2008年05月31日

10 ラストサムライさまへの返信(総括その一)

 当ブログへのラストサムライさまのコメント(とりわけ平成20年3月1日以降)につきましては、事情により十分な返信ができませんでした。そのゆえに今回「総括その一」と題しまして次のように纏(まと)めて返信しておきます。

 まず、3月1日のコメントの内容は下記の通りです。

-------------------------------------------------------------------------
 何もお返事が無いとこを見ると、無視してるのか呆れて物が言えないと思っているのでしょう。それは貴方が質問したことに私が答えないからだと思います。

 しかし貴方が質問してる内容は各論であって総論ではないです。私は、何故そのような各論に答えないのか? それは余り意味がない内容だからです。何故、意味がないのか。どんな政策にも必ず問題が起きるからです。そうなると議論する為に議論をする無限ループになり本質からズレルことが明白だからです。前首相については其々の評価があるかと思います。

 しかし貴方が書いている内容を吟味すると書かれてることは、前首相や私や社会に対する批判ばかりです。

 孫子は徹底的現実主義者であり兵法家であって理想主義者でもなく思想家でもないです。貴方の反論はまるで理想なる主君を求め諸国を彷徨っている孔子のようであります。

 先ず兵法とは今ある現実に対してどのような戦術や戦略を使って今ある現状を打開するのか、またどのように社会的優位性を保つのか身を守る為にはどのように行動するのかなどの行動哲学を意味します。

 その兵法を勝手な解釈によって思想や理想に使う物ではないということです。どうも貴方の書かれてる事は、「論語」を読んでる感じがします。孫子、孫子と叫ばれてますが、孔子の間違いではないですか?
--------------------------------------------------------------------------

 これについての管理人のコメントは次の通りです。

--------------------------------------------------------------------------

(1)各論が論じられない、と言うのであれば、総論もまた論ずべきではない

 なるほど、確かに、いみじくも御自身で御指摘されているように(余りにも意味不明の論理に)まさに呆れ果てて物が言えない状態でした。

 そのゆえに私は、『ラストサムライさまは、兵法というものが全く分っておられません。それではお尋ねしますが、(多分答えは返ってこないでしょうが)孫子と孔子の本質的な違いはどこにあるのでしょか。明確にお答え下さい。これに答えられない以上、貴方に兵法を論ずる資格はありせん』と申し上げたのです。

 その答えについては、追々、説明することに致しますが、それにしても驚いたのは、『総論は述べるが各論は述べないし、答えない。なぜならば、それは余り意味がないからである』の下りです。

 これでは、まさにラストサムライは「人間はどこまで最低になれるか」の典型的な人物と評せざるを得ません。言い換えれば、人間としての頭の使い方を間違えているということであります。

 例えば、過去のコメントを見るとラストサムライさまは十分に各論を語っておられます。とりわけ、平成19年12月30日のコメントには『国民として見るのではなく自身が政治家だとしてどのように国を改革し纏めるのが必要なのかを考えると小泉前首相は近年稀に見る政治家だと思います』とまであります。

 通常、これを読めば、ラストサムライさまが具体的な各論を踏まえつつ、その総論として『小泉前首相は近年稀に見る政治家だ』と述べておられることは明白です。

 逆に言えば、その総論が適切か否かを説明するために具体的な各論が存在するのであります。然(しか)らずんば、総論を論ずる意味はありません。そのようなものは、まさに彼の毛沢東の曰う「調査なければ発言権なし』のごときものであり、印象や願望だけで口から出まかせに物を言うのは世間の人を混乱させるだけであるから止めなさい、ということになります。

 残念ながらラストサムライさまは、(禽獣ならぬ)言葉を発する人間として心得るべき最低限の矜持(ブライド)を喪失しておられます。もし、人間が言いたい放題、口から出まかせに言辞を弄すれば一体、この社会はどうなるのでしょか。

 インターネットの2チャンネルなどでは、まさに悪口雑言の言いたい放題、言い換えれば「人間はどこまで最低になれるのか」の壮大な実験が行われております。もしこれが現実世界のことであれば人間の日常社会は確実に破壊されます。想像するまでもありません。

