弊塾のサイトに次ぎのようなご質問が寄せられました。孫子解釈における重要な論点なので管理人の回答を添えてご紹介いたします。
〈ご質問〉
一般に世間では、「世の中は怒った方が負け」「短気は損気」「負けるが勝ち」「ならぬ堪忍、するが堪忍」などと謂われており、「怒りの感情」は厳に慎むべきもの、と解されています。
しかし、将軍の書たる孫子には『敵を殺す者は怒りなり。』〈第二篇 作戦〉とあり、一般には、「士卒に敵を殺さしめんと欲すれば、士卒の心を激して怒らしむべし」などと解されています。また一説に「将軍個人の怒りを指したものではない」ともあります。であるならば孫子は、将軍の書ではないのか、などと突っ込みたくなります。
孫子はまさに戦争を論ずる書ゆえに、上記のような敵に対する憎しみや敵愾心という本能的な「怒り」の感情も分らなくはないのですが、(士卒の場合はともあれ)リーダーたる将軍に対する指針としては何かスッキリとしません。どう考えたら良いのでしょうか。
〈ご回答〉
1、『敵を殺す者は怒りなり。』〈第二篇 作戦〉について
まさに孫子の言を直訳的に考えればそのような解釈にならざるを得ません。が、そもそも、孫子十三篇六千余文字の一言一句は極めて抽象的な言であることことを理解する必要があります。例えば、ある一定の情報が百枚の原稿用紙にまとめられているとしましたら、それを一枚に精選し、さらにそれを十ヶ条に集約し、さらに三か条、一か条に要約し、最後にそのエキスを一枚の絵で表現するがごときものが、孫子の一言ということであります。
そのような高度な抽象性を有する孫子の言を、いかにも能天気に表面的・直訳的に理解しようという発想は、孫子の解釈においては百害あって一利なし、と評すべき態度と言わざるを得ません。そもそも、「士卒に敵を殺さしめんと欲すれば、士卒の心を激して怒らしむべし」などの説明は、まさに「言わずもがな」のことであり、竹簡という極めて限定的かつ貴重な言わば紙幅をわざわざ割いてまで書き残すほどのことでないことは論を俟(ま)ちません。
まさに孫子は、一兵卒の書ではなく、将軍(リーダー)の書でありますから、自ずから、将軍(リーダー)として、常に銘記すべき思想は何かを論ずるものと解するのが適当であります。
ところで、彼の釈迦は、この世における感情は突き詰めれば二つしか無い。一つは「怒り」であり、一つは「愛」である、と説いております。「怒り」の感情は破壊につながり、「愛」の感情は創造につながる、と曰うのです。
そのことを踏まえて、孫子の曰う『敵を殺す者は怒りなり。』〈第二篇 作戦〉を読み解けば、自ずから、「怒り」は、まさに「破壊」を意味することが明白です。何に対する「破壊」かと言えば、〈第二篇 作戦〉の優先的立場たる『拙速』、則ち、兵は不祥の器(凶器)、已むを得ずしてこれを用うれば、勝ち易きに勝つを上とす、の意に対する破壊、言い換えれば、その目的に対する重大な阻害要因が「怒り」の感情であると言うことです。
凡そ「争いごと」に関する人間の怒りの感情は、(それが何であれ)まさに燎原の火のごとく益々エスカレートし勝ちなものであります。その「怒り」がおのずから戦火の拡大と無意味な殺戮をもたらし、延(ひ)いては『拙速』の対極的概念たる戦争の長期化・泥沼化という事態を招来し、結局は、自らを焼き尽すものとなるのであります。
このゆえに『敵を殺す者は怒りなり。』は、いやしくも将軍たる者、極めて危険な感情たる「怒り」を、ことにおいていかにコントロールするかを常に銘記し行動すべきであるとする、兵法上、極めて重要な思想を論ずる意と解されます。
まさに老子の曰う「善く戦う者は怒らず」、あるいは、徳川家康の曰う「怒りは敵と思え」と同意と解されます。また、ご質問にある「世の中は怒った方が負け」「短気は損気」「負けるが勝ち」「ならぬ堪忍、するが堪忍」を言うものでもあります。
この『敵を殺す者は怒りなり。』〈第二篇 作戦〉の解釈を裏付けるものが、用兵篇の総結言たる〈第十二篇 火攻・後半部〉の言であります。則ち、
『主は怒りを以て師を興す可からず、将は慍(いきどお)りを以て戦いを致す可からず。利に合えば而ち用い、合わざれば而ち止む。怒りは以て復(ま)た喜ぶ可く、慍(いきどお)りは以て復た悦(よろこ)ぶ可きも、亡国は以て復た存す可からず、死者は以て復た生く可からず。故に明主は之を慎み、良将は之を警(いまし)む。』と。
かく解することにより、〈第二篇 作戦〉に曰う『敵を殺す者は怒りなり。』の意と用兵篇の総結言たる〈第十二篇 火攻・後半部〉の意は明確な整合性を以て、矛盾なく意味が通るのであります。
2、そもそも兵法は体得するものであり、実行できなければ意味がない。
