2008年02月22日

9 生野さまのコメントにお答えして

 当ブログの記事について、2月13日、生野様から下記のコメントを頂きました。有難うございます。文字数の関係から、返信はこちらの記事としてアップさせて頂きました。

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 今回捕鯨についてのコメントがありましたので、私もコメントさせていただこうと思います。 私の周りには西洋の方がたくさんいて、それはそれはいろいろな方がいます。 日本の常識が通用する方もいれば、通用しない方もいます。 友人になれる人もいれば、なれない人もいます。ただ、今回、捕鯨に対するオーストラリアのあまりに偽善的な態度には、全くあきれています。

 先生のおっしゃる通り、オーストラリアの方々は自分たちが常日頃殺された動物たちを口にしていることは、どう思っているのか、ぜひ彼らにきいてみたいところです。 クジラは頭がいいから殺してはならない、という人もいますが、なら、頭が悪い生き物はころしてもいいのか、というとても恐ろしい思想につながると思います。

 私が一番頭に来るのは、「偽善」です。 肉を食べる人は、動物(牛など)を殺す、という行為は他人にやらせて(他人の手を汚し)、いかにも自分たちは無実、というように、高みにたって日本人をバッシングしているようにみえるのです。

 捕鯨する日本人も、研究目的と言っていますが、「何のための研究で捕鯨をするのか」ということをしっかり説明していただきたいと思います。
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 全く御説の通りだと思います。一般的に言えば、他人のせいにするのが西欧人の思想であり、内に原因を求めるのが東洋人の思想です。

 これは基本的には、その淵源がいわゆる牧畜・小麦文化圏にあるか、はたまた稲作文化圏にあるかの相違とも考えられます。その意味で中国は北方が牧畜・小麦文化圏、南方が稲作文化圏ではありますが、東シナ海のガス田問題や中国製毒餃子事件などへの対応を見るまでもなく、その主流は欧米人的な発想にあると言えます。

 欧米人は、良く言えば、目立ちたがり屋で、自己主張が強く、「分らない」ことでも知らないとは言わない、「よく知らない」ことであっても自信をもって答える、「間違った結論」であっても断固として主張するのが彼らの論理であり、やり方なのです。


 確かに、日本人と比べて理性的・論理的に物を思考するという点においては長所ではありますが、「誰が考えても理屈にもならないような理屈」を絶対に正しいと自己主張するのは明らかに短所と言わざるを得ません。

 このような偏頗(へんぱ)な思考パターン、言わば独断と偏見ごときものは社会的な軋轢(あつれき)や紛争を惹起することはあっても合理的な問題解決の方法としては明らかに不適当であり、むしろ有害であります。

 これはまさに毛沢東の曰う「ただの理性認識にだけに止まるもの」と言わざるを得ません。

 言い換えれば、(その思考によって得られた一定時点における一定の結論は)絶えざるスパイラルな実践の検証を通じてその理論の不完全性を正し、これを発展させる過程が絶対に必要だということです。

 稲作文化圏の人たる毛沢東が欧米の思想を摂取して中国的弁証法の立場からこのように論じていることは実に意義のあることであります。

 つまり、欧米人の自己主張の凄まじさは、「恥の文化」や「謙譲の美徳」をもってする非論理的な日本人としては信じられない言動でありますが、これが欧米人の通常の姿と理解しつつ、徒(いたずら)に辟易(へきえき)して恐れ入ることなく、彼らの論理の弱点をキチンと弁(わきま)え、一段も二段も高い次元から事を論ずるべきものと考えます。


 そのゆえに、(日本の調査捕鯨に対するオーストリアの言動に関しては)例えば、次のように言うことができます。

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 人間は環境の動物である。住むところの気候・風土・地形山河・言語・風俗が変われば人間の文化も自ずから異なるのは当然である。鯨の「食文化」に関して言えば、歌謡曲「南国土佐を後にして」の歌詞に、

『国の父さん室戸の沖で鯨釣ったと言う便り、

わたしも負けずに励んだ後で歌うよ土佐のよさこい節を、

言うたちいかんちやおらんくの池に潮吹く魚が泳ぎよる、

よさこいよさこい』

とあるがごとく、捕鯨は古来の日本の文化である。


 狭い地球で異民族同士が仲良く生活するためには、意味もなく他民族の宗教や食の習慣などの文化に関し異議を挟まないことである。イラク戦争などはまさに現代版十字軍の盟主を気取ったアメリカがその奉ずるところの欧米人的思考の欠陥ゆえに引き起こした暴挙である、と。

 その意味で、その自己主張はさておき、国家とし、民族として、はたまた人間として、まず他民族の食文化を認めるのか、認めないのか、はたまた食糧問題という意味での海洋資源の持続的な利用に関し、何ゆえに鯨のみを特別視するのか、鯨資源の適正管理を前提とする持続的捕鯨のどこが非合理的なのか、などの基本的な見解、立場を日本政府としてキチンと問うべきであります。