 なぜ、悪口雑言の言い合いになるかと言えば理屈は簡単です。物事には必ず両面があるため、各々がその拠って立つ立場も弁(わきま)えずに自己の信ずるところを主張し合えば自ずから感情が激し、その内容がエスカレートしていくのは理の当然です。

 ラストサムライさまの言われている「私は、何故そのような各論に答えないのか? それは余り意味がない内容だからです。何故、意味がないのか。どんな政策にも必ず問題が起きるからです。そうなると議論する為に議論をする無限ループになり本質からズレルことが明白だからです」はまさにその意味であると解します。

 そもそも、通常の人間はそのような2チャンネルなどに書き込みはしないし不毛の論争もしません。言われるように、まさに意味が無いからです。

 しかし、当ブログはそのようなバーチャルにして非常識な2チャンネルではありません。ましてやことは(スポーツ・娯楽・レジャー・歌舞音曲の類ではなく)我々の生活に直結する政治を論じているのです。もとより立場や見解は相違するでしょう、いや相違するからこそ真摯に総論・各論を語るべきものと私は思います。

 その際のキーワードは、まず各々の拠って立つ立場を明確にすること、そして何よりも我々国民の現実生活はどのように変化したのかの具体的事実を踏まえて検証するということであります。

 そのゆえに、もしラストサムライがそのようなバーチャル世界の御経験をもとに、「総論は語るが各論は語らない」と考えておられるのならば、まさにそれは「蛇に咬まれて(道端に落ちている)朽ちた縄に怯える」がごとき誤った考え方であると言わざるを得ないのであります。

 もっとも最近はこのようなバーチャル世界と現実との区別がつけられない人が増大傾向にあるようであり、まさにバーチャルなゲームの世界さながらの異常な事件を起こしてマスコミネタになる場合が見受けられます。現実世界とバーチャルな世界は明確に区別することが肝要と老婆心ながらラストサムライさまに申し上げます。


 ついでに言えば、禅の言葉に「脚下を照顧せよ」があります。まず「足元に用心せよ」の意です。当たり前のことは余りに当たり前過ぎるがゆえに、人間の脳はついそれを意識から忘却し勝ちであります。これは人間の脳の盲点の一つです。残念ながら、ラストサムライさまはこの基本的な御認識が欠けておられるように思います。


 一般的に、人の一定の思想というものを分類すれば、まずタイトルがあり、そのタイトルを構成する大項目、さらに中項目、小項目に分けられ、各々に「見出し」が付されます。そして小項目にはその内容を具体的かつ詳細に説明するためのいわゆる本文が付されます。逆に言えば、本文を含めたこの体系の全体がその人の一つの思想内容なのです。

 孫子で言えば、「孫子兵法」というタイトルがあり、そのタイトルは十三の篇(大項目に相当)で構成され、各々見出しが付されます。例えば、第十三篇の場合は「用間」の見出しが付され、さらに中項目、そして小項目に分類され、小項目にはその内容を具体的に説明するための本文が付されます。

 このゆえに、総論だけ論じて各論を語らないのは、言わばタイトルと目次だけで本文の欠落した本を販売しているようなものであります。通常ではこのような本を買う人はおりません。

 ラストサムライさまの言われている「総論は語るが各論は語らない」ということは、まさに「名札はあるが中味が全く無い」ことと同義であります。通常の考え方で言えば、本文があるから目次があり、目次があるから本文があるのです。つまり、本文と目次は一対(セット)なのであり、分けて考えるべきものではないのです。

 然(しか)らずんばそれは、包装されてはいるが中味の無い贈答品、もしくは資料が何もないのに索引・名札のみが貼り付けられている整理棚のごときものとの謗(そし)りを免れません。

 その意味では、「総論は語るが各論は語らない」の論理はまさに事の道理に反した偏頗(へんぱ)にして摩訶不思議な発想と言わざるを得ません。これで物を考えた積りになるのは頭の使い方に関する大いなる錯覚であると思います。例えば、いくら優秀な車に乗っていても、肝心の運転(頭の使い方)が下手くそであれば折角の車も十分には乗りこなせないというものです。