『敵を殺す者は怒りなり。』〈第二篇 作戦〉は、いやしくも将軍(リーダー)たる者は常に沈着冷静でなければならないことを論ずるものでもあります。人間はいわゆる感情的な動物ゆえに、まさに感情的な「衝動」は人間行動の特色の一つではありますが、頭に血が上り、カーッとしているために往々にして直線的・単眼的な行動に走り勝ちであり、思わない結果を引き起こすことがあるからであります。老子が「善く戦う者は怒らず」と論ずる所以(ゆえん)です。
とりわけ、ことが戦争・政治などの場合は、亡国や民族の滅亡に直結するものが破壊の感情たる「怒り」なのであります。ゆえに、いやしくも将軍(リーダー)たる者、これを慎み、これを警むるという姿勢が何よりも肝要である、と繰り返し論ずるのであります。
言い換えれば、「士卒に敵を殺さしめんと欲すれば、士卒の心を激して怒らしむべし」という場合は、人間の本性たる「怒り」の感情の趨(おもむ)くままに益々それを刺激すれば良いだけの話であり、一方、『敵を殺す者は怒りなり。』〈第二篇 作戦〉の真意の場合は、感情の動物にして生身の人間たる将軍(リーダー)の欲望をコントロールしようとするものであります。つまり、両者は全くの正反対の立場となるのです。
一般に、『性(さが)、弱き者』が人間ゆえに、まさに正反対となる両者の場合、一体、どちらがより困難な道であるか、言い換えれば、どちらが万物の霊長たるにふさわしい道であるか、言うまでもありません。孫子が『敵を殺す者は怒りなり。』〈第二篇 作戦〉と敢えて論ずる所以(ゆえん)です。
3、我々の脳に安易な思い込み・固定観念が生じ易い理由
そもそも人間の思考なるものは、いわゆる固定観念、もしくは単眼的・近視眼的な思考に陥り易い傾向を備えています。一般的に、人間の脳は統一性、一貫性のとれたものに対しては、殆ど無条件に近い形で肯定的に受け入れると謂われています。その方が複数の情報の識別処理の上での利便性・効率性・安定性が高いからです。
言わば、人間の脳のもつ統一性、一貫性へのこだわりであり、固定観念・思い込み・思考の偏向とも言えます。
逆に、統一性、一貫性から外れたものには対しては全く否定的にとらえるという極めて白黒のハッキリした反応を示すと謂われています。その方が自分は一貫した考え方をしていると納得できるので心理的な安定感が得られということであります。そのゆえにこそ人間は、固定観念・思い込み・先入観・思考の偏向に陥り易いとも言えます。つまりは、自分で安心できる思考法につい安住してしまうということです。
4、思い込み・固定観念・先入観・思考の偏向を解く方法
T、問題を全体と部分の根本構造から把握するということ
脳力開発的に言えば、基礎部第二面「思考方法の整備」の第一項目、常に中心点を明らかにし、中心・骨組みで考える習慣をつくろう(常に目的・目標を明確にする習慣をつくろう)に該当します。
一般的に、部分的性質のものは目に見えるが、全体的性質のものは目に見えないものであり、かつ、前者は下位レベル(低次元)にあるが、後者は上位レベル(高次元)に位置するという側面があり
ます。そのことを踏まえて、何ごとであれ、全体と部分の根本構造を把握し、適切な判断を行うべし、ということです。
U、全体と部分の根本構造に思いを致すための方法
古来、いわゆる「迷い」を避ける最も良い方法は、「簡潔に考えること」とされていますが、その伝で言えば、この場合は、まさに次ぎのようなイメージを抱くことも一法かと思われます。
@甲陽軍鑑に曰う『鼠頭牛首』、文字通りネズミの頭と牛の頭をイメージする意。
Aいわゆる『群盲、像を評す』をイメージする。知らないのに分った振りをしていないか。
B多角度思考の活用。つまりは異なる視点の導入。単眼的思考から複眼的思考へ。
C間をおいてから考え直す(一般的には4〜5日が適当と謂われている)
D平素から身辺に起こる小さなことを判断力養成の最適な教材としてイメージし、(その意味で の)大局を洞察する習慣づくりを実践し、情勢判断力を鍛錬すること。
5、まとめ
今回は、『敵を殺す者は怒りなり。』〈第二篇 作戦〉の場合の、孫子解釈の実際例を見てきましたが、いずれにせよ、真の意味での孫子の活用は、(高度な抽象性を有するその言の根底にある)その思想をいかに我が身に骨肉化することにあります。
そのことを踏まえて、個々人の個別具体的な環境における状況、もしくは問題の特殊性と普遍性を自分の頭で徹底して考え抜き、問題解決への理論体系を構築することにあると考えます。
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