2009年04月20日

22 俗説の真偽の程を検証することと、俗説をただ盲信することとは自ずから別である

 通常、私はまともなご質問には極めてまともに答えております。しかし、いわゆるまともでないご質問にはそれなりに答えるのを常としております。貴方の「好戦的な語句は避けて下さると助かります」とのご要望には添いたく思いますが、上記の私の観点もご理解頂ければ幸甚です。

 さて、結論を先に申し上げる前にその大前提としてお考え頂きたいのは、世の中のことには必ず二面性があり、どんな問題も「善か悪か」「白か黒か」「証拠が有るか無いか」などの二分法では割り切れない複雑な形をしているということであります。

 正義漢づら、善人づらをして「白か黒か」で単純に裁くことは、当人には快感ではありましょうが、裏を返せば、頭を使わない最も安直な方法と言わざるを得ず、かつ問題解決には至らない拙劣なやり方ゆえに適切ではありません。

 何であれプラス面の中にはマイナス面も含まれているし、マイナス面の中にはプラス面も含まれているゆえに、物事を一面的・表面的・部分的に見てはいけないということです。人間の思考力をもって主体的に自分の頭で考える姿勢が肝要なのです。

 そのゆえに私は、(その割り切れないものに対し)多角度・多面的・本質的な見方・多様な可能性を示し、その上で「そうであるもの」と「そうでないもの」とのいずれに道理(利)があるのか、いずれに軍配が上がるのかを個々人の思考力をもって判断して頂く、という方法を提唱しているのです。

 そのゆえに、まずは、ことの背景・土台の部分というものを考える必要があります。

(1)人間と言うものは、そもそも、いわゆる洗脳され易いものである。

 このことは、我々の日々の生活や社会的現象などを少し観察すれば誰しもが分ることでしょう。もとより、良い方向に洗脳されるのであれば問題はありませんが、悪い方向に洗脳される場合も枚挙に暇がありません。後者の端的な例としてはいわゆる「振り込め詐欺」が挙げられます。

 例えば、窓口の銀行員が「騙されていますよ」と必死に止めるのに(逆にそのような親切を逆恨みしつつ)強引に偽口座に振り込むのですから処置なしです。こうゆう手合いに限ってその洗脳から覚める否や、すぐさま警察に飛び込み(自分の責任を棚に上げ)どうしてくれるんだと大騒ぎするものなのです。

 このゆえに人間は、物事を自分の頭で考え、自分でその真偽を主体的に判断する脳力を磨くことが極めて重要であります。益してや、激動・動乱の時代においてをや、です。

(2)資料の読み方、本の読み方は表面的・一面的であってはならない。

 例えば、今、私の手元に沖縄の然(さ)る有名な空手関係者の著された書物があります。トンファーを論じているその一節に「演武にあたっては、特定の形はないが、空手の動作を巧みに応用する云々」とあります。

 これをトンファーに通じている人が読めば、『この著者は(トンファーに関しては)何にも知らないな』と判断するであろうし、トンファーに全く無知の人が読めば、然るべき大家の記述ゆえに『そうかトンファーには形がないのか』と単純に思い込むでしょう。

 言い換えれば、資料や本に書いてあることが全て正しいと鵜呑みにするのは(生き方としては)極めて危険なことなのです。そのゆえに人は、それらを(他人の頭でなく)自分の頭で主体的に判断できるよう常に学び続ける必要があるのです。

 然りながら人は、そもそも性、弱き者ゆえに、そのような人間らしい習慣づくりを放棄し、思考停止状態で、ただ「新聞に書いてあるから本当だろう」とか、「テレビに出ているから偉い」とか、「本に書いてあるから間違いない」とか、あたかもレッテルを貼るがごとく安直に判断する方向に走るのです。

 さて、その上でお尋ね致します。貴方がご指摘される『ご自身の伝承と他所からの伝聞は区別して書いてください』は、上記の本の場合で言えば、一体、どのように書けば良いのでしょうか。