 まさにそれこそ日本が自己主張すべき本質的事柄であると考えます。その上で、いかに交渉し、いかに利害の調整を図るか、という問題であります。
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 いずれにせよ、調査捕鯨反対のオーストリアなどに対しは、独断と偏見のごとき「ただの理性認識にだけに止まるもの」とは似て非なるキチンとした論理をもって、正しい自己主張をすることが日本には最も望まれることであります。

 とは言え、皮肉なことに、調査捕鯨を拡大し鯨肉の供給量が増えたのは良いが、今、日本国内での流通が広がらず、その鯨肉をどう処理するかが悩みのタネであるという。まさに宜(むべ)なるかなと首肯せざるを得ません。

 やはり、日本人は一事が万事で、論理性に乏しいのみならず、計画性もまた、行き当たりばったりの出たとこ勝負に終始するのか、と慨嘆せざるを得ません。日本人は孫子をキチンと学ぶべきであると主張する所以(ゆえん)です。
posted by 孫子塾塾長 at 12:41| Comment(7) | TrackBack(0) | 時事評論
この記事へのコメント
何もお返事が無いとこを見ると、無視してるのか呆れて物が言えないと思っているのでしょう。それは貴方が質問したことに私が答えないからだと思います。しかし貴方が質問してる内容は各論であって総論ではないです。私は、何故そのような各論に答えないのか? それは余り意味にない内容だからです。何故、意味がないのか。どんな政策にも必ず問題が起きるからです。そうなると議論する為に議論をする無限ループになり本質からズレルことが明白だからです。前首相については其々の評価があるかと思います。しかし貴方が書いている内容を吟味すると書かれてることは、前首相や私や社会に対する批判ばかりです。孫子は徹底的現実主義者であり兵法家であって理想主義者でもなく思想家でもないです。貴方の反論はまるで理想なる主君を求め諸国を彷徨っている孔子のようであります。先ず兵法とは今ある現実に対してどのような戦術や戦略を使って今ある現状を打開するのか、またどのように社会的優位性を保つのか身を守る為にはどのように行動するのかなどの行動哲学を意味します。その兵法を勝手な解釈によって思想や理想に使う物ではないということです。どうも貴方の書かれてる事は、「論語」を読んでる感じがします。孫子、孫子と叫ばれてますが、孔子の間違いではないですか?
Posted by ラストサムライ at 2008年03月01日 22:21
 いみじくも『先ず兵法とは今ある現実に対してどのような戦術や戦略を使って今ある現状を打開するのか、またどのように社会的優位性を保つのか身を守る為にはどのように行動するのかなどの行動哲学を意味します』と言われておりますが、まさにこの言に象徴されるように、ラストサムライさまは、兵法というものが全く分っていないのです。

 それではラストサムライさまにお尋ねしますが、(多分答えは返ってこないでしょうが)孫子と孔子の本質的な違いはどこにあるのでしょか。明確にお答え下さい。

 これに答えられない以上、貴方に兵法を論ずる資格はありせん。
Posted by 管理人 at 2008年03月02日 00:39
先ず、兵法を論ずる資格があるかないかは、貴方が決めることではなく天が決めることです。
孫子と孔子の違いですが、大きく分けて孫子は現実主義者であり孔子は理想主義者です。また兵法というのは、机上で学ぶ物ではなく現実的な経験から学ぶ物です。例えば不満なる現実があったとしてその中でどのように行動するかが大事であって、こうなるべきだとかこうすべきという声高に叫ぶ物ではないです。また結果的に利を得る為の行動哲学でもあります。例えば君子はこうあるべきだと孫子も孔子も語っていても孫子の言う君子というのは実利を得る為という現実的なしたたかさが含まれています。
孔子は只、只管に聖人を求めています。そこに大きな違いがあるのです。表面的には孫子も孔子も理想なる君子像は似ている部分もあるが似て非なる物です。
では貴方は孫子と孔子の違いについてどのように解釈されてるのでしょうか?
Posted by ラストサムライ at 2008年03月07日 22:14
 ラストサムライさま

(1)それでは伺いますが、貴方の言われている「天」なるものは、一体何者で、どこに存在するのでしょうか。明確に御答え願います。

 それが答えられなければ、やはり貴方は、孫子を語る資格は無いと言わざるを得ません。


(2)ついでに言えば、普通の人間であれば、それが君子であろうと凡人であろうと、はたまた兵家であろうと儒家であろうと、現実を見つめつつも理想を求めるというのは通常の姿ではないでしょうか。当然、貴方もそうでしょう。

 この兼ね合いをどうするかということはあっても、一個の人間に内在する理想と現実を別々のものとして分け、(同一の人間なのに)半分は現実だけの人間、半分は理想だけの人間などと分けられる訳がありません。

 然(しか)るに、貴方の語る孫子と孔子の君主論によれば、それを分けることができるという。一体、どうすれば分けられるのでしょうか。これも明確に御答えください。


(3)さらに言えば、たとえば、遊説先の君主が孔子の進言を聞き入れて、理想的な政治を行い巧く国を治めたとすれば、それはまさに実利そのものではないでしょうか。

 その実利と貴方の言われている孫子の実利とどこがどう違うのでしょうか。

 これもまた明確に御答えください。これに答えられなければ、やはり貴方は兵法を語る資格はありません。
Posted by 管理人 at 2008年03月07日 23:25
天はどこにあるか明確に答えなくても貴方ならご存知でしょう。天とは万物を支配し宇宙が生まれる以前から存在した混沌とした物です。