(2)改悪という名の「改革」に終始した小泉劇場は国民に何をもたらしたのか

 今の日本社会を按ずるに、まさに、未来に希望が持てない、逃げ場の無い閉塞感が漂っていると言わざる得ません。とりわけ、小泉内閣は、「痛みなければ改革なし」などの虚言を弄(ろう)し、毎年、2200億円づつ社会保障費を減らすという政策を実施しましたが、まさにこれは悪名高き後期高齢者医療制度に代表されるがごとく、今や、日本社会の医療や介護、福祉のシステムを破綻寸前にまで追い込んでおります。

 しかし、その一方で米軍在沖縄海兵隊のためなら2000億円以上のグアム移転費、いわゆる「思いやり予算」は惜しげもなく支給するという。通常、「思いやり」とは弱者に対するもののはずですがこれではまさに本末転倒です。ゆえに「強きを助け、弱きを挫く」のが小泉内閣の本性であったと言わざるを得ません。

 要するに、小泉内閣の構造改革の特徴は、問題解決の真の核心ではあるが、そのゆえに非常に強力な抵抗が予想されるところは避けて通り、抵抗する力が弱く組し易いところを予算削減の対象とし、情け容赦なくむしりとる非情さにあります(なぜそうなるのかの理由については後述します)。

 かつ、その改革の内容たるや、キチンとした将来的ビジョンを踏まえてのものではなく、始めに削減数値目標ありきの小手先だけ、その場しのぎのお粗末なものであったことは、今日、広く知れ渡っているところであります。これが郵政解散・郵政選挙の名の下に行われた小泉構造改革の実態であり、まさに選挙民を愚弄するものと言わざるを得ません。


 人間の脳は、(上記したごとく)余りに当たり前のことについては「効率」という側面から余り意識を用いません。その意味で、通常「改革」と言えば、あくまでも「良い方向」に改め変えることであると信じて疑いません。つまり、「悪い方向」に改め変える意には解しないのが通常であります。

 もし仮に、故事に曰う「朝三暮四」のごとき理屈(詐術を用いて人を愚弄する意)を用いて「改悪」を「改革」と言いくるめたとしたらこれは由々しき問題と言わざるを得ません。残念ながら小泉構造改革の場合は、悪意か偶然かはともかくとしても後者の意の「改革」であったことは否めません。

 例えば、「小泉改革」の目玉たる労働市場の規制緩和策がもたらしたものはまさに「働くルールの破壊」と言わざるを得ません。

 急速に膨らんだ悲惨な日雇い派遣労働者、二百万とも三百万人ともいわれるワーキング・プア、弱者・地方切捨てに起因する社会的格差の拡大、低賃金で働かされ続けるパート労働者、正社員にしても益々少数精鋭化されて長時間労働を強いられ、いわゆる過労死の危険性に日々さらされているというのが実態です。


 つまり、小泉・竹中ラインは(社会の上層部たる)大企業や経営者・株主を優遇する政策を取れば世界的競争に打ち勝って必ずや好況が招来される、さすればその好況の恩恵は必ずや社会の下層部にも行き渡りこれを潤すはずであると想定したのであります。

 その意味では確かに景気は好転いたしましが、大企業はその好況で得た利益を組織的に守り、ついぞ社会の下層部にはその恩恵は行き渡りませんでした。給与所得者の五人に一人が生活保護基準の目安である年収200万円以下であるという問題は、まさにそのことを如実に示すものであります。つまり、小泉・竹中ラインの想定は見事に外れてしまったということです。

 パフォーマンスのみに終始した小泉構造改革という「バカ騒ぎ」の後に残されたものが、未来に希望が持てない、逃げ場の無い閉塞感漂う今日の社会的風潮と言わざるを得ません。今日、「諸悪の根源は小泉にあり」「小泉・竹中は火あぶりの刑だ」の論調が充満する所以(ゆえん)であります。

 このような世相を反映してか、最近の各紙の読者投書欄には、「朝刊に小泉元首相のインタビュー記事が載っていたが、はっきり言ってもう小泉さんの顔は見たくない」「小泉劇場再びなどとんでもない」「とにかく詭弁に満ちた小泉劇場はもうたくさんだ」「郵政民営化に賛成して入れた一票が、なぜそれとは無関係の衆院再議決に使われるのか納得できない」「国民を不安定な状況に追い込んだだけの郵政選挙とは一体、何なのかを冷静に検証する必要がある」などの声が散見されます。