 まさか「私の伝承ではトンファーの形はある」、しかし「大家の伝承ではトンファーの形は無い」と併記するのでしょうか。然りとすれば、それは人間の頭の使い方ではなく、まさにロボット的な頭の使い方と謗(そし)られることは必定です。

 にも関わらず貴方は平然と『ご自身の伝承と他所からの伝聞は区別して書いてください』と言う。ゆえに私は、貴方に対し(社会人としての専門的能力はもとより卓越されているのでしょうが)人間の総合的知性という意味では実に「幼い」と言わざるを得ないのであります。

 言い換えれば、情報を鵜呑みにしたり、本に書いてあるから正しいと考えるのなら人間の頭は要らないということです。逆に、例えば宗教などの熱烈な信者であればそのような資質は極めて好ましいものなのでしょう。しかし、通常の社会人がそのような偏頗(へんぱ)な考え方に染まっていれば、普通は『バカ』と謂われます。

 最近、新聞のニュースに、次のような記事がありました。

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 岐阜地裁で15日行われた窃盗事件の公判で、同地裁の男性裁判官(40)が男性被告(20)に対して「バカ」と発言していたことが分かった。

 地裁総務課によると、大量の漫画本を万引きしたとして窃盗などの罪に問われた事件の被告人質問で、被告は漫画本を売って大麻を買う金を作るためだったと説明。『(大麻が)体に悪いと思っていない』 『インターネットでは、たばこや酒より害がないと書いてあった』と話す被告に対し、裁判官が『だまされているんだよ、バカだから』と述べたという。
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 「バカ」と発言した裁判官の行為が、法的論理から判断して適切かどうかは分りません。が、しかし、通常の人はこの裁判官の見解は正しいとして支持するでしょう。なぜなら、件(くだん)の人物は(情報を鵜呑みにするという意味では)まさしく「バカ」であり、かつ当人がそのことに気付いていないからです。

 孫子はこのことを『彼を知らず、己を知らざれば、戦うごとに必ず殆うし』<第三篇 謀攻>と曰うのです。「彼」とは、他者のみならず自己内部の敵をも指すものだからです。

 大変失礼ながら、貴方の物の見方・考え方は、もとより上記の「バカ」と同じとは申しませんが、多分に似たところがあると言わざるを得ません。

 言い換えれば、貴方の『インターネットで得た情報を不用意に混ぜないでください』とか、『それともフィリピンでKALI(カリ)を教わったのですか』とかの物言いは、まさに他者の情報を鵜呑みにしているという点において上記の「バカ」と同類だと言うことであります。

 今日、通常の頭の人ならインターネットの情報が全て正しいなどとは考えていないでしょう。ゆえに、仮に資料として使う場合、その適否を吟味し判断するのは当然のことです。つまり、貴方の言われるがごとく(ネットの情報をそのまま鵜呑みにして)混ぜるも混ぜないも無いということです。

 また、琉球古武道とフィリピンのKALI(カリ)の技法が異なるということくらいは(オバサンならともかく)普通の頭で普通に考えれば分ることです。ネットで情報を得たとか、得ないとかの問題ではありません。

 貴方の論法は、例えば情報がないから空手と少林寺拳法、もしくは柔道と合気道の違いが分りません、と言うがごときものであり、極めて杓子定規的な硬直した思考と言わざるを得ません。普通の人間は、通常、そのような考え方はしないものです。

(3)俗説の真偽の程を検証することと、思考停止状態で俗説を盲信することとは自ずから別である

 そもそも、トンファーの「石臼・取っ手説」が俗説か否かの判断もできないで、ただ盲信するだけのレベルの人が、なぜ、沖縄のヌンチャクの技法を俗説と断定するのか実に意味不明です。

 因みに、沖縄で謂われているトンファーの起源説は、上記の「石臼の取っ手説」ばかりではありません。その他にも「自在カギ説」「水田用のウズンビーラ説」「取っ手説」があります。

