを得ません。

 そのような無駄話を盲信し、国家を滅亡させた好例が近代で言えば、「一漢文学者」さまのお国たる清朝であり李氏朝鮮なのではないでしょうか。

 彼の国が儒学者の説に忠実であったのは善しとするも、その結果、『天下安(やす)しと雖(いえど)も、戦いを忘るれば必ず危うし』<司馬法>の典型例として滅亡したことも事実であります。

 言い換えれば、まさに「陣に臨みて槍を磨く(平素から準備せずに、その直前になって慌てて対応する意)」の愚行と言わざるを得ません。あたかも、「一漢文学者」さまの論調のごとく、確かに虚仮脅(こけおど)しとしては光る(少しは役に立つ意)ことはありましょうが、本質的にはクソの役にも立たないということです。


 「一漢文学者」のお説が真実ならば、なぜ貴方の母国たる中国人民共和国は、戦後六十有余年を経た今日、本来の王道政治・礼楽政治に徹し中華人民解放軍を解散しないのか実に解せません。

 それはまさに彼らが中華人民共和国成立以前の悲惨かつ過酷な近代中国の歴史を知る者であり、その歴史に謙虚に学ぶ者だからであります。逆に言えば「武」を捨てたらどうなるのか身に沁みて感じているのです。

 その点、武の国たる幕末日本の場合は、表向きは武家政権の本体を巧みにカモフラージュしていても、ことの本質を決して見失わなかったがゆえに、今日、G8として世界に名を成している所以(ゆえん)であります。


三、政治家個人の私利私欲のために天下の政治を利用するのは国民の敵である

 日本の現在の社会情勢を見るに、半世紀以上の長きに亘って日本を支配してきた言わば自民幕藩体制が急速に衰えつつあり、政権交代への予兆を感じさせる現象があちこちで噴出し初めております。その他諸々の変動要因を加味すれば、現在の日本は、まさに天下大乱の兆しが大であると言えます。

 大乱と言えば、かつて戦国時代到来の契機となった応仁の乱がありました。この乱のそもそもは、時の為政者、有力者達がそれぞれ自分の私利私欲のために立ち回ったことに起因します。

 もとより、彼らにはそれが大乱に続く道筋であるとは想像だにしていなかったことでしょう。しかし、その何気ない私利私欲に基づく軽率な行動がやがて燎原の火のごとき戦火を生み、その後、一世紀にも及ぶ大乱を招来し、当時の大衆や社会を塗炭の苦しみに追いやったのです。

 言い換えれば、この応仁の乱は、いやしくも一国の権力者たる者、個人の私利私欲で政治を軽率に行ってはならないという後世への貴重な教訓を残したのです。

 而(しか)るに、彼の小泉元首相の政治的所業は、まさに個人の(政治家個人としての欲望充足という意味での)私利私欲のために政治を行った典型例であります。

 今日、社会問題となっている、例えば、郵政民営化がもたらした地域の崩壊や地方切捨ての格差問題、社会問題と化した派遣労働者問題、雇用・医療・社会福祉問題などの諸悪の根源は全て小泉元首相に起因するといっても過言ではありません。

 そもそも、自民党幕藩体制が揺らいでいる言わば「幕末」ゆえに、奇人変人たる小泉元首相のごとき政治家が登用されたのであり、通常であれば有り得ないことであります。

 逆に言えば、自民党幕藩体制下の最後の切り札たる彼に課せられた最大の使命は「人気取り」なのです。それを演出できる最適の人材として彼に白羽の矢が当たったということなのです。

 その意味では、まさに自民党及び小泉元首相は党利党略・私利私欲のために天下の政治を利用したということであります。そのような子供騙しに乗せられた有権者の無知も哀れでありますが、その選択の結果は紛れも無い客観的事実として直接、国民生活に影響を与えます。

 論より証拠、その因果の報いを受けて今の日本社会はどうなっているのでしょうか。

 最近、あちこちで「あの小泉には完全に騙された」「もう自民党には絶対に入れない」という声を多く聞きます。私に言わせれば「今頃何を言うのか、騙されたヤツが悪いのだ」ということでありますが、ともあれ、「一将、功なりて万骨枯る」とはまさにこのことであります。

 「ラストサムライ」さまがその小泉元首相を評して「近年稀に見る偉大な政治家だ」と言われるから、それは違うと申し上げたのです。

 その趣旨は、彼のライオンヘアーの形や表面ばかりに目を奪われるのではなく、天下の権力者が、天下のために政治を行わないで、あくまでも個人の「人気取り」という完全な私利私欲のために、天下のための政治を利用するからそれがいけないと言うのです。

 もとより、「ラストサムライ」さまは、個人の専門的能力という意味では優れた資質をお持ちの方でありましょう。しかし、こと物事の本質を洞察するという能力、言い換えれば「汝自身を知れ」もしくは「己を知る」という能力において極端に無知であるから、その意味において「貴方はバカだ」と申し上げたのです。これは今日の偏差値優先知識教育の最大の弊害であります。

 そう言われてもなお気が付かない人間、その意味すらも分らない人間、曰わんや、その本質も弁(わきま)えずに表面的な言葉尻を捉まえて『能力云々、知性云々のご発言にはいささか眉を顰めます。我々一人ひとりに備わる良知が傷つくだけであります』などと言われている方もまさに同類の思考パターンと言わざるを得ません。

 今日、日本社会の混乱を益々増幅させている最も唾棄すべきものが「主体者不明の評論家的知識偏重型」思考であることは論を俟ちません。


四、国に殉じた人々を国家が祀るのは当然のことである

 「一漢文学者」さまは、『公に殉じられた方々に対し、公でお祭り申し上げるのが本来ではないでしょうか』などとしたり顔をされておりますが、こんなことは当然のことであり誰もそのことに反対はしていません。

 私が反対しているのは、そのような天下のことを、天下の権力者が「人気取り」という一個の私利私欲のために利用するな、ということです。その意図が余りにも見え見えであり、その「志」が余りにも卑しいから言うのであります。


 なお、貴方は『経学として(孫子が)いかに活用できるか貴殿の孫子の講義に注目するところであります』と書かれておりますが、これについては既に下記の弊塾サイトで論じております。


孫子に学ぶ脳力開発と情勢判断の方法
http://sonshi.jp/


※ 上記サイト内「孫子談義」の下記の項をご参照ください。

(1)日用の学として兵法を学ぶ意義(08/4/3の項)

(2)兵法的思考力の養成・その一(08/5/15の項)

(3)兵法的思考力の養成・その二(08/5/19の項)



四、「戦略思考のできる日本人育成塾」について

 日本人の一般的傾向として、日々の専門的業務という意味では極めて高い能力を発揮されるものの、こと戦略的思考という意味においては、残念ながら、些(いささ)か欠けているものがあると言わざるを得ません。

 その意味で孫子塾では、「戦略思考ができる日本人育成塾」と題するセミナーを六ヶ月をワンクールとして月二回のペースで開講しております。現在、第一期生として五名の方が参加されております。

 日本は今、好むと好まざるとに関わらず、まさに第二の黒船とでもいうべきグローバル化の大変動に直面しています。

 日本人がこの激動の時代を生き抜くためには、平安末期から明治維新に至るまで日本を領導してきたいわゆる「武士の思想」を戦略思考の原点と捉え、真摯に学び、自己変革する必要がある、というのがその趣旨であります。

 現在、第二期生を募集しております。募集人数は若干名です。興味のある方はメールにてお問合せください。
posted by 孫子塾塾長 at 12:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 孫子
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