(3)いわゆる小泉劇場を論評する立場について

 物事には必ず両面があるゆえに、いわゆる小泉劇場に関しても賛否両論があるのは当然です。しかし、問題は小泉元首相が「自民党をぶっ壊す」「構造改革を断行し日本を変える」と虚言を吐き、これ見よがしの派手なパフォーマンスを繰り返して、マスコミを巻き込み大衆を煽(あお)り「小泉劇場」を演出したことであります。

 これを例えば、安部前首相や福田総理がいくら声高に「自民党をぶっ壊す」と叫んで見ても誰も本気にしないでしょう。彼らはどこから見ても体制派の人間にしか映らないのであり、その意味での彼らの言動はまさに人畜無害なのであります。

 しかし、あたかも革命家気取りで大言壮語し「いかにも何かやってくれそうだ」と大衆に大きな夢と希望を抱かせただけで、結局は、「影」の部分だけを大きく残して竜頭蛇尾と化した小泉劇場の場合は、人畜無害どころか明らかに日本国民に有害な存在と言わざるを得ないのであります。

 つまり、いやしくも一国の首相たる者が、詐欺的な虚言とパフォーマンスをもって、禁じ手のいわゆる衆愚政治を展開したこと、かつ真の意味での「聖域なき構造改革」には全く手を付けずに、その裏返しとしての「やった振りをする」「見せかけ」だけの構造改革ならぬ構造「改悪」の結果として、今日、様々な社会的な格差が噴出し、益々増大しつつあるということであります。

 半世紀以上続いた自民党の一党独裁が良いのか、はたまた「官僚内閣制」とも謂われる官僚・族議員主導の政治が良いのか、と問われれば、(一般的には)民主主義の根幹たる二大政党制が良いし、それによって選出された政治家による政治家主導の政治が良いに決まっています。

 然(しか)りとして、その場合、最も肝要なことは、そのような言わば「革命」に匹敵するがごとき政治運動が果たして体制内にいる人間に実現可能なことなのか、という問題の根本的かつ本質的な検討であります。

 近いところでは、日本の明治維新、敗戦後の民主主義国家への移行、あるいは毛沢東による中国革命の歴史を繙(ひもと)くまでもなく、通常の知性ではそれは不可能だと断ぜざるを得ないのであります。

 早い話が、徳川将軍の膝下にいる幕臣が将軍の命を受け、幕政改革にいくら献身的に取り組んでも、つまるところ「将軍様、民・百姓のために思い切って幕藩体制を解体しましょう。それが最も根本的な改革です」などと言えるはずが無いということです(ことは北朝鮮の場合も全く同じです)。

 そのゆえに明治維新までの幕政改革は、当然のことながら幕藩体制維持の至上命題のもと、結局は小手先のお茶を濁すものに終始したのであります。小泉構造改革もまた然(しか)りであり例外たり得ません(自民党という一党独裁の体制内にいながらそれをぶっ壊すことなど冗談でもでき得ようはずがないのです)。

 通常の知性があれば、このようなことは誰しも分ることであり、まさに言わずもがなのことであります。しかし、問題は、この平成の御世においてはまさにこの当たり前の論理を見事に忘却してしまった選挙民が多かったということです。およそバカげた小泉劇場がいかにも救世主ごとく熱狂的に歓迎されたのがその証左です。


 このタイプには次のような立場があります。第一は、端(はな)から体制擁護で自民党による一党独裁政治を望んでいる立場、第二は民主主義の根幹たる二大政党移行が望ましいとするが、それを実現する者こそが小泉元首相その人信じて疑わない立場、第三は、自民党の一党独裁でも、二大政党でもどちらでも良いが、とにかく、小泉元首相は格好よくて「理想の人」だと恋焦がれる立場であります。

 ラストサムライさまが上記いずれの立場であるかは定かではありませんが、私が切に申し上げたいことは、確信犯たる第一の立場は「善し」としても、第二と第三の立場は実に好ましくないということであります。なぜならば、それはまさに小中学生が松井やイチローや松坂に憧れる姿と何ら変わらないからであります。

