2011年06月09日

24 孫子の曰う『敵を殺す者は怒りなり』の真意

 孫子の<第二篇 作戦>に『敵を殺す者は怒りなり』の言があります。この言は一般的に「兵士を戦いに駆り立てるには、敵愾心を植えつけなければならない」、あるいは「我が士卒をして敵を殺さしめんと欲せば、まさにこれを激して怒らしむべし」などと解されております。

 しかし、この段の前後の文意、及び十三篇全体を一貫する孫子の兵法思想の観点から言えば、かなり一面的、表面的な解釈と言わざるを得ません。言い換えれば、それは、いわゆる「怒り」という感情に関する言わば戦術的な側面を論じているに過ぎないと言わざるを得ません。

 別言すれば、そもそも「怒り」という感情は、(ことの広狭大小を問わず)まさに世の中の破壊の原因であるゆえに、これを戦略的にいかに解すべきかは兵法にとって極めて重要な問題であり、かつ、<第二篇 作戦>は、孫子兵法の総論部たる戦争観(根本戦略)について論じているものゆえに、自ずから『敵を殺す者は怒りなり』は戦略的立場において解されるべきものと考えられます。

 そのゆえに、『敵を殺す者は怒りなり』<第二篇 作戦>は、次のように解するのが適当と言えます。

 即ち、『いやしくも将軍たる者、ただ怒りの感情に任せて、不必要かつ無意味に敵の兵士や無辜(むこ)の民を殺戮してはならない。それは将軍個人の感情的な憂さ晴らしにはなり得ても、決して自国の利益には結びつかない。むしろそれは、一歩間違えれば、敗軍の基(もとい)ともなり兼ねない極めて危険な行為である。ゆえに、将軍たる者、厳にそのことを慎み、冷静に「我にとって真の利となるものは何か」を考慮すべし』と。老子曰く『善く戦う者は怒らず』と。

※これに関しましては下記の弊サイトで詳説しております。ご参照ください。
  http://sonshijyuku.jp/column/column006.html


 ここでは、上記の解釈を踏まえて、さらにその裏面を考察いたします。

 則ち、人は生きるために動く必要があり、動けば、例えば「犬も歩けば棒に当たる」がことく必ず何かと衝突します。つまり、動くということは即ち戦いであり、戦いは思うように行かないのが現実ゆえに、結局、そこには多種多様な怒りの感情が惹起されることになります。

 例えば、その尽(ことごと)くに過剰反応して四六時中、怒りまくる人、もしくは、一応は我慢するが、ついに耐え切れずに、しばしば怒りを爆発させる人などが散見されます。前者はいわゆる社会生活不適合の人との烙印を押され、後者は、いわゆる瞬間湯沸かし器と酷評されて敬遠されるか、その性格の弱点を巧みに利用される破目に陥ります。まさに孫子の曰う『忿速は侮(あなど)るべし』<第八篇 九変>であります。

 要するに、「アイツは気に食わない」などの動物的な低レベルの怒りや、エゴ丸出しの私憤、はたまた事の真偽・是非善悪も弁(わきま)えずにただ付和雷同するだけの社会的バッシングなどの怒りは決して己の利とはならない、と言うことであります。

 まさに、『短気(怒り)は損気』、『短気(怒り)は身を滅ぼす腹切り刀』ゆえに、一般には、人を責(せ)める前に、まず己の至らな無さを反省し、次から巧く行くように創意工夫する形で、世の中の破壊の原因たる「怒り」の感情を(己の利とすべく)善用し自他共栄を図ることになります。

 言わば、これが処世における根本的な戦略方針であり、まさに孫子の曰う『敵を殺す者は怒りなり』<第二篇 作戦>の意であります。彼の徳川家康の遺訓に曰く『堪忍は無事長久の基(もと)、怒りは敵と思え』と。

 ここで問題は、しからば「怒り」は全て否定すべきか、ということです。仏教思想では、まさに「どんな怒りでも、正当化することはできない。正しい怒りなど成り立たない」と論じております。

 一方、人間性悪説であれ性善説あれ、不完全な人間の集合体たる世の中が(ことの広狭大小を問わず)不条理な現象に満ち満ちていることは論を俟ちません。仮にそのような場面に際会した時に、「触らぬ神に祟りなし」とばかりに、腹も立てずに、円満に人と接し、仏像のごとき微笑を浮かべてことを運んでいたとしたら、それはそれで人の道に反する行為と言わざるを得ません。