現実的な理想と非現実的な理想とは大きく違います。孔子は最後まで理想なる聖人君子に出会うことが出来ませんでした。孫子は理想なる君子を求めてるのではなく今ある現実の中でどのような生き方をすることが、一番合理的で有利な人生を全とうできるかに主眼があります。そこに全ての人やあらゆる立場の人達にとっても利がある思想なのです。

孔子の進言を聞き入れて理想なる政治を行うことは必ずしも国家安泰になるかどうかはわかりません。ここに孔子のいう理想と現実のギャップが生まれるのです。そのギャップを埋めることができず孔子は苦悩したのでしょう。

「水清ければ魚住まず」ということなのでしょう。

Posted by ラストサムライ at 2008年03月13日 00:01
 ラストサムライ様は、またまた大きく勘違いをされておりますね。

 私が「天」とは何かを聞いたのは、そもそも貴方が『兵法を論ずる資格があるかないかは、天が決めることです』と言われたので、それではその「天」とは何ですか、御答え下さいと申し上げているのですよ。

 そのゆえに重ねてお尋ね致します。

(1)貴方の論理を普通に解すれば『万物を支配し宇宙が生まれる以前から存在した混沌とした物』たる天が、ラストサムライ様が兵法を論ずる資格があるかないか決める、ということになります。

 一体、どのようにして決めるのでしょうか。もとより、そこにはそれなりの因果関係があるでしょうから、その因果関係も合わせて御説明ください。


(2)

 貴方は『孫子は現実主義者であり孔子は理想主義者』であると言われておりますが、それは貴方の極めて一知半解な偏見と独断であり、無知と妄想の産物と言わざるを得ません。

 そもそも、中国思想の特色は、最も日常的な現実的な問題をテーマにしているところにあります。その中国の代表的な伝統思想がいわゆる論語です。

 その語るところは、社会的人間としての生き方であり、決してそれ以外のものではありません。言い換えれば、現実の社会の中で生活する人間のあり方、あるべき姿、それを様々な角度から繰り返し説いております。

 要するに、孔子の最大の関心事は、神でも奇跡でも神秘でもなく、唯に、社会的人間としての生き方にあったということです。

 然るにラストサムライ様は、この孔子を理想主義者だと断じ、『現実的な理想と非現実的な理想とは大きく違います。孔子は最後まで理想なる聖人君子に出会うことが出来ませんでした』などとまさに支離滅裂なことを書いておられます。

 一体、孔子の教えのどこが「非現実的な理想」なのでしょうか。はっきり言えば、このようなことを大真面目で厚顔無恥に論ずるのは誰が見ても満天下に恥を晒す行為以外の何者でもありません。

 貴方の言われる『孫子は理想なる君子を求めてるのではなく、今ある現実の中でどのような生き方をすることが、一番合理的で有利な人生を全とうできるかに主眼があります。そこに全ての人やあらゆる立場の人達にとっても利がある思想なのです』は孫子ではなく、まさにソックリそのまま孔子の説くところです。

 支離滅裂とはまさにラストサムライさまのためにある言葉のようですね。そのゆえに『ギャップを埋めることができず苦悩した』のは孔子ではなく実はラストサムライさま御自身なのではないでしょうか。


 それはさておき、お尋ねしますが、政治や道徳、社会生活における様々な人間関係、個人の処世態度などはまさに現実問題そのものです。これについて論じている孔子の教えのどこが理想主義なのでしょうか。

 明確に御答えください。貴方の優秀な頭脳をもってすれば簡単に答えられる問題でしょう。
 

 
Posted by 管理人 at 2008年03月13日 02:35
貴方の論法は理屈ではなく、屁理屈かと思います。例えば全体文章を読んでその一文を引っ張り出し総論に対しその一文は矛盾してるじゃないか?というよく日本人にいる典型的な曲者と言わざるを得ません。貴方に説明するのは「論語」を読むより難しいでしょうね。
「人事を尽くして天命を待つ」この人事の事が、孫子や孔子の行動哲学だとするとその結果決めるのは天であるということです。

過去の歴史上の人物で孔子が理想とした人物は誰なのかご存知ですか? 私は知りません。ご存知なら教えて頂けないでしょうか?

過去にこの国を治めた政治家に孔子の理想像なる人物が居たでしょうか?卑弥呼、聖徳太子、平清盛、源頼朝、足利尊氏、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、光格天皇、明治天皇、昭和天皇、中曽根康弘・・・。どんなに優れた人物であっても孔子にすればまだまだと言うでしょう。

孔子は社会的人間社会のトップの行き方、即ちエリート思想を説いた物です。決して民の処世術を書いた物ではないかと思います。しかし読み方によっては貴方が仰るような解釈もでき広く世界で読まれているのでしょう。個人の自由だと思いますが、何故その思想が生まれたのか考えれば分かるかと思います。
Posted by ラストサムライ at 2008年03月13日 22:24
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