 ラストサムライさまは『(管理人の)書かれてることは、前首相や私や社会に対する批判ばかりです』とコメントされておりますが、その真意はまさに既述した立場の違いを論じているからに他なりません。もしこれが趣味の問題であるならば、当然のことながら立場の違いを論ずるのは愚の骨頂というものです。なぜならばそれは、好き嫌いの世界だからであります。

 しかし、こと政治は、スポーツや娯楽・レジャーの類とは本質的に異なります。日常の国民生活に直結するものであり、まさに孫子の曰う『兵は国の大事なり。死生の地、存亡の道』<第一篇 計>と同次元のものなのです。ゆえに孫子は『察せざる可からざるなり。』と曰うのであります。

 今日、日本社会に噴出している様々な、いわゆる社会的格差の原因は、基本的には小泉・竹中ラインの構造改革に起因するものであることは衆目の一致するところであります。

 私に言わせると、彼の新撰組の暗躍が「明治維新を三年遅らせた」と謂われているがごとく、実に茶番な小泉劇場の「バカ騒ぎ」は、日本が自民党の一党独裁と決別し、健全な二大政党時代に移行するタイミングを三年遅らせたと考えております。

 どの角度からみても彼の小泉劇場が言わば「将軍様」の君臨する自民党一党独裁体制の側に立つものであることは論を俟ちません。

 そのゆえに我々選挙民は、誰がその諸悪の根源たる独裁体制を擁護し、誰がそれに反対しているのか、言い換えれば、誰が国民に害悪を流す者であり、誰が国民の利益を願う者であるかを、好き嫌いや外見、先入観の壁を越えて明晰に判断すべきであります。

 それが民主主義国家の主権者たる我々の取るべき態度であり、真のリーダーたる者のその態度こそが、孫子の曰う『進みては名を求めず、退きては罪を避けず』<第一篇 地形>の真意に合致するのです。

 今回はこの辺にしておきます。次回は、「孫子」と「孔子」の思想は、どこが同じでどこが異なるのかについて解説いたします。

posted by 孫子塾塾長 at 12:47| Comment(3) | TrackBack(0) | 時事評論
この記事へのコメント
請教又公言奉

首夏の候。
孫子曰く「兵は奇術」との詞は、如何解釈されますか。私は、ラストサムライさんと似た解釈であります。つまりは奇を正当に行使しうる超法規的状態であるから、王道に反する策を行使しても良いと。所謂覇術。
そもそも七武経書と五経はその射程範囲を異にするものと存じます。
「如何するか」「如何にあるべきか」の差であります。「如何にするか」が問われる状態は政体として末期であるのです。西洋の政体循環論ではないが、無為→大同→小康→刑罰があります。(前から二つ三つは礼楽政治)
上記の政体で政治そのものが問われるのであれば、「五経」、もし非常の時、侵略、内乱が起れば、「七武経書」が適する。如何でしょうか。当方は東洋思想の中で孫子は末端の学「数」「因」学として敬遠しておるものです。
経学として如何活用できるか貴殿の孫子の講義に注目するところであります。

もうひとつ、靖国について貴殿のお考えと異にします。諸方に軋轢を無くす事がその眼前に置かれておるのですが、なるほどそれは支那と商業をしたい経団連の皆様と同じくして功利的な意見であります。公に殉じられた方々に対し、公でお祭り申し上げるのが本来ではないでしょうか。

最後になります。共に東洋学に依拠するものとして申し上げれば、能力云々、知性云々のご発言にはいささか眉を顰めます。我々一人ひとりに備わる良知が傷つくだけであります。
一気(口可)成につき悪文ご容赦。
Posted by 一漢文学者 at 2008年06月17日 22:13
申し訳ない上記事の「お祭り」ではなく「お祀り」であります。訂正いたします。
Posted by 一漢文学者 at 2008年06月17日 22:17
 このコメントに関する返信は、文字数の関係から、『14 「一漢文学者」さまのコメントにお答えして』の記事としてアップさせて頂き間ました。
 
Posted by 管理人 at 2008年07月19日 05:58
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。
この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/15549407

この記事へのトラックバック