 つまり、何が正しくて何が正しくないかを熟慮した上で、これは許せないということに対しては、言わば『義憤(正義や人の道に背くことを怒る意)』たる大いなる怒りを持たなくてはいけない、と言うことです。彼の孟子は『自ら反(かえり)みて縮(なお)くんば、千万人と雖も、吾れ、往かん」と論じております。

 例えば、「原発という極めて危険な施設を扱いながら、危険性を小さく見積もっていたのはなぜか」、「原発事故はもとよりこと、常に責任の所在が曖昧かつ不明確な行政組織とは国民にとって一体何のか」「甘い想定で原発の安全神話を声高に喧伝していたいわゆる御用学者は人間としても立派なのか」、「数々の冤罪事件を生みながら反省の欠けらもない検察、事件が起きるまで何もしない警察とは国民にとって一体何なのか」、「国のやることは間違いない、などの恐るべき思考停止状態は何に起因するのか」などにはまさに義憤たる大いなる怒りを激発すべきであります。

 とは言え、根本の戦略方針は『敵を殺す者は怒りなり』<第二篇 作戦>、あるいは「罪を憎んで人を憎まず」でありますから、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」式の怒り方は厳に慎むべきであることは論を俟ちません。

 そのことを踏まえて、最も留意すべき点は、まさに怒るべき否かの正否の問題をいかに判断するか、ということです。言い換えれば、ただ自分の立場や物の見方だけに絶大な信頼を置いて盲信するという幼稚な姿勢は不可だと言うことです。

 幼稚ということはつまりは、小さな狭い自我に固執し、それを乗り越えようとしない傲慢不遜な態度の人を意味しております。例えば、学歴偏重主義社会の今日、とりわけ難関とされる学校さえ出れば、それで世間は、人間も人格(人の道の実践的主体者たる個人の意)も一流だと見なし、自惚(うぬぼ)れた当人も、私の人間的総合力、人格は既に完成されている、私の人格には何の問題も無い、足りないものがあるとすれば、それは必要な専門的知識と経験、方法論だけである、と考えているが如き場合であります。

 孫子の曰う『彼を知り、己を知れば』<第三篇 謀攻>とは、まさにこのような傲慢不遜な姿勢を問うものであります。果たして然(しか)りか、と。

 翻(ひるがえ)って思うに、今回の福島第一原発事故などは、まさに偏差値優先教育の申し子(神仏に祈ったお陰で授かった子)たるの立派な肩書きを持ったいわゆる我利我利(ガリガリ)タイプの学校秀才が引き起こした天下の大罪とでも評すべきものであります。

 一般的に彼らに共通しているものは、今回の大地震・大津波に象徴されるが如きの「自分を超えたもの」「自分より優れたもの」の存在を認め、それに従うという謙虚な姿勢が欠落していると言うことです。つまり孫子の曰う『彼を知り、己を知れば』<第三篇 謀攻>の言を(もとより頭では理解しているであろうが)真底からは分かっていない、とうことであります。

 世間的には確かに彼らはエリートかも知れない。が、しかし、「人智を超えた力」が見えず、もしくはそれを無視し、ただ専門家という名の『葦(よし)の髄から天井を覗(のぞ)く』がごとき視野の狭さに安住していただけの「頭でっかち」的学校秀才こそ、エリートどころかまさに大衆以下のレベルと断ぜざるを得ません。

 人間的資質の空疎なこのような輩(やから)に国民の生命・財産を預けていたということは、人間性善説を基本とする日本人の人の善さ、もしくは「村の長」的なリーダーを善しとする誤ったリーダー観に負うところが大と言わざる得ません。そのような言わば泰平の眠りからは一刻も早く醒めるべきであります。

 今回の東日本大震災・福島第一原発事故を契機として、「真のリーダーとは何か」「その判断基準とは何か」などについての認識を新たにすべき時代が到来したと言えます。

 孫子の曰う『敵を殺す者は怒りなり』<第二篇 作戦>の真意を眼光紙背に徹して深く読み解かねばならない所以(ゆえん)であります。言い換えれば、偏差値優先的教育のようなピントのずれた表面的・一面的・片面的な思考法で読み解くのではなく、自分の人生体験を踏まえ、自分の頭を使って「自分を超えたもの」「自分より優れたもの」の本質を洞察するということであります。


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posted by 孫子塾塾長 at 12:53| Comment(287) | TrackBack(0) | 孫子