 貴方はあたかも怪しげな宗教の熱烈な信者のごとく「石臼・取っ手説」に固執され盲信されておられますが、その他の説もまさに貴方の言われる伝承ですから、貴方の論法でいくと「全て正しい」ということになります。

 そうしますと、(前記したトンファーの形の有無のケースと同じく)貴方はこれらを併記して全て正しいと言うのでしょうか。それとも貴方の盲信する「石臼の取っ手説」のみが正しいと言うのでしょうか。

 私には何やら(ロボット的思考法の貴方ゆえに)理解不能の信号を発し、思考回路がショートして、その賢明なる頭から煙が噴出して来そうな予感がします。

 いずれにせよ、貴方の人間としての頭は少しも機能していないとの謗(そし)りは免れません。盲信・洗脳もそこまで徹底されるとは実に立派過ぎて言葉もありません。

(4)トンファーに類似する武器は、中国はもとよりタイにも存在する

 学者によれば、中国のトンファー、つまり木製の棒にいわゆる「取っ手」が付いている形状には、六種類があり、その中の一種が沖縄に伝来したと解されるそうである。

 ところで貴方は『中国人が石臼の取っ手を流用してトンファ術を伝授していたならば、それは沖縄人からは見れば「石臼の取っ手から考案された武器」とも見えるものですから、伝承としては間違いとは言えません』と言われております。

 然りとすれば、件(くだん)の中国人とは、沖縄の人に少なくと四通りの由来を伝授したわけですから、実にデタラメな人物ということなります。貴方はそのようなデタラメな人物の伝承を神の如くに崇め奉っているということになります。

 因みに、タイにも沖縄のトンファーと非常に類似している武器があり、沖縄と同じく棒との組手も行われているそうです。

 貴方の見解によれば、タイにも中国人が出かけて行き、トンファーを伝授しつつ、実はトンファーの起源は「石臼取っ手説」であると伝えたことになります。

 しかし、残念ながらそのような伝承はタイはもとより、本家の中国でも寡聞して聞いたことはありません。もしそのようなものがあるなら是非、ご教示頂きたい。

 であるがゆえに、(貴方の言われるように)遠い昔、中国人が来琉してその説を伝授したのではなく、あくまでもそれは沖縄だけで言われているに過ぎないと解すべきであり、かつその説が古いものか新しいものかの考察も必要です。

 そうすれば上記の如き矛盾は起きてこないでしょう。なぜなら、俗説として各々勝手なことを言っているということになるからです。それが人間の頭の使い方と言うものです。

 いずれにせよ、上記のトンファーの起源説は、一般的には、俗説と解されているということです。もとより俗説を信ずるか信じないかは個々人の自由ですが、人間の頭の使い方という点から見れば、なぜそれが俗説なのかを自分の頭で考え、自分の頭で判断することが肝要であり、唾棄すべきことは思考を停止して盲信することであると言えるのであります。

 そのゆえに、貴方の『「石うすの取っ手から考えられた武器でないことは確かです」の根拠を示してください。できないなら明確な否定は避けてください』的な物言いは実に幼い思考と言わざるを得ないのです。

 思うに、貴方の物言いは、明治の新政府によってドイツより導入されて以来、歴史学の主流的地位を占めている、いわゆる実証主義歴史学に洗脳された考え方と言えます。

 簡単に言えば、「証拠がなければ歴史ではない」という考え方です。この立場に立てば、例えば、沖縄の空手の歴史は、江戸時代中期・宝暦12年(1762)の「大島筆記」以前は存在しなかったと言う馬鹿げたことになります。

 それも一つの見識ではありましょう。が、しかし、この方法は(歴史の証拠たる遺物に関してはともあれ)有限の生命たる人間の身体を媒介とする空手に適用するのは必ずしも適当ではありません。

 とりわけ、空手技術の真の伝承は、身体性を媒介とするものゆえに、言葉で表すことはできないという点です。例えば、弟子は師の体の動きを注意深く観察しつつ、その感覚を想像し、師は弟子から見て自分がどのように見られているかを意識しつつ、伝え易く動くなど双方向的に伝達されるものなのです。

 そのゆえに、空手・古武道の場合、(実証主義歴史学でいう証拠という意味においては)古来、幾多の先人達によって脈々と今になお伝えられている「型」がまさにそれに該当すると考えるのが至当です。とりわけ、その型に内蔵される武術的な理論・技法の分解や術理などがその中核を成すものと解されます。

 このゆえに、それが古来、伝承されてきた武術的な空手であるか否かを検証する証拠という意味においては、いわゆる○○流だとか、○○先生に教わったなどの、言わば属人的な要素に重きを置くのではなく、むしろ歴史の証拠たる「型」そのものに伝承されている武術的な理論・技法の分解や術理などが普遍的な武術的思想と照合して妥当か否かを判断することにあると言えます。

 その結果として、(何のために造られたかの伝承が失われ、ただ外形だけが遺されているピラミッドのごとく)単に形骸化しただけの「型」もあれば、真価を秘めた値打ちものの術理を伝承している「型」もあるということが明らかになるでしょう。

 ゆえに、そのための判断基準をキチンと磨くことが真に重要な課題となります。その上で、正しいものは正しいとして真摯に稽古してゆくことが、武術的な空手を追究することの真の価値、本質であると考えます。この事情はトンファー術の場合も全く同じです。

 然るに貴方は、そのような物事の本質・根幹・本体という肝心なことには全く触れずに、まさに酔っ払いの戯言(たわごと)のごときどうでも良いような枝葉末節の「石臼取っ手説」に固執されているから噴飯ものだと言うのです。私が貴方のことを「幼い」と表現する所以(ゆえん)であります。

 おまけにトンファーの型もやられたことが無いと言う。知らなければ素直に知ったか振りをしないのが常識なのに、自己の盲信と頭だけの知識を理由に分ったような物言いをされるから笑止千万だというのです。

 蛇足ながら、トンファーの起源たる「石臼取っ手説」は、例えば、我々が良く耳にする『空手は沖縄の百姓が編み出したもの』説と極めて相似ているということです。

 通常、幕末まで空手を稽古していたものは百姓ではなくいわゆる士族階級であること論を俟ちません。そもそも武術の修行などカネとヒマが無ければできないものなのです。

 貴方も試しに、いわゆる派遣切りの方々やネットカフェ難民などをを尋ねて、『空手は素晴らしい武術です。皆さんもやりましょう』と言ってみてください。

 おそらく返ってくる答えは『やっても良いよ。ただし、仕事とカネを呉れ』と言われるのがオチであります。このゆえに、例えば『空手は沖縄の百姓が編み出したもの』説がどのレベルのものかは自ずからお分かりになるでしょう。

 そもそもトンファーは武具であり、石臼は生活用具です。自ずからその用途や機能は異なるものです。その用途・機能の異なるものをなぜ、無理やりに関連付け、結び付けようとするのか、その意図・狙いはどこにあるのか、私には実に理解不能です。

 貴方は、『私が伝えていたのが明らかな誤りなら訂正が必要です云々』と言われております。

 しかし、そうゆう問題ではなくて、そもそも俗説それ自体が、真実なのか否かを(とりわけ先入観という言わば洗脳を一旦、解除し)貴方の頭で考えて頂きたいということを申し上げているのです。その判断の結果がどうであれ、他人の頭ではなく、自分の頭で考えるというその行為そのものに価値があると申し上げているのです。

 然らば、その「トンファーの起源はいかに解すべきか」であります。逆に言えば、なぜ「石臼取っ手説」は俗説なのかということです。その論拠を提示して検証するということです。

 とは言え、ここまでの説明はあくまでもその前半であり、序章であるとご理解ください。なぜならば、まず、そのようにしてことの背景・土台・根幹の部分明らかにしないと物事の本質には迫れないからであります。

 残念ながら、既に文字数も尽きておりますので、これについて第二部として次回に改めてご説明いたします。
posted by 孫子塾塾長 at 14:36| Comment(3) | TrackBack(0) | 